2007年12月29日土曜日

いいわけなどしない酒―池波正太郎を歩く―

  堀部安兵衛④(毎日新聞:平成19年12月26日須藤靖貴)に、人生を簡潔に表現した次の言葉があった。
  「人生いろいろある。敬した先輩や親しんだ女性に裏切られることも、最愛の人や恩師の死に立ち会うことも。そんな時、安兵衛のような男は、背筋を伸ばして酒を呑む。亡き父の『何事にも見苦しき、いいわけはせぬぞ』という遺言を思い出しつつ……。」
  人生には、いつどこで、どんな形で、苦しみ、悲しみに遭遇するかわかりません。
  もちろん親身になって励ましてきた人や交際していた人に裏切られることだってあります。そんなとき、深く落ち込み、塞ぎこみ、もう誰にも親切にはしないと思ったりするものです。裏切りは絶対に許さないという感情を抑えきれないでいると凄惨な事件を引き起こしてしまいます。最愛の人との死別が突然起きたときなどは、当分立ち直れない日々が続くのは当然のことです。現実を受容するのは、口でいうほどた易いことではありません。気が変になってしまう人だっています。
  これは、自分の因縁がそうさせているものではないのか。自分も人を裏切ったことはないのか。自分でそんなことはないと思っていても、ひょっとしたら相手を傷付け、落ち込ませていたことがあったのかもしれない。今の自分の苦しみは、その投影なのだと思うことができると、必ず立ち直れるような客観的な動きや状況が出てきます。何度となく、悩んだあげく、こだわりの心を捨てることができたとき、心のどん底から立ち直っていく道筋が開けます。
  落ち込んだとき、塞ぎこんだとき、感情の高ぶりを押さえられないときに、自分の心を少しでも冷静に理性ある行動へ導こうとする一つの方法としては、まず自分の家の仏壇の前に座ることです。自分を生んでくれた両親、そして先祖の前で、いいわけしなければならないような自分にはなりたくないですね。安兵衛のように、背筋を伸ばして酒を呑んでもかまわない、どんなとき、どんなことでも、本当に見苦しいいいわけをしないでよい人になって立ち直りたいですね。

2007年12月23日日曜日

「まねき」と松竹梅

  今日(H19.12.23)の毎日新聞「ひと」欄に、川勝清歩(かわかつせいほ)さん(74)=(故竹田耕清さんの弟子)に関して次のことが記載されていた。
  「京の師走を彩る南座の『吉例顔見世興行』(26日まで)。劇場正面の『まねき』には、出演する歌舞伎役者の名前がずらりと並ぶ。すき間なく客で埋まるよう、長さ180cm、幅33cmの板いっぱいに独特の丸みを帯びた勘亭流の文字を躍らせる。書く前に、すずり代わりのすり鉢に注ぐ猪口(ちょこ)2杯の酒はお清めだ。書き損じなど一度もない」
  この記事には酒の銘柄が記されていないが、「松竹梅」と聞いたことがある。この酒は、まさに清めのお神酒であり、お神酒を付けた筆を持つ手は神の手となる。「まねき」の文字に書き損じなど起きないのは、神の手で書かれているからであろう。
  私が、神仏の参拝や供養に使用している酒は、「月桂冠」徳利形ワンカップ瓶を使うことがあるものの、使用後、その空き瓶に「松竹梅」を入れて使うことが多い。「まねき」で同じ銘柄の清酒を神の清めの酒(お神酒)として使っておられることが分かりうれしい。やはりお神酒としては最適だった。

2007年12月20日木曜日

宝塚ミュージカル「長崎しぐれ坂」を観て

  BS2で放映された宝塚歌劇星組公演のミュージカル「長崎しぐれ坂」(榎本滋民作「江戸無宿より」)の録画(2005年のもの)を繰り返し見ていたら深夜になっていた。
  この物語の筋はともかくとして、謡曲や三絃ほかのお囃子が入る日本歌舞伎の舞を思わせる「プロローグ(神田明神祭り)」、長崎情緒たっぷりの「蛇踊り」と「丸山花街踊り」や「精霊流し」等の舞踊についつい見とれてしまった。なかでもで仙堂花歩が「花の遊女」を歌い、松本悠里(専科)が花魁姿で舞う「丸山花街踊り」はすばらしかった。太夫(こったい)といわれる花魁が赤色の右襟を見せて着物を着るのは正五位という高位にいることを示している。
  当時の星組女役のトップスター壇れい(おしま役)は、どこか女優宮沢りえに似た感じのする人で、その芸者姿を観ていると、故養母のことを思い出した。養母は、花柳小菊、若村麻由美に似た人で、和服を着こなし、舞踊や調方の三絃、筝などの芸ごとを一通り修めた人だった。また宝塚その他の歌劇の観劇も好きだった。私の歌劇観覧好きは、この養母の影響があるのかもしれない。
  今、一番素敵に思っているミュージカル女優は新妻聖子だが、若い時代は、宝塚星組の元男役トップスターだった寿美花代が好きで、財布の中味を気にしながら日比谷の宝塚劇場に通ったこともあった。ただ切符売り場の前で、女性ばかりの列に並んでいるとき恥ずかしいと思ったこともあった。
  現在、毎夏大濠公園能楽堂で行われる西山村光寿斉の筑紫舞定期公演を観賞したりはしているが、最近、小学生の孫が日本舞踊を習い始め、1月にある発表会で藤娘など2曲舞うと聞いて、かなりびっくりした。この孫は、どこか上述の養母の仕草と似たところがあるので、その見えない養母の手ほどきがあればかなり上達するのではないかと思っている。
  「長崎しぐれ坂」の舞台は、長崎唐人屋敷で、この地区一帯は中国南京地方の海難守護神である媽祖神(天后聖母)等に守られた坂の町であったことを思い出した。唐人屋敷の出入り口にある広馬場商店街の道筋をしぐれ坂と言ったのだろうか。
  「丸山花街」は、東検番愛八(松尾サダ)がレコードに吹き込んだ「ぶらぶら節」(吉永小百合主演の映画がある)の舞台だが、その歌のなかにある「遊びに行くなら花月か中の茶屋、梅園裏門たたいて丸山ぶらぶら」の歌詞に沿うように、以前、思案橋電停から花月へ、坂道を登って梅園天満宮、中の茶屋あたりまで歩いた記憶がある。
  また、以前、「精霊流し」を持ち歌にする長崎出身の歌手「さだまさし」作のテレビドラマ「精霊流し」を見たことがあるが、このさだまさしが長崎市内で経営していた喫茶店(現存不明)に行ったことも思い出した。「蛇踊り」の発祥は唐人屋敷土神堂と聞いたこともあるが、現在その主舞台となっている諏訪神社にも数回参拝したことがある。
  今月初めには長崎市内の某家の仏壇供養に行くなど、これまでたびたび長崎を訪れているものの、未だ「精霊流し」や「蛇踊り」等の実物見学の機会になかなか恵まれない。
  なお、「長崎しぐれ坂」の脚色・演出は植田紳爾、当時の男役トップスターは湖月わたる(捕り方卯之助役)で、選科の轟悠(無宿人伊佐地役)が主演。
  また、檀れいは、この作品を宝塚退団公演とし、退団後、映画「武士の一分」にヒロイン三村加世役で出演し主役木村拓也(三村新之丞役)をしのぐ好演技をした。最近では「母べえ」(2008.1.26全国ロードショー)に野上久子役で出演し演技派女優としての道を確立しつつある。

2007年12月10日月曜日

「風林火山」二群雄の大将旗に現れる神仏

  NHKの一年に亘る日曜大河ドラマ「風林火山(山本勘助役:内野聖陽)」もいよいよ来週最終回、最大の川中島の戦いのクライマックスを迎える。 きはき
  このドラマに出てくる川中島で戦った二人の群雄、武田信玄(配役:市川亀治郎)と上杉謙信(配役:ガクト)の「大将旗」を見ていると、それぞれが深く神仏を尊崇していたことが分かる。少し調べたので次に紹介する。
  まず、武田軍のシンボル旗は、ドラマのタイトルそのものの「風林火山」の旗だが、もうひとつ大将旗として、本陣を守護する諏訪大明神の旗が立てられている。この大将旗の制作経緯は、ドラマのなかでも出てきたが、武田信玄(晴信)は、軍神としての諏訪大明神を崇敬しており、自ら筆で「南無諏方南宮法性上下大明神」と書いた。
  諏方南宮とは諏訪大社、上下大明神とは、諏訪大社の上社と下社の大明神という意味で、その「上社」大明神の本地仏は「普賢菩薩」で、「下社」のそれは「千手観音菩薩」である。
  法性(ほっしょう)とは神仏の真実の教えを敬うという意味ではないかと思う。神仏習合の時代背景があり、信玄が私淑した快川(かいせん)国師が住寺した恵林寺(臨済宗妙心寺関山派、信玄牌所、塩山市)には、信玄が描き礼拝した「渡唐天神像」が残されているというので、この法性には諏訪大明神を初めとする神々、そして大乗仏教の諸仏を崇敬しその守護を願うという意味がこめられていたのだと思う。実に信玄の神仏信仰は、宗派を超えて幅広い。
  なお、上述の快川は、信玄の跡を継いだ四男諏訪勝頼が滅した後、炎上する恵林寺山門上に端座して有名な「安禅不必須山水滅却心頭火自涼(あんぜんは、かならずしも、さんすいをもちいず、しんとうをめっきゃくすれば、ひおのずからすずし)」の一句を唱え、武田家滅亡に殉じたとされる。
  一方の上杉軍の大将旗には、「毘」の一字がたなびいていた。もちろん「毘沙門天」の「毘」である。
  上杉謙信(長尾景虎)は、七歳のときから林泉寺の天室光育禅師に預けられ、「毘沙門天」を自らを守護する本尊として崇めるように指導されたのではないかという。越後春日山城は、位置的に京都の北面にあるので、京都を原始仏教経典に出てくる須弥山(しゅみせん)に見立てて、須弥山の宮殿に住む「帝釈天」に従侍しながら須弥山の北面に住み北方を守るという「毘沙門天」を信仰し、自らはその化身であると信じたようである。
  なお、東方は「持国天」、南方は「増長天」、西方は「広目天」で、北方の「毘沙門天(多聞天ともいう)」を合わせて四天王というが、このなかでは「毘沙門天」が最強という。
  慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」に、船中の安全を阿弥陀如来の脇侍観音に祈願したら、観音は三十三身に変化した後、毘沙門天になって現れたという記述があり、まさに謙信は、それを知っているかのように「阿弥陀念仏」と「千手観音真言」も春日山城の看経所(読経所、お堂)で看経していたというからすばらしい。
  もう一つ「毘」の旗に並んで大将陣に立てられた「龍」の旗がある。彼が「越後の龍(神)」と称されて恐れられていたことを象徴するような旗である。竜神信仰もあったものかと思うが、彼の勇猛で実直な性格を現しているのかも知れない。
  参考文献「武田信玄と快川(小林圓照)」「上杉謙信と毘沙門天信仰(杉原哲明)」(大法輪第58巻第5号)。

2007年12月9日日曜日

新妻聖子は趣味悠々に出演しています

  ブログに3回、ミュージシャンの新妻聖子のファンである、というようなことを書き込んだら、時々「新妻聖子は、どんな感じの人ですか」と聞かれることがあります。会って話したことがあるわけではないので、この問いに対する返答には苦慮します。今、新妻聖子は、NHK・TV趣味悠々「簡単!ソックリ!似顔絵塾」(12月までの毎週水曜pM10時放映)にアシスタントとして出演しているので、ぜひご覧になって、どんな感じの人なのか推察してください。
  最近、出演しているミュージカルは、日本初演(12月7日ル・テアトル銀座で開幕)の「ライト・イン・ザ・ピアッツァ」で、クララ役を演じているそうです。この劇には、スケッチをするシーンがあり、上記「似顔絵塾」で学んだ技術が生かされたそうです。
  また、歌では最近「ヴァージン・ロード(売野雅勇作詞、キム・ヒョンソク作曲)」という新曲をレコーディング(3rdシングル)したそうで、発売は2008.1.16とか。
  ただ、私が一番好きな彼女の舞台は、上記のTVを観て受ける明るくユーモラスな感じとはまったく違うきつく凛々しい「サド侯爵夫人」です。

2007年12月8日土曜日

風の果て尚足を知らず…

  毎週観ていたNHK木曜時代劇「風の果て 尚、足を知らず(原作藤沢周平)」が終わった。主席家老にまで上り詰めた主人公の桑山又左衛門(佐藤浩市)が隠居を前にその妻満江(石田えり)に語った言葉が印象的だった。
  「おやじ殿は今わの際に『風の果て尚悟れず』とおっしゃったがそのとおりだな。この歳になってもまだ足るを知らん、欲張りだ。だが体がついて行かん。」
  この主人公は、欲はあるが、老いには勝てないことを悟っていますね。
  人は、生きている限り欲があり、逆に欲があるから生きていけるのであり、欲を捨てることを悟りというのなら、なかなか生きている間に悟りを開くことは難しいですね。だから、人は、死ぬ間際に悟ることができれば、それで幸せなのかも知れません。つまり思い残すことは何もないという境地です。そうありたいですね。
  でも、人は反省したりして、その瞬間、瞬間で悟っていることは多々あります。神仏を信仰する人は反省するとき、神仏の前で合掌をしますね。この合掌は、和合や感謝の形であり、悟りの形を現しているのかも知れません。
  合掌しているとき、心が静まります。合掌しているその手と手に温かみを感じますね。そのとき、自分は今神仏の気に包まれて、手に神仏の気が入ってきている、この手は神仏と自分が一体になっている手なのだと感じてください。
  そして、自分が生きている間にすべきことがあるから神仏に生かされていると悟ることができたら、その生き方を知ることができます。そしてまた力強く生きていこうという欲がでたらよいのかも知れません。欲があるから生きられる、これがわかっただけでも悟りましたね。そして、死ぬときに、あの世に持って行くものは何のないと悟れば良いのです。
  ただ神仏を信仰する人が生きている間にすることは、少しでも欲を徳に変えていくことかも知れませんね。

2007年12月5日水曜日

「ちりとてちん」と「たんぽぽの花」

  初冬に咲いていた「たんぽぽの花」を見てNHK・TVの連続ドラマ「ちりとてちん(藤本有紀作)」の一場面を思う。
  先月末、約1か月半に亘る歯の治療を終え、ほっとして歯科医院駐車場に戻ったとき、車の後方にあるミカン畑に目が行った。数本の樹木に取り残された数個のミカンが縮こまったように実っていた。その手前の樹木の根元に鮮やかな黄色の花を咲かせている一輪の「たんぽぽ」の花に目がとまった。初冬に春の盛りを告げる「たんぽぽ」の花が咲くとは、暖冬なのだろうか。「たんぽぽ」は私の大好きな花なので、やはり目にとまるようだ。その辺り一帯に「たんぽぽ」の葉が、地面を這うように羽を広げていたが、この一輪以外に茎を伸ばしているものはなかった。
  この「たんぽぽ」を見て、「ちりとてちん」で毎回のように徒然亭草若師匠(渡瀬恒彦)が落語のなかで「たんぽぽの花盛り」と喋る部分が出てくるのを思い出した。この落語は、この師匠の十八番「愛宕山」で、「たんぽぽ」は、そのほんの一部分の語りのなかで出てくるだけだが、物語を知る上では重要な役割を持っている。
  「…御所からどんどん西へ出て、野辺へ出てまいりますと、春先のことで、空には、ひばりが、ぴーちくぱーちく、さえずって、下には蓮華、たんぽぽの花盛り、陽炎がこう燃え立ちまして、東山には霞の帯をひいたように…」 。
  「たんぽぽ」は、やはり春を象徴する草花の一つであるが、この物語には、もう一つこの師匠のなくなった最愛の妻(藤吉久美子)の面影とも重なっている。
  第40回で、この師匠の妻のことを、3番弟子の草々(青木崇高)が主人公和田喜代美(貫地谷しほり)に話す部分があった。
  「おかみさんは、お囃子さんやったんや。師匠の高座のはめものは、たいがいおかみさんがやってはった。不器用な人でなあ、家事も三味線も何をするにも一人前になるまで人の倍の時間かかってはった。たんぽぽの花が好きで、本人もたんぽぽみたいな人やったなあ。おかみさんがいてはるだけで、何や気持ちが明るうなった。そこだけいつも春の陽だまりみたいな、暖かいんや」。
  このドラマは、家族愛というテーマを喜怒哀楽を語る落語という世界のなかに押し込めて展開するところに見る人の心をひきつけてやまないものがあるのではないかと思う。私たちも「たんぽぽ」のような暖かい人になりたいですね。
 ☆画像は、早々役の青木崇高、http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/080227/...からお借りしました。

2007年11月30日金曜日

「魁皇」カド番脱出に思う

  さる平成19年11月24日の大相撲九州場所14日目に、大関魁皇が琴光喜を下手投げで破り11度目の大関陥落のカド番を脱出した。負け越せば引退と言われていただけに、喜び一塩であったろう。来場所も取り続けると決意を表明した。満身創痍の35歳で、もう横綱への夢は絶たれたが、それでも頑張り続ける姿は、痛々しくもあるけど、フアンとしは勇気付けられる。 のりのり
  今でも、横綱に推されても良い時期に、横綱審議会に要請しなかった北の湖理事長の先見の明のなさを残念に思っている。いろんな業種においてもトップの先見の明のなさが、その後の社運、人心を傾かせることがある。私は、相撲人気の大下降、不祥事の多発、九州場所の不入りの原因のひとつは、この理事長の先見の明のなさにあるのではないかと思っている。
  翌25日の毎日新聞に、10日目に魁皇を破った豊の島は取り組み後、「空気をよめよ」という雰囲気があった、升席から「こういう時は負けるもんだ」との声が飛んだ。という記事が掲載されていたが、勝負の世界に甘えは許されないものの、この「空気を読め」という言葉には、どこかうなずかされる。先見の明には、この空気を読む力も必要なのではないのか。
  なお、私の家族は全員、魁皇ファンなので偏見があるかもしれない。娘は独身時代に魁皇に書いてもらった色紙を今でも大事に家に飾っている。

フタタ志免店の女店員の対応の良さ

  初めて妻とフタタ志免店に行った平成19年11月23日のこと。この店のことは、娘から聞いた。
  店舗内に入り、ハーフコートを探していたら、女性店員が寄ってきて「コートをお探しですか」と声をかけられたので、「はい」と返事したら、すかさず「こちらのはいかがですか」と言われた。「レザーは好きじゃない」と言うと、すぐにその横にあったポリエステル生地を勧められた。店員が私の背格好を見て、手にされたものを試着したら、寸法も丁度で、着心地もよく、即座に見事な見立てだと思った。
  「このコートは、当店の推奨品で、軽くて着心地もよく、中の生地は取り外しができます」「今は、オープンセール中で、お買い得です」などと親切に説明をされた。客扱いの上手な店員だった。もちろん即決で購入した。
  妻が支払いをしている間、玄関付近つるしてあった安いネクタイを手にして見ていたら、妻がその店員と近寄ってきた。実は、その横に吊るしてある靴下を、「今、靴下5足セットを特価で販売していますが、いかがですか」と勧められたためだった。
  さらに、「ネクタイをお探しですか」と言って、すぐにネクタイを手にして「これなどいかがですか」と言われた。こんなに安いネクタイまで選んでもらい恐縮したが、見ると流行色のセンスのよいものを選んでおられた。その販売熱心さもさるものながら、見立ての速さにも感心した。
  ポイントカードも勧められ作成した。考えてみたら、この店員の勧められたものはすべて購入していた。支払いが終わった後、玄関まで買ったものを持ってきてくれた。
  初めてこの店に来たが、この店員のソフトタッチのそつのない対応や、それと感じさせない販売意欲は、この人の持ち味なのだろうと思った。妻も、ほんの少し予定外の買い物をしたけど、この店員の対応には「感じの良い人」と言って満足していた。社員教育をしっかりされ、よい店員を雇われている店だと思った。
  私は、この店員を見ていて、昨年、順次、私の許を巣立っていった4人の女子社員のことが思い浮かんだ。この4人も、この店員と同じくらいすばらしい天性と個性の持ち主で、感じがよく、多くの客から好かれ、評判の高い人たちだった。
  この日、わずかな買い物ではあったが、フタタ志免店で買い物してよかったと思った。

2007年11月24日土曜日

「花いくさ~京都祇園伝説の芸妓・岩崎峰子」を観る

  昨日、フジTV(TNC)で、京都祇園甲部の芸妓岩崎峰子の波乱の半生を描いたドラマを見た。 はし
  4歳で置屋「岩崎」の門をくぐり、一見華やかに見える祇園の、その裏に潜む生々しい女のいくさの世界のなかで力強く育っていった彼女の生き方には、前々から敬服し、以前、彼女が書いた本「祇園の教訓」を買って持ち歩き何度も読んでいたことがあった。彼女は、岩崎家の跡取りとして、1965年舞妓となり、その翌年から6年間売り上げナンバーワンを記録した伝説的な人である。
  このドラマでは、恋に翻弄される女たちの姿を中心に描かれていた。峰子も俳優高宮(仲村トオル)に恋をするが、やがてその恋を自ら断つ。この峰子役を井上真央が演じていたが、どこか若い頃の峰子の写真に似ていると思った。実際の峰子も、この役のように感性が強く毅然とした人であったのだと思う。
  そして、憎まれ役の姉を戸田菜穂が演じ、ドラマを盛り上げた。私は、戸田菜穂が出ているテレビは目ざとく見ており、彼女のことになると少し贔屓目になってしまうので、ここでは述べない。
  ところで、私が岩崎峰子のことを知ったのは、2005年に読んだ「生命の暗号(樹門幸宰著)」だった。彼女は、岩崎家の養女になる前から数えて4回名前を変えて、現在は「岩崎究香」の名で著述業などで活躍中という。「究香」と書いて「みねこ」と読ませるのだが、彼女は「香りを究(きわ)める」という名前で随分と気に入っているという。
  なお、この本が述べている名前の解読法は、すっかり忘れてしまったが、「名前は魂と結びついている」「姓名には魂の暗号が仕組まれている」「満ちれば欠ける、欠ければ満ちる家三代の興亡の法則」等の内容にはうなずけることが多々あった。
  (追伸) 私の知人に同じ字で峰子という人がいる。女性では珍しく御守護霊に男神がつかれている。そのための辛苦を舐められてはいるが、徳を積みそれを乗り越えるだけの精神力も身に付けられている。正義を貫く心情の持ち主ではあるが、情も深く、私にはとても真似ができない強い人生観を持っておられる。その生き方を見ているといつも励まされている。同じ名前から受けるイメージはよく似ていると思う。
 ☆画像は、井上真央と戸田菜穂、http://www.fujitv.co.jp/hanaikusa/story.htmlからお借りしました。

英彦山麓大混雑で登山断念

  昨日、久しぶりに車を飛ばして英彦山に行った。前回行ったのは平成8(1996)年11月だから、今月は丁度11年ぶりになると張り切っていた。当時なかった新道(車道)ができているので、銅の鳥居まで快適に登って行けることを想像して運転していた。しかし、新・旧道の分岐点付近から渋滞して、のろのろ運転になった。ここで約1時間かかり、やっとの思いで「しゃくなげ荘」に着いた。これではいつ銅の鳥居に到着するかわからないと思い、ここで登山を断念した。
  多分、この多くは「紅葉狩り」に来られている人たちではないかとは思うが、英彦山は、今や銅の鳥居から奉幣殿まではケーブルカーも開通して、信仰や登山者の山から観光の山への比重が大きくなっているのかも知れない。今後、休日に登山するときは、夜が明ける前に到着するような計画を立てて出かけねばならないと思った。
  英彦山の紅葉といえば、若い頃、山中の岩壁に如来の梵字が刻み込まれている「梵字岩」を登拝したとき、その前で見た紅葉の鮮やかさが今も脳裏に残っている。以後、どこで紅葉を見ても、これを超えるものはないと思っている。
  「しゃくなげ荘」にはレストラン、天然温泉があったので、温泉に浸かっていくことにした。露天風呂でゆったりした気分になったとき、ここが、すっぽりと山の神の霊気に包まれていることに気づいた。考えてみると、英彦山神宮の一の鳥居は麓の谷川沿いにあったので、そこから既に神域に入っていたのである。そうすると、渋滞でのろのろ運転をしていた間もずっと山の神の霊気をいただいていたことになる。
  やはり英彦山は、修験の山で、山全体が神の霊気に包まれているようだ。このことを改めて気づき、同時にこの山の神の恵みをいただいたことが分かった。登山は断念したものの気分爽快となり、ありがたい気持ちで帰路につくことができた。これも正見行脚だった。   

2007年11月19日月曜日

高島先輩の「地を這いて光を掘る」を読んでいて思い出したこと

  西日本新聞の「聞き書きシリーズ」に、現在、佐賀女子短大学長である高島忠平先輩の「地を這いて光を掘る」が連載されている。全国的にその名が知られている国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」の発見と発掘に直接関わった高島先輩が、現在に至るまでの辛苦を思い出風に語られている。読んでいると先輩の心の中の動きまでがありありと分かり興味を引く内容となっている。
  私も、これまで何度か吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあるが、行くたびに周りの様子がめまぐるしく変わっており戸惑いを覚えた。今は、発見当時の様子を偲ぶことができないほど整備されているが、私は吉野ヶ里の吉野という地名に興味を持っていた。金峯山寺のある吉野山の吉野と同じ地名のためではあるが、その地名の由来を尋ねようとして、いつの間にか放置している。探究心の放置は若さの喪失かもしれない。
  さて、私が高名な人を捉えて「高島先輩」と書いたのは、高校時代に入部していた郷土部の3年上の先輩だったからであるが、入学当時、浪人中であった先輩は、たびたび部室を訪れ、熊大に進学された後も熱心に後輩部員の面倒を見られた。私もこともほか可愛がってもらい、郷土史研究の手ほどきを受けたことを今でも大事な思い出にしている。
  シリーズの第26回(11月15日)の文中の「僕は1939(昭和14)年、福岡県飯塚市のうまれ、ただ、おやじとおふくろは佐賀県の三瀬村(佐賀市)出身です。おやじの妹夫婦が…吉野ヶ里にも近い仁比山(神埼市)という集落に暮らしていて」という語りに思わず目が留まった。そして、忘れかけていた次のようなことを思い出した。
  ①高島先輩の御両親の出身地が佐賀県であることをいつ耳にしたかは、はっきりとは覚えていないが、確かお母様のご先祖が私と同族であったような記憶がどこかに残っている。また、ラグビーをされていた長兄の啓介氏は、私の大学の先輩であった(第29回に掲載あり)。
  ②以下の記述は、高島先輩とはまったく関係のないことで、上記の地名(神埼市)を見ていて思い出したことである。
  先祖のルーツを求めて各地を行脚していた頃、佐賀県下にも足を踏み入れた。高速道路もない時代に、それこそ休みのたびに佐賀県下に足を伸ばし走り回っていた。当時どうしたものか、俗に言う「霊を受け被る」状態が続き、その流れのなかで長い間、神社の鳥居をくぐることができなくなっていた。
  ところが、神埼市の櫛田神社の鳥居の前に立ったとき、突然、すっと体が引っ張られ、そのままさっと歩き出して鳥居をくぐって境内に入った。同行していた一教師が、びっくりして思わず「先生!」と叫んで呼び止めたほどだった。そして、思いもしなかった場所にあった櫛田の神の霊地に導かれた。今でいう正見行脚の記念すべき一瞬で、この日を境にいずこの神社でも鳥居をくぐれるようになった。ここは、博多の櫛田神社の元宮のようである。  さらにその後、仁比山の外れにある霊地に導かれて行ったことなど、いろいろ忘れていたことを思い出したのである。
  ③ついでにいうと上記記事の地名からは少し離れるが、当時の佐賀県下での行脚の最後となったのが武雄市の松尾神社であった。この松尾神社の境内に入ったとき、ゲートボールを楽しんでおられた老人が側に寄ってこられて拝殿に案内され、その扉の鍵を開けられて、かしこくも御一緒に参拝されたのである。やむを得ずは白衣を羽織り当時覚えていた祝詞をあげたが、不思議に思い尋ねたら、「あなたが神官だから」と言われた。これと同じようなことが他の地でもあり、その場にいた人には、私にはまったく見えない御守護霊のお姿が見えていたのかも知れない。以後、まったく同神社に行ったことはない。 なお、上述②の博多の櫛田神社境内にも松尾神社がある。
  ④また、脳裏にあった先祖とも関係のある千手観音のある場所を求めて佐賀県下に入ったとき、神仏に導かれるように潮塞観音(福冨町)に行き着いたことがあった。大正3年8月、台風による高潮被害を食い止めたところからその名が付いたという。その後数回参拝に行ったものの、平成6年8月27日を最後に以後訪れた記録がない。
  高島先輩の新聞連載を読んでいて思わぬことを思い出したものだ。そして、私は、忘れかけていたこれらの地区に「再度思いを馳せよ」という知らせを先祖から頂いたのではないかと思った。私の正見行脚の修行は、高年の域に達して「再度振り出しに戻ってやり直せ」といわれているのかも知れない。

2007年10月26日金曜日

緒方1・・・緒方町への誘導

平成19年10月14日のこと
  念願であった大分県豊後大野市緒方町に日帰りで行った。直入から先は、地図に載っていない山間道路をどこをどう通ったかわからないまま車を走らせた。やがて「左神角寺、右朝倉文夫記念館」の表示のある三つ角に出て右に曲がった。
  神角寺は、機会があれば訪れたい真言宗の寺院で、現在、大友氏が建立した宝形屋根の本堂(国指定文化財)が残っている。
  1196年豊後守護職大友能直の入国に反抗した豊後大神姓大野泰基は、豊後武士団棟梁の同姓緒方三郎惟栄を失った後、残された武士団を結集して神角寺に立て篭もり奮戦したが、大友一族の古庄四郎亘能(重吉)に討たれた。豊後武士団は、源平の戦いで源氏方に味方して平氏滅亡への功績をあげたが、鎌倉幕府成立後は、源氏の大友氏入国に反抗しその多くが壊滅した。大友能直は、その武士団の怨霊を鎮めるために、後に緒方二の宮八幡社に緒方三郎惟栄と大野泰基の霊を祀ったという伝説がある。
  当初、朝地町志賀から緒方町志賀に入るつもりにしていたが、もうこの先は地図を見ずに神任せで運転しようと思ったら、気分が楽になり、予定していた以外の道を通って緒方町に入った。

緒方2・・・緒方三の宮鎮座神の気を享受

  山道を抜け、緒方盆地の視界が開けたところにある交差点で、「原尻の滝⇒」の看板が目に入り右折した。ところが、数秒走ったところで自分でもわからないままに急に減速し停車した。
  不思議な力が働いたと思い、運転席の窓から右を向いたら鳥居があり、その扁額に刻銘された「三の宮八幡社」の文字が目に入った。さらに「緒方三郎惟栄造営」と書かれた立て札もあり、ここに誘導されたのだと直感した。
  鳥居をくぐると正面に真っ直ぐ登る高い石段があった。この日の正見行脚は、石段登りから始まった。最後の石段を登り終えたとき、左足の靴が脱げ、右によろけて転んだ。左側にいたPがびっくりして思わず右手を差し出したが、私は、右手を地につけてゆっくり体を起こした。そのとき、転んだすぐ右に注連縄を張った小岩があるのに気づいた。この岩は依(憑)代で、そちらに引き寄せられるように転んでいたのだ。
  転んだ私の体は、鎮座神の懐に優しく抱かれていたようで、どこも怪我はなかった。Pの手にはオーラが出ていた。 このとき、境内には鎮座の神々の気が満ちており、同時にその気を享受していたのだった。

緒方3・・・緒方三の宮拝殿の芳名

  Pさんに、拝殿に置いてある参拝者芳名帳に、「今日の日付と名前を書くように」と言った。Pさんは、先祖とかかわりのある神霊の在する神社にその名前を残すことで、鎮座神に見守って頂ける。
  拝殿内に掲示してある寄付者名簿を見ると、緒方姓の人は宮崎県在住の1人のみであった。緒方三郎惟栄滅後の緒方氏は、豊後守護大友氏のもとで衰退し、地元ではその名籍が隠れたのかもしれない。だが、「三代」という姓に目が留まった。緒方氏三代目の子孫から出た姓か、又は三は緒方三郎惟栄のことで、その神霊を崇める依代となるという意味からつけた姓か。あるいは緒方三郎惟栄造営の三の宮の神の依代を守るとしてついた姓だろうか。いろいろ想像していると ロマンは尽きない。
  緒方氏とその同族大神姓各氏の多くは、鎌倉時代に入る前後に消えたとはいえ、時代を経て今に緒方町ほかの地名を残している。また、姓を変えてもその血脈は連綿とし継がれていると考えてもよさそうだ。なお、同名簿で、拝殿等の屋根瓦を葺いた業者がM姓であったことがわかり、当一族とも縁のある地だと思った。
  拝殿前でお賽銭を上げ、型どおりの参拝を済ませ、登ってきた石段を下りた。神社前に停めていた車に乗ったとき、どなたかが複数、一緒に乗り込まれたような気がしたが、よくわからないまま、この山裾の「緒方井路上線」沿いの通称「水車通り」を原尻の滝に向かって走行した。なお、この下方の田の中を走る水路が緒方井路下線で、田植え期にはこれら上下水路で水車が回り明媚な風景が出現するのではないかと思う。

緒方4・・・原尻の滝と緒方三社

  東洋のナイヤガラとも称される「原尻の滝」に至る。緒方川の段差を流れ落ちる滝で、水量も多く壮観で、幅120m、高さ20mあるという。観光客も多かった。歩くたびに揺れる「滝見の吊り橋」を渡ってみたり、滝下の川原にも行った。またここにあったパンフレットに原尻の滝ぐるりイラストマップが載っていたので、周辺の地形概要がわかった。
  原尻の滝のすぐ上の川のなかに八幡神を表す「朱色大鳥居」が立っていたので、ここが、三の宮(神功皇后)の神輿が二の宮(応神天皇)に御神幸するときに渡る「緒方三社川越祭り」の場所だと思った。その日は一の宮(仲哀天皇)の神輿も二の宮に集う。この川越祭りは、旧暦10月15日に近い土、日曜日に行われるので、今年は11月24、25日の夜に行われるのだろう。対岸の山際で鳥居が見えている所が二の宮であろう。
  なお、この緒方三社はすべて八幡社で、緒方三郎惟栄創建当時、緒方荘は宇佐八幡宮の荘園だったので、その造営に当たってこの八幡信仰の影響を強く受けていたと思う。

緒方5・・・緒方二の宮・一の宮へ

  先ほど「三の宮」前でどなたかが車に乗り込まれたような気がしていたが、再び車に戻ったとき、2体の神霊を感得し身震いした。とっさに、二の宮と一の宮の神霊ではないかという思いが脳裏を走り、同時に対岸にある二の宮と一の宮に行かねばならないと思った。
  対岸に行く道を思案する間もなく、気付いたら上流に見えていた趣ある5連アーチの石橋、「原尻橋」に向かっていた。文化財的なこの石橋を車で渡れるのかという心配をしていたが、幅の狭い橋上では対向車もなく難なく渡れた。どんどんと同乗の神霊に引っ張って行かれている感じだった。
  山際の集落に入りすぐの交差路を左へ、「二の宮八幡社」前で停車した。先ほど見えていた鳥居のある場所だった。車窓から、石段上にある立派な社殿を垣間見上げたが、下車せずUターンした。
  登拝しなかったのは、車を下りられた神霊から「当所下乗及ばず再来あれば参内されよ」という神示を承ったからであった。三の宮から、車が神輿となり二の宮の神霊を送り届けたということだった。お陰で車内がきれいに修祓されていた。
  先ほど三の宮に行ったとき、一の宮と二の宮の神霊もそこにおられたから、境内に神々の気が充満していたのか。そうとも知らず、何のお供え物も用意せずに訪れ申し訳ないことをしたものだ。
  先ほどの交差路を左に登ると隋道があり、その手前に左に登る道が見え、一瞬この先に「一の宮八幡社」があるのではないのかと思ったが、直進した。この先の三つ角を左折すると、道路の右に大きな赤鳥居があり、そのそばにある「←一の宮、幸福神社」と書かれた小さな木札が目に留まった。左に行くには、徒歩で家と家の間の小さな路地を抜け、山道を登らねばならない。幸福神社は、山寄り左側の民家の庭先にある稲荷社だった。
  一の宮の神霊は、「機会あれば再訪」と告げられ、一直線に山手に去られた。これ以上ここいる必要はないと感じ、次の機会があることを願いつつ車に戻った。

緒方6・・・緒方宮迫西・東石仏と緒方三郎惟栄

   「国指定史跡・緒方宮迫西石仏」の看板が目に入ったので車を停め、石段道を歩いて登った。入口付近に一対の常夜灯があり、登り詰めたところにある岩窟には、彩色を施した立派な三体(薬師、釈迦、阿弥陀如来)の磨崖仏が鎮座していた。
  また、この東、約200mの岩窟にも「緒方宮迫東石仏」(大日如来、不動明王、不明2体、多聞天、仁王像、宝塔2基等)が鎮座していた。この参道にも一対の常夜灯があった。
  この2箇所の石仏は信仰形態としては一連のものと思う。12世紀(平安時代)の造営で、造営の目的は不明だが、宇佐神宮や真言密教の影響を受けている。平安末期、緒方荘庄司緒方三郎惟栄は、これらの石仏の庇護をしたといわれている。
  緒方三郎惟栄は、豊後大神姓の姓祖大神惟基の5代孫で、同姓氏族衆から発展した豊後武士団の棟梁であった。「豊後国誌」によると、その大神氏の祖は、京都の朝廷から豊後に下向し、この地にとどまった豊後介大神朝臣良臣で、その子が惟基だという。大神氏は、大分川や大野川流域に根を下ろし、やがて強固な武士団として勢力を伸ばした。この大神姓氏族には、緒方氏を筆頭に臼杵、佐賀、戸次、大野、直入、朽網(くたみ)、稙田(わさだ)、佐伯、高田、阿南氏など37氏がいた。
  緒方荘は、宇佐神宮の荘園で、その庄司であった緒方三郎惟栄は、平重盛の御家人として宇佐神宮とは深いつながりがあったが、平重盛没後、後白河上皇から平氏追討の院宣を得て源氏に寝返り、1183年同族の臼杵惟隆、日田永秀らとともに大宰府に拠った平氏を襲撃した。
  また、1184年7月には宇佐神宮(宇佐八幡宮弥勒寺)を焼き打ちした。宇佐神宮が平氏一辺倒だったからだというが、その前に荘園の上分米を巡って宇佐神宮大宮司公道との確執があったからだという。同年11月周防にいた源範頼に兵船82艘を献上して、1185年3月壇ノ浦の戦いでの源氏勝利の魁となったが、先の宇佐神宮社寺の焼き討ちでの社殿、本堂、仏像破壊や虐殺による神罰を受けたのか、その後、急速に滅亡への道を突き進んで行った。
  同年11月、後白河院の命を受け大物浦(だいもつうら/尼崎市)で源義経を迎え豊後に向け船出したが、大風(シケ)で船団は壊滅し、沼田荘(群馬県沼田市)に配流された。源氏や後白河院に利用され、翻弄され続けた地方武士の悲哀をなめて鎌倉幕府成立前に歴史の舞台から消えていった。その後残された豊後武士団を統括した棟梁格の大野泰基も、鎌倉幕府軍によりあえなく滅亡した。
  豊後大神姓一族の繁栄は、緒方の里で築かれたというが、今回初めて緒方町に行って、緒方盆地の中央を流れる水量豊富な緒方川、緒方井路を通りその周辺に広がる水田に運ばれる水、これらの風景を目にしたとき、当時とどれほどの変化もないだろうと思った。この肥沃な土地を背景に繁栄の基盤を確立していったのだとうなずけた。さらに一族は、大野、直入、九住山麓の草原地帯で戦馬を育て、瀬戸内海周防灘に面する臼杵、佐伯港等にあった海部水軍を配下におさめ水陸に跨る豊後武士団を成立させた。

緒方7・・・緒方三郎惟栄館跡の五輪塔

  緒方町の田園の中を走る502号線沿いに大きな石塔が建つ杜と広場があった。ここが「緒方三郎惟栄館跡」だという。この石塔の後ろに緒方三郎惟栄を祀る小祠と鳥居があり、その傍らに五輪塔等の供養塔があった。 きき
  Pに「この五輪塔の空輪に手を当てて、その手で自分の頭をなでてください」といった。先祖に関わる神霊供養塔の守護をいただける。
  私は、以前Pに「行って何があるか分からないが、行くだけでも行ってみよう、それだけでも力をもらえる」と口にしていたが、行って見たら、その守護霊に導かれ数分の無駄もなく次々に必要な霊地を巡り、最後にこの地に導かれた。
  平成11年に景行天皇豊後霊地を巡拝した当時、緒方町に入れず、長い間心残りとなっていた。平成15年頃、Pと出会い、4年たって、その先祖の神霊地訪問に同行する形で実現し心残りを埋めることができた。
   

緒方8・・・緒方三郎惟栄に対する想い

  考えてみると、緒方三郎惟栄に対する私の想いは、かなり古い。
 ① 我が家の古い先祖の発祥伝承地の一つに熊本県菊鹿町松尾(松尾神社あり)があるが、この地を菊池氏が統治した時代に、菊鹿町にある相良観音(天台宗相良寺)で修行をされた先祖がいる。この相良寺は、平安時代初期に建立され、山上山麓に諸堂宇を整えた大寺院であったが、平安末期、緒方三郎惟栄に攻められ兵火で焼けた。その後、焼け残った千手観音坐像を山上から山麓に下ろし、菊地武光が寺院を再建、近世熊本藩主細川氏の庇護を受けたという。
  私は、昭和62年5月17日以降数回この相良観音参拝に行き、山上旧地には守護神に導かれ2度登り、旧本堂下壇跡や霊窟で礼拝をしたこともあるが、初めて行ったときに、この緒方三郎惟栄の名前を記憶したのであった。
 ② 緒方町に隣接している竹田市岡城跡で行われた金峯山寺五條順教管長導師による大護摩供に2度参加し、一度目のときに管長旗旗手を勤めたが、この岡城は、鎌倉時代初期、緒方三郎惟栄が、源頼朝と対立した義経を迎え入れるために築城したとの伝承がある。
 ③ 緒方三郎惟栄は、惟義とも書き、源平の戦いで松浦党の水軍を味方にしたと聞いたが、私の家の家紋は松浦党の丸に三星である。惟義の一字義は私の俗名と同じである。
 ④ 松尾大社と大和大神神社とは関係があるが、豊後大神姓緒方三郎惟栄の五代前の姓祖大神惟基の父良臣は大和大神神社から出た大神氏ではないかと思う。 
  私の正見行脚の修行で度々緒方三郎惟栄に行き当たり、いつしかこの名前に言い知れない想いが出来ていた。本日の緒方町の霊地行脚により、緒方三郎惟栄の輪郭の一部がやっと見えてきた感じがした。

緒方9・・・緒方荘志賀へのこだわり

  Pさんは、当初の予想を超える先祖の霊地を訪問できたことに満足されたようで、この後、立ち寄ったところはなかった。
  私としては、予定していた志賀地区に行っておらず、今から行けるものかどうかを探るべく緒方駅周辺の町並みに入ったが、導きを頂けないまま町並みを通り抜けてしまった。
  つまり、神々は、緒方町~朝地町にまたがる志賀地区を訪れる時期は「今日ではない」とされたのだろう。私は緒方氏発祥の地はこの志賀地区ではないかと思うところがあり、このこだわりが災いしていたのかもしれない。
  この志賀の地に対する私のこだわりは、次のようなものだった。
 ① かつて私の知人に尾形智矩(苅田町)という衆議院議員がいたが、この「尾形」は「緒方」と同じ発祥で、古代の海人族で「体に蛇の尾の形の入れ墨をした」ことから起こった姓である。
  緒方氏が海部(あまべ)水軍を統率したのは海人族としての血脈があったからではなかったのか。また、緒方氏の姓の由来が海人族の蛇の尾の形を表しているとすれば、海人族の蛇神ともいわれる海神を祀る福岡市志賀島の志賀海神社と結びついてくる。
  事実、「平家物語巻八・緒環」によると緒方三郎惟栄の5代前の始祖大神惟基は、大蛇(姥嶽大明神又は高千穂大明神)の化身を父として生まれたとあり、伝承ではその母が大蛇と会ったところが「宇田姫神社(清川村)」であるという蛇神伝承を伝えている。
  「豊後国志」によると大神惟基の父は大神朝臣良臣だと記してあり、良臣は大和三輪の大神神社の縁故者であると想像されるので、三輪山の蛇神伝説が付会して良臣を蛇神とし、宇田姫神社で出会った娘が産んだ子惟基を蛇神の化身の申し子としたのではないのか。なお、この三輪山の元は福岡県筑前市(旧朝倉郡三輪町)弥永の三輪山であると思っている。
 ② 緒方氏が領有した緒方郷(荘)志賀の地には、かつて志賀島の志賀海神社と同一神を祀る「志我神社」があったという。緒方郷(荘)、緒方氏は、志賀の海神を信奉した海人族であったところから出た地名、氏名ではなかったのかと思う。この志我神社は、朝地町志賀にある「若宮八幡宮」ではないかという。緒方荘は宇佐八幡の荘園だったので志我(志賀)神が八幡神に衣替えしてしまったのかも知れない。「大分県の歴史散歩」には何故か「志加若神宮社」とある。その場所については、私の手持ちの地図には載っていない。
  緒方三郎惟栄の後、岡城を整備した大友能直庶子家の志賀氏(八郎能郷)の出自が、この志賀の地だとしたら、多分この地の地頭職となって地名を氏としたものではないのか。
 ③ 私が、この志賀に特にこだわったのは、今も尊敬してやまない故藤井綏子さんから頂いた「古代幻想・豊後ノート」の中にあった次の指摘が頭に残っていたからである。
  つまり、「豊後風土記」の「大野郡網磯野(あみしの)」の項にある、「景行天皇が征定に来たとき「小竹鹿奥(しのかおき)、小竹鹿臣(しのかおみ)」の二人の土蜘蛛が天皇に食事を供した」という記事に注目され、福岡市の志賀海神社には「鹿の角」が保管されており、「鹿」という名が志賀(志我)に通じる、また景行天皇長征軍が戦闘に際して祀った三神のひとつ志我神に通じるという指摘である。ほかのニ神とは、直入中臣神(庄内町直入中臣神社)と直入物部神(直入町鶴田籾山八幡社)で、以前参拝した。
  私は、この指摘を読んで、この「鹿」という名を持つ土蜘蛛(土地神)の名から志賀という地名ができた。志賀神(蛇神)をいただくこの地区に起居する人々が、古代蛇神信仰者の名のひとつである緒方氏を名乗ったのではないのかと思ったのである。もとより何の根拠もない。
  多分、これらのこだわりが災いして、本日いきなり志賀の地に行くことを止められたかもしれない。神聖な霊地を正見行脚するとき、事前に強いこだわりを持っていると、それが先入観となって真実が見えなくなることがあるからである。後日、出直す機会があると信じている。
  蛇足だが福岡県新吉富村大字緒方に、緒方観音、若八幡宮があり、宇佐神宮の影響は考えられないか。中世、黒田如水に滅ぼされた宇都宮氏の臣緒方帯刀、刑部が居城する緒方城があった。豊後緒方氏の末裔ではないのかと思う。
  緒方の神霊に御礼を申し上げ、緒方町を後にした。同行したPさん、そして誘導されたその守護霊に感謝します。
 ※画像は、『平家物語』 第八巻 「緒環(おだまき)」に描かれた嫗岳の主という巨大な大蛇(高千穂大明神)、http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/kenkyushitu/saburoken2.htm

2007年10月17日水曜日

旧伊藤伝右衛門邸見学

  10月7日、幸袋工作所跡に駐車し徒歩数分、遠賀川に向かう旧町並みの一角に旧伊藤邸があった。大寺院を思わせるような長屋門の右柱に「旧伊藤伝右衛門邸」と書かれた真新しい門札が掲げてあった。麻生太郎衆議院議員の達筆の揮毫である。石炭最盛期、麻生太郎議員の祖父太吉氏と伊藤伝右衛門とは深交があった。
  柳原白蓮(燁子<あきこ>)が起居した北棟奥の二階の部屋はニ間続きで、広大な回遊式日本庭園のすべてを見渡せ、かつては遠賀川の川面も見えていたという。白蓮はこの部屋で約10年間、何不自由のない生活をしていたのだろうが、恋の歌を作る以外には楽しみもなく孤独だったのかもしれない。それが、後に別府の別邸あかがね御殿で宮崎龍介との不倫事件を起こすきっかけとなったのだろうか。それにしても若き日の白蓮の顔写真を見ていると、妻の亡祖母の若き日の顔立ちとあまりにも似ているので驚いた。
  庭園は、泉水に掛かる小さな太鼓橋を左に見ながら、その中央部分にある茅葺の東屋まで遊歩できる。庭園の周囲を覆っている樹齢300年と言われる天蓋松は見事、また大小合わせて19基ある石灯篭にも目を見張るばかりであった。この石灯籠のなかには、白蓮が結婚時に持参したものもあると聞いた。時間があれば、この石灯籠の一つ一つをじっくり観賞するだけでも味わいある。庭園から見上げる邸宅も風情がある。
  旧伊藤邸を飯塚市に買収させるために旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会を組織し奔走されたの深町純亮<ふかまちじゅんすけ>氏は、嘉穂高校郷土部の大先輩で麻生炭鉱史を編纂された。私は同部OB会に出席したとき、氏の講演で旧伊藤邸の話を聞いて以来、行ってみたいと思っていた。図らずも飯塚市の自宅跡の草抜きに行き、その帰路訪れることができた。邸内は、観光客であふれ大混雑、白蓮の部屋にいたっては、40人ごとの順番待ちという有様で、ゆっくり味わって観賞するというような雰囲気ではなかったが、これだけ多くの人々が訪れる邸宅を保存されたことには感嘆の極みであった。きっと伊藤伝右衛門の霊が、深町氏に乗り移って、この熱烈な行動を指揮されたのではないかとすら思えた。

2007年10月2日火曜日

立花実山の記事を見て「実山横死の地」研究を思い出す

  2007/10/01西日本新聞朝刊で『茶道「南坊流」中興の祖立花実山300回忌で法要 墓所の東林寺南坊会理事長が「供茶」』と題した次の記事を見た。
  「茶道の流派の1つ「南坊流」の中興の祖として知られる立花実山(1655‐1708)の300回忌法要が30日、福岡市博多区博多駅前3丁目の東林寺(梅田泰隆住職)であった。実山は福岡藩の家臣で、茶道や書画、和歌に精通していた。法要は同寺の開山に尽力し、墓所もある実山を供養するもの。南坊流を継承する福岡の南坊会の関係者や、同寺の檀家など約100人が参列した。法要では同会理事長、櫛田神社(同区上川端町)阿部憲之介宮司(54)が供養のお茶をたてる儀式「供茶(くちゃ)」を披露。また、同寺とゆかりのある大乗寺(石川県金沢市)の東隆真老師(71)らの読経に合わせて参列者が焼香し、実山の霊を慰めた。檀家らでつくる同寺婦人会の柴田敏子会長(82)=同市早良区=は「市美術館の記念展を見て実山の興した茶道の奥深さを感じた。今日は立派な法要でした」と話した。同市中央区大濠公園の市美術館では、立花実山300回忌を記念した「南方録と茶の心」展が開かれている。21日まで。」
  私は、47年前、高校3年(1960年)のときに研究発表した「野村隼人正裕直の墓」(嘉穂高校機関誌「龍陵3号」掲載)のなかで「立花実山」について触れた部分がある。上記の新聞記事を見て、それを思い出して、掲載誌を書斎から取り出して読み直した。若き時代、郷土史に関心を持っていた自分に改めて思いを馳せた。
  ここにその「立花実山」について触れた部分を転載しておこうと思った。何しろ当時高校生だった私が書いた文章なので誤記もあると思う。たとえば「南坊流」のことを「南法流」と記したりしているが、間違いは間違いとして原文のまま転載する。
  「六、立花実山横死の地 茶道には一般的な表千家、裏千家流等その他数流派数えられるが、その一つに南法流という流派もある。現在博多に五百人程の人を持っており、毎年一回福岡市中人参町東林寺に於いて盛大な茶会がその人達によって開かれている。この会は実山会といわれ南法流の創始者立花実山の名をとってこう呼ばれるのである。立花実山とは福岡藩黒田光之時代の二千石取りの重臣である。実山は有名な書籍収集家で、時たま偶然にして千利休実筆の茶道秘伝書を手に入れ、その書を読むに当世の茶道の精神が利休の精神を遠のいている事に痛感して南法流を起こしたといわれる。果たして現在の南法流がこれまた実山の精神をそのまま受け継いでいるかと言えば疑問であるが、この実山会を見学すると夫々各人好みの派手な着物に身をかためた若い人達の姿が目を引き、豪勢そのものという感じがする。別に南法流を宣伝している訳ではないが、さてこの立花実山は鯰田に横死している。どうしてであろうか。
  当時、黒田藩財政上の収入の一つとして密貿易の利益があったが、この密貿易に対して立花実山は忠告をしている。しかしこの事は藩公の気にさわり、あわや上意打ちとなるところを鯰田野村家お預けの身となった。妻を野田家から迎えている関係上、野村家に顔を立てるという面目もあった事であろう。所が藩主の反感は強く刺客をはなちついに実山を遠賀川畔に呼び寄せて妻子もろとも殺害している。これは秘史とされていた様である。実山の死体は川のシガラミ(柵)にかかり火葬されて東林寺に埋葬されている。妻子の遺体は晴雲寺に埋葬され小さな石碑を建てその横に観音堂を建てたといわれている。立花家は二千石取りの家柄でありながら実山鯰田横死により代は絶えてしまっているが、実山の人間性は茶道南法流として残っている。
  東林寺も(晴雲寺と同じ)曹洞宗で実山の開基である。これら実山や野村家との関係については東林寺現住職梅田信隆氏が詳しい。」
  家が絶え、代が絶えても、実を残し、今日に至るまで、その功績を偲ぶ人たちによって供養が続けられているということは、何とすばらしいことだろうと思う。今日、成功をおさめた人たちの中で、その死後も多くの人に慕われ、多くの人から代々にわたって供養を続けられるような人が果たしてどれほどいるのだろうか。
  私の手元にある上記の掲載誌に、当時東林寺住職であった梅田信隆師から頂いた手紙や当時の野村家当主の野村宗秀氏から頂いた手紙などが挟んで保存されていたので、本当に懐かしい想いがした。それと気付かないままに年月は過ぎ去り、人々も過ぎ去る。

2007年9月28日金曜日

護身乃柵の自然汚濁は身代わり

  9月14日に手持ちの護身乃柵の供養替えを頼まれていた人の新しい護身乃柵が金峯山寺から届いたので送った。この供養替え書を金峯山寺送ったのは18日で、その間、直筆の氏名を前にしてこの人の清浄祈祷を行っていた。供養替えを行うようにと勧めるためにこの人に会ったのは、9月5日のことで、その日のことを個人情報に抵触しない範囲で若干紹介しよう。
□  この人が先に持っていた護身乃柵は、水気のあるところに持っていった覚えはないのに、梵字の印刷が汗をかいたように流れていた。観音像も擦り切れたように色が剥げ落ちていた。柵が汗をかくほど、この人の知らないところで起きようとしていた危険から身を守ってもらっていた。つまり、この人は職場や家、友人等の悪因縁を知らない間に吸収していたが、そのたび護身の柵が、その危険を吸収し身代わりになってくれていた。そのために汚れが激しくなりすぎていたので新しいものと替えることにされたのであった。
□  この人が「(小学館発行の)金峯山寺の雑誌を見て、行きたいと思った」と言われたので、「行かれるときは、ただ行くのではなく、得度をされた方がよい」と答えた。それは、この人が、立派な先祖のご守護霊をいただいておられたからで、この人は、信仰と得度により人生の流れが変わり運が開ける人であると思ったからである。立派なご守護霊をお持ちゆえに、悪因縁にすがられ、吸収しやすい面もあり、そのつど護身乃柵が身代わりになってくれたところもあるが、機会があれば、いろいろ自らの信仰や供養法の話を伝えてあげたいと思った。
□  護身乃柵を開いて自室の浄化をする一つの方法を教えた。十三仏の13、六道輪廻の6、先祖の5、三世の3で好文木供養を行い、9回の真言で苦を消す。なお、この説明をしているときに書いた「メモ用紙」を、乗用車で帰宅中に運転座席横の隙間に落とし、回収するのを忘れていたら、夜になって激しい頭痛がしだした。そのメモのことを思い出し、懐中電灯で車の座席下など照らして探したが、どうしても見つからず、あきらめて鎮痛薬を飲んで寝たほどであった。説明をしているときにメモに魂が入り、そのメモを車の中に忘れたまま放置していたので、神の注意が入ったのであった。翌朝、多が見つけ無事回収した。ついでながら多には遺失物を見つけ出す能力が備わっていると思うことがある。

麻生太郎衆院議員の陰徳

平成19年9月23日のこと
  9/12に安倍総理が辞任表明、自民党後継総裁選びが始まった。自民党福岡県連(会長新宮県議)は、「県連票3票を福岡県の麻生太郎に投じる」ことを表明した。ところが同じく福岡県選出衆院議員の古賀誠、山崎拓ら6議員が福田康夫を支持し、県連決定に異議を唱えたため県連内に混乱が起きた。私は、「福岡県から総裁を」と動いた県連の麻生支持表明は間違っていなかったと思う。投票の結果、麻生は破れたが予想以上の善戦をした。
  私は、麻生議員と直接言葉を交わしたことはないし、議員が私のことなど知る由もなく、麻生指示云々を論ずる者でもないが、ただ、22年前の8月26日、私の亡養母が麻生飯塚病院で手術後、死亡したとき、飯塚市吉原町の私の実家で行ったお通夜に麻生議員夫妻が来られた。私の育ての親永露政夫とのつながりでとは思うが、お通夜に来てもらったということに対する感謝の気持ちは今も持ち続けている。見えないところで感謝している人がいるということは、麻生議員の陰徳であると思う。
  麻生議員が、総裁選に敗れても「負けた気がしない」と言ったのは、予想以上の得票を得ていたからである。これも麻生議員が積んだ陰徳のお陰だと思う。

2007年9月25日火曜日

花鳥花瓶の鶯飛び立つ

平成19年9月17日のこと  
  9月9日重陽の節句の日に、仏壇に置いていた花鳥模様の花瓶一対がともに水漏れしたので、新たな花鳥花瓶を発注していたが、本日その花瓶が届いた。
  この新しい花瓶と入れ替えるとき、小4の有が、水漏れした方の花瓶を手にして彫りこまれている絵柄を見ながら、「この花は梅だから、この鳥は鶯だね」と言った。そういえばそうで、今まで考えてみたこともなかったなと思った。さらに、私が「この花瓶は仏具店に引き取ってもらう」と言うと、「鳥は、飛ぶものだから、ここでじっとしているより羽ばたいて飛び立つほうがいいよ。この鶯は、今から飛び立って行くんだね。」と口にした。とにかく有のこういった突拍子もない発言に驚かされ、かつすばらしい発想をすると思うことがある。
  この言葉を聴いて、長い間、仏壇を輝かしてくれたスマートな絵柄の花鳥花瓶に感謝の合掌をして送りだすことができた。これからは、少し絵柄の大きな新世代の花鳥花瓶が新たな光明を輝かしてくれるものと思った。

美奈宜神社旧宮跡と柘植の木

平成19年9月16日のこと
  先ほどこの山際の道を3度通ったが、かつて訪れたことのある旧宮跡を見つけることが出来なかった。しかし、旧宮跡は、この道沿いにどこかにあると確信し、今度はかなり慎重になった。旧宮跡を探す目印としていたのは、大きな「柘植の木」だった。しかし、その「柘植の木」を見つけることが出来なかった。
  初めて旧宮に行き着いた日から既に10年以上の歳月が経っている。その日、私はこの下方にある農道から、傾斜地の上にある山林を見上げていた。そして、霊的な光を発している山林のある一点に目が留まり、そこに何があるのかと確めようと思った。その前面の傾斜地には、畑のほか雑種地や藪が立ちはだかっていたが、はやる気持ちを抑えることが出来ず直登した。雑草を掻き分け、泥や埃をかぶりながら、最後の段差を登りつめたとき初めて、山際を登る道があることに気づいた。
  目指した土地は、この道路から一段高い位置にあり、三方を樹木に囲まれた平らで明るい叢であった。神社の「社」というようなものはなかったが、この叢の奥に傘を広げたような美しい形をした1本の大きな「柘植の木」が立っているのに目が留まった。この木が御神体か、神の依代で、霊的な光はここから出ていたのだと確信した。そして、感動のあまり合掌した。この地が旧宮跡であった。現在は、私が駆け登った傾斜地には住宅が建ち並び、視界はきかなくなっている。
  台風11号の影響下にある雨が降り出した。もし今日行き着かなかったら日を改めて出直そうと思った。そう思った途端、林の中に小さな木造の「社」らしきものが目に入った。しかし、旧宮地は、こんな場所ではないと思った。傘を差したまま、半信半疑で、その林を覗きこんだ。どう見てもこの建物は「社」なので、辺りを見回したら、その左手前に「旧宮跡」と記された石碑が立っているが分かった。ここが旧宮跡に間違いなさそうだ。お神酒とお念珠を手にして、雨に濡れた叢を踏んで林の中に入った。
  この叢を抜けると、その先は傾斜した土の地面で、その中に「社」が建っている。四方が杉林に囲まれているためか暗い。「柘植の木」が見当たらない。探しているうちに、やっと社の左にある樹木がそれであると気づいた。幹が以前より高く伸び、枝が開きすぎて、傘の形とはいえなくなっていたので、すぐにそれとは気づかなかった。さらに、こんなに位置に立っていただろうかと首をかしげた。また道路から見えなかったのは、道際にある杉が、「柘植の木」の前に覆いかぶさるように立っているため、その陰に隠れてしまっていたからであった。
  「社」は、道路側を向いて、人が立って拝める高さに建てられているが、この「社」を見ていて一気に疑問が噴出した。この地に「社」を建てる必要があったのか、また、とどうしてこの位置に「社」を建てたのか。この下に、銅剣が埋まっていたのであろうか。「社」のなかに手で持てるくらい石が数個置かれているが、この石は何なのか。この「社」があるために神聖さが失われているような感じを抱いた。お神酒を社の周りにまいているとき、「社」の後方に、丸みのある自然石を並べた墓場があるのに気づいた。以前の私の記憶にはない。あまりの変わりように驚かされるだばかりであった。
  しかし、お神酒をまき終え、この場を後にしだしたとき、一瞬いずこからともしれず神の霊気を感じたが、そのまま立去ったため、後で何か割り切れないような気持ちが残った。照見行脚、正見行脚の機会が再度訪れることを祈る。

2007年9月16日日曜日

ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観劇(博多座)

平成19年9月11日のこと
  昼(13:00~)の公演を観劇した。「レ・ミゼラブル」の舞台は、フランンス革命前夜の頃(1815~1832年)となっている。
  主役ジャンバル・ジャン(別所哲也)が仮釈放されるときの牢獄での暗い情景で幕開けする。暗い照明の中で劇場全体に立体音響で響き渡る歌唱力のすばらしさ。しかし、舞台の光景はどこまでも暗い。教会で金の食器を盗むが、司教は金の燭台も持って行けと渡す。この司教が行動で示した基督教の愛と救い、この教えが物語の全編を構成しているのだと思う。
  8年後の場面は、仮釈放の身で逃走しマドレーヌと名前を変え、市長となったジャンバル・ジャンが経営する工場で働いていたファンテーヌ(渚あき)の演技を中心に進行する。工場を追われた彼女は、娼婦となり病に倒れて、ジャンバル・ジャンに救われるが、病状は悪化し一人娘コゼットの養育をジャンバル・ジャンに頼み息絶える。なお、ジャンバル・ジャンを追うジャベール警部(岡幸二郎)の追跡は最後の場面まで続く。 ジャンバル・ジャンは、意地悪な宿屋のテナルディ(徳井優)とその妻(瀬戸内美八)の元で囲われていたコゼットを、夫妻に金を払って引き取り、男手ひとつで育てる。夫妻の娘エポニーヌもコゼットをいじめていた。
  それから9年後、成長したエポニーヌ(笹本玲奈)とコゼット(菊地美香)がともに慕う革命派の学生マリウス(藤岡正明)を巡って物語が展開する。マリウスに対する恋心を抑えてマリウスとコゼットの恋の橋渡をし銃弾に倒れ命を落とすエポニーヌの演技がこの章の最大の見せ場となる。その後、ジャンバル・ジャンは、同じく銃弾を受け重症となったマリウスを助け、コゼットとマリウスが結ばれるのを見届け、二人の愛につつまれたなかで逃走の人生の幕を閉じる。
  このミュージカルの展開については、子供のときに翻訳小説「ああ無情」を読んでいたので違和感はなかったものの、「レ・ミゼラブル(惨めな々)」という題名のとおり、全編に亘り、夜、牢獄、窃盗、逃走、秘密、女の争い、娼婦、病気、失業者、ぼろ着、窃盗、革命戦闘、死などを交えて、惨めな人々の姿、生き様を描いており、どこまでも暗かった。物語の暗さにあわせるように舞台照明も暗く、イキイキわくわくというような夢、希望、感動を求めることはできなかった。確かに、この物語のテーマは、愛と希望であるが、それは悲劇や惨めさの裏返しにあるものだと言われているように思えた。たが、全編台詞は歌唱のみで、それぞれの配役の歌唱力のすばらしさには感動した。
  毎回の配役はダブルキャストだが、今回出演者のプロフィルは次のとおり。別所哲也(42歳)は、司会、声優、俳優などジャンルが広い。渚あき(38歳)は、かつての宝塚星組の娘役トップスター (2001~2003.3)、細身の体つきの、か弱い感じが、ファンテーヌ役に似合っていた。岡幸二郎(40歳)は、福岡県出身で劇団四季の主要メンバー、背が高く人気がある。徳井優(48歳)は、引越しのサカイのひょうきんなCMであまりにも有名である。悪辣な宿屋の主人、そして没落した窃盗犯を面白おかしく演じて舞台を大いに盛り上げていた。瀬戸内美八(60歳)は、往年の宝塚ファンなら知っている昭和54年代の宝塚星組男役のトップスターで、60歳とは思えぬ若さと美貌と活力を今も有している。笹本玲奈(22歳)は、1998~2002年の5代目ピーターパン。菊地美香(23歳)は、2000年公演のミュージカルアニーのジャネット役でデビュー。藤岡正明(24歳)は、ミュージシャン。
  なお、新妻聖子(26歳、愛知県稲沢市、上智大学出身、ミュージカルのシンデデラといわれる)、知念里奈(26歳、沖縄出身)と笹本玲奈が交代で演じているエポニーヌ役は、この回は笹本玲奈だったが、実は、かねがね私は、新妻聖子の演じるエポニーヌ役を見たいと思っていたので、少し残念だった。こういったことはタイミングの問題である。でも、入手したいと思っていた新妻聖子の2枚のCDを、ここで購入することができたので満足だった。
  この新妻聖子の2枚のCD(各1,260円)を紹介する。①「新妻聖子夢の翼」(NHK「純情きらり」挿入歌)。01. 夢の翼、02.どこまでも青空、03. 夢の翼(Instrumental) 、04. どこまでも青空(Instrumental)。②「愛をとめないで~Always Loving You」(NHK「陽炎の辻~居眠り 磐音江戸双紙~」主題歌)。01. 愛をとめないで~Always Loving You~、02.ガラスのうさぎunplugged~、03. 愛をとめないで~Always Loving You~(Instrumental) 、04. ガラスのうさぎ~unplugged~(Instrumental)。

2007年9月11日火曜日

「花鳥花瓶」1対の水漏れの意味

  今夏は、猛暑で、仏壇に置いている「花鳥五具足」のうちの、二つの花鳥花瓶に活けた生花が長持ちしないので、水を入れずにドライフラワーを活けたりすることもあった。
  9月9日朝は、菊の生花を活けた。そして、香が日常勤行をしたとき、花瓶を置いている下壇の引き出しに敷いている金襴耐火板が水びたしになっていることに気づいた。さらに、溢れた水は、その下壇に置いている過去帳の表紙をも濡らしていた。
  あわてて花瓶をひいて調べたところ、対の花瓶の二つとも水漏れを起こしていた。肉眼ではどこに穴が開いているかはわからないが、水を入れずに使用したりしていたので、花瓶の底の溶接部分が腐食し、ちょっと見たくらいでは分からないくらいの隙間ができているのではないかと思う。急いでこの花鳥花瓶と同じ大きさのものを1対注文した。納品されるまでの間、またドライフラワーを入れておくことにした。
  翌日、知人から電話があり、「会社を退職しました、11月に先生を郷里に招待しますと言ってましたが延期させてください」と言われた。昨日花瓶の水漏れがあったとき、なぜか、この人のことが脳裏に浮かんでいた。11という数字の形は1対を表しており、この水漏れの意味は「今、脳裏に浮かんだ人と交わした11月の予定は水に流れる」というお知らせだった。また、花瓶の底抜けは、この人が会社から抜け落ちたというお知らせだが、新しい花瓶を買い替えると、すぐに新しい会社に転職、活路が開けるということのお知らせでもあった。
  私は、この人は今の会社で最後にとても価値のある仕事されたのではないかと思い、その仕事のマニュアルを大事にしておくようにと言った。その意味をすぐに理解されたようで、「よい仕事をさせてもらいました、その仕事をしてた得たノウハウが先生の役にも立つようでしたら役立てたい」と言われた。11月の旅は延期されたものの、この人からそれに代わる新知識を頂くのかも知れない。

2007年9月9日日曜日

蒙古塚供養塔再建の記事を見て29年前を思い出す

  毎日新聞の「雑記帳」蘭に「蒙古塚供養塔再建」の記事が載っていた。その記事には「鎌倉時代の元寇で戦死した元軍の兵士を慰霊する福岡市・志賀島の蒙古塚で8日、05年の福岡沖玄海地震で倒壊した供養塔が約2年ぶりに再建された。かつての供養塔は1927年、政財界と宗教界の協力で建立。今回は塔を管理する同市中央区の勝立寺(坂本勝成住職)が檀家約300人の募金で再建した。安全面から塔を移動させ、硬い地下岩盤にしっかり固定させた。神風に地震と元寇の霊も災難続きだが、これで当分は大丈夫と関係者は安堵の表情?竹花周」と書かれていた。
  この記事を読んでいて、かつて一度だけ当地に行ったときのことを思い出した。それは、1978(昭和53)年5月28日のことで、29年も前のことだが、なぜか鮮明に覚えている。その日、妻と小学1年生になったばかりの長女を連れて、志賀島の万葉歌碑巡りをした。確か同島の西南端の海岸近くに置かれた横長の大岩に筑紫豊氏の筆で刻まれた第6号歌碑「志賀のあまの塩焼く煙風をいたみ立ちは昇らず山にたなびく」を見学したついでに、その上方にある蒙古塚の丘を登り、頂上に建っている蒙古軍供養塔(石碑)を見た。上記の記事にある「かつての供養塔」のことである。この供養塔が2年前の地震で倒壊していたとは知らなかった。小さな五輪塔も数個あったと思う。
  その日は、快晴で、春陽の照りつけるすごく暖かい日だったが、当地に着いた途端、なぜかわからないが、ここにはおれないと思って、あわてて登ってきた坂道を引き返した。その後、急に元気だった長女の顔色が青ざめて発熱した。熱冷ましを飲ませる等の応急処置を施したら治まったものの、当時何が起きたのか原因がわからなかった。このような状況を起こした原因が憑依霊によるものではなかったのかと思ったのは、随分後になってのこと。同島出身の人たちに、この話をしたとき、「親から、あそこは怖いところだから近づいたらいけないと言われていた」「地元の人は怖がって誰も行かない」「夜になると火の玉が飛ぶ」などと言われたのを聞いてであった。以来、今日まで一度も当地に足を運んだことはなく、当地の現状は知らない。
  それにしても、この「元寇の霊」というのが、1281年の第2回元寇「弘安の役」のものであったら、726年も前の霊ということになり、このように長い年月を経ても浮かばれないでいるということになる。上記の記事を読んでいて、その苦しみ、望郷の念を断ち切る成仏供養が現在も勝立寺とその檀家の人たちの間で続けられているのではないかということが想像でき畏敬に思う。当地に足を運ぶことすら止めた私にはとてもできないことだ。

2007年9月3日月曜日

ゴーヤー雌花13輪開花と赤蜻蛉の飛来

平成19年9月2日のこと
  6月3日に、北庭畑に植えた1本の「ゴーヤー(ツルベイシ・ニガウリ)の苗が成長し、6月29日から開花が始まった。しかし、その後1か月近くたっても、そのすべてが雄花だったので、今年は雌花は咲かないのではないのかと思っていた。
  しかるに、7月27日に至り、あきらめかけていた雌花の第1輪が開花、同時に第2輪も開花していたので小躍りして喜んだ。この2輪の実は、成長して8月16日に採取した。続いて8月2日第3輪、8月5日第4輪が開花。8月26日採取、これで今夏の雌花開花は終わったと思っていた。
  ところが、8月28日第5・6輪が咲き、続いて9月2日、雷雨のなかで第7~13輪が一斉開花した。現在開花中の雌花はこの9輪であるが、これまでの開花は合わせて13輪である。残暑の厳しさの中で、このうち何個の実が成長するのかが楽しみである。
  嬉しかったのは、今夏の猛暑のなかで、13仏に通じる13輪の雌花が咲いたことである。その上を、雷雨の合間をかいくぐって飛んできた赤蜻蛉(とんぼ)が二匹舞っていた。まるで13仏の心の宿る13輪の雌花開花をめでているように思えた。北庭では、赤蜻蛉は、毎年盂蘭盆前後に舞うが、9月に入っての飛来は珍しい。
  この赤蜻蛉は、北庭から東正面に眺望できる神霊山「若杉山」から神の霊気を身につけて山を下り、折からの激しい雷雨の降るなかをめげずに、13仏供養のために飛来したのではないのか。この2匹の蜻蛉は、それぞれ、北庭で開花している黄色コスモスの茎にとまって夜を明かした。
  なお、戦国時代、武士が武具に蜻蛉文様を多く用いたというが、目的地に向かって霊山を飛び立つ、この蜻蛉の霊力の強さを当時の武士が敏感に感じ取っていたのではないのか。

2007年9月2日日曜日

「陽炎の辻」主題歌の歌手は新妻聖子

  平成19年8月30日のこと 。毎週木曜、NHK総合テレビ第1で午後8時放映の木曜時代劇「陽炎の辻~居眠り磐音江戸双紙~」<山本隆史(坂崎磐音役)主演、中越典子(おこん役)助演>を見ているが、主題歌「愛をとめない~Always Loving You~」(作詞岩里祐徳、作曲佐藤直紀)のメロディが流れると、そのメロディと歌詞がシックで聴くたびに心が癒されていた。
  また、その哀愁を誘うような素敵な歌声にも聴き惚れていたが、この歌手が誰かとまでは考えていなかった。そして、この日、思わず「あっ!」と叫んだ。いつものようにこの歌を聴いていて、歌っている歌手が新妻聖子であることに気づいたからだった。まったく新妻聖子の隠れたファンだと自負しておりながら何たる失態かと思った。

金峯山寺で32年ぶりの八千枚護摩修法

平成19年8月30日のこと
  金峯山寺から届いた「八千枚護摩供修行・祈願者勧募」の案内を読んでいて少なからず驚愕しました。大峯千日回峰行を達成した大行満大阿闍梨・柳澤眞悟金峯山寺副住職(成就院住職)が、「八千枚護摩」を発願され、既に8月27日から前行に入られているいうことです。
  この「八千枚護摩」を修法するには、まず自らの心身を精進潔斎するために100日間に亘る「前行」を修しなければなりません。この前行では、塩と五穀(米・麦・大豆・小豆・芥子又は胡麻)を断ち、その間毎日、三座、つまり夕(初夜<そや>)、早朝(後夜<ごや>)、昼(日中)に「不動明王立印供(りゅういんく)」を修法する三百座修法を行います。まさに死を向かい合わせの命がけの「捨身の行」が、この前行の段階から始まります。この苦行は、護摩木に願いごとを書いて祈願する人たち(衆生)に代わって修法者が苦しみを受けるという意味もあり、「代受苦(だいじゅく)行」とも謂れます。
  前行が終わった後、引き続き12月4日午後1時から5日午前10時間での一昼夜、断食、断水をした状態のなかで、世界平和と護摩木祈願者の願いごと成就を祈念して、八千枚を超える祈願護摩木を梵焼し続けることになります。
  この行は、昭和51年五條順教管長が達成され、私は、誰にでもできるような行ではない行を達成されたことに対し畏敬と感動を覚えたものでした。この感動は、それから31年経った現在も私の心の中では生き続け、昨日のことのように覚えています。なぜなら、この感動こそが、私が修験の行者としての道を選ぶべく金峯山寺で得度(昭和55年1月)をするきっかけとなったことだったからです。このときの管長の心境は、「修験道の心(朱鷺書房)昭和58年3月刊」に著されてありますが、それ以来、誰もが行じたこのなかったこの「八千枚護摩」を、今、柳澤眞悟師が発願、実修されていることを知り驚きに耐えません。
  得度の年の7月、まだ若かった私が初めて新客として大峯山蓮華奉献峰入りに参加したとき、丁度、柳澤師は千日回峯行の最中で、早朝、ほぼ同時に蔵王堂を出発したのに、一瞬のうちに師の姿が参道の闇の彼方に消え去ったのを目にしました。また私たちがやっとの思いで西の覗きを目指して登っているとき、その遥か手前で、山上蔵王堂参拝を終え下山されている師とすれ違いました。私たちの先頭にいる奉行が「行者さんが下りてこられる、道を開けろー」と叫ばれた声を耳にし、柳澤師の下山進路を阻まないようにと山縁に身を寄せた瞬間、師が疾風のように目前を駆け下りて行かれた。何という速さ、一瞬これが忍者というものかと思ったほどの速さでした。当時、私は山歩きは早いと自負していましたが、とても私の及ぶところではありませんでした。
  金峯山寺で千日回峯行を行満された行者は、この柳澤眞悟師のほかには塩沼亮潤師(仙台大伽藍)だけしかおらず、それだけでも大変な未踏の行の達成者であったのに、今また、ここにきて柳澤師はさらなる苦行に挑戦されたのです。柳澤師の成就を祈り、9月の権現供養会で陰ながら八千枚護摩成就の祈念をさせていたきます。
  この「八千枚護摩」は、古来より密教秘伝の「不動明王立印供深秘(りゅういんくじんぴ)」の秘法とされ、また、この「八千枚護摩」の「八」の文字は、その形からして「末広がり」で、開運を象徴する吉祥、吉数の意味が付加されています。なかなかこういう有り得ない縁に巡り合えるということ自体が、まさに有り難く幸せなことです。この有り難い縁を授かる護摩木の勧募に応じましょう。
 ※画像は、八千枚護摩修法中の柳澤眞吾師、http://www.kinpusen.or.jp/event/8000/8000.htm

2007年9月1日土曜日

「金峯山寺」の本を小学館と朝日新聞社が発刊

平成19年8月29日のこと
 某様から次の文面の手紙が届いた。
 「古寺を巡る金峯山寺の本を読みました。この本を求めるために本屋に行ったとき、朝日新聞社からも同じような金峯山寺の本が出版されていたので思わず購入してしまいました。これらの本を読んであらためてありがたい気持ちになりました。護身乃柵を持っているTさんにも見せたら同じようなことを言ってました。子供がもう少し大きくなったら桜や紅葉の季節に吉野山に行ってみたいと思っています。」
  この「古寺を巡る金峯山寺」という本は、「小学館ウィークリーブック・週刊古寺を巡る21・金峯山寺」のことである。日本の古寺を50冊の本で紹介したなかの一冊で、教えや美術品、歴史等を豊富な写真を挿入して説明してある。表紙には、秘仏「蔵王権現」の上半身の写真が掲載され、そのいかめしくも慈悲に溢れるお顔がひときわ目を引く。全山が御神木である桜で覆われる修験道の聖地吉野山、そして熊野までの大峯奥駈修行の路等わかりやすく紹介されている。
  また「朝日新聞社からも」と書いておられる本は、「朝日ビジュアルシリーズ・週刊仏教新発見06・金峯山寺」のことである。日本にある七万五千以上あるお寺の中から有名寺院30寺院を選び紹介したなかの一冊で、伽藍などの建造物や仏像、仏画、風景、歴史、行事などの謎と不思議を豊富な写真とともに新発見として紹介されている。表紙には、ほぼ全身に近い秘仏蔵王権現の写真が掲載されており、合掌せずにはとても手にすることができないほどのものである。確かに某様が「桜や紅葉の季節に吉野山に行ってみたい」といわれるように、桜、そして紅葉の中に埋もれるように聳え立つ金峯山寺の本堂蔵王堂の写真はすばらしい。五條順教の一言法話もある。
  この二冊をそろえると、修験道と山伏、修験の聖地吉野山、総本山金峯山・本堂蔵王堂と本尊蔵王権現、開祖役小角、大峯奥駈、大峰山の護持院等の概要がわかる。

2007年8月23日木曜日

白ゆり開花と故養母孝行 の思い出

平成19年8月18日のこと
  8月15日、自宅の花壇で白ゆり(高砂異種)が2個開花した。この白ゆりは、故養母が大好きな花であったので、盂蘭盆の送り日にあわせるように開花したのだろう。17日に3輪目が開花し、残り1輪が本日開花した。
  毎年、この時期に開花する白ゆりを見ると、8月26日が祥月命日である故養母のことを思い出す。その生存中に、私はどれだけ親孝行をしたのであろうか。いろいろ思い返すたびに迷惑をかけたことばかりが思い出され心が痛むことがある。唯一の孝行は、養母に顔立ちのよく似た長女の誕生だったのではないかと思う。養母は、本当にこの長女が可愛くて仕方がなかったようで、当時関東でこの長女が誕生したときも100日宮詣りにも九州から飛んで行った。また養母の家に幼かった長女を連れて行ったときは、養母は長女の手を引いて「行きましょう、行きましょう」と声をかけて商店街に買い物に行き、就寝時には同じ布団で寝かせていた。その養母は、長女が中学生のときに亡くなった。もう少し長生きしていたらよい話し相手になれたのであろうと悔やまれたが、それでも、この長女誕生が、私ができた唯一の親孝行であったとしたら慰められる。その長女も今は子を持つ母である。そして、この長女の子(長女)は、故養母の月命日に合わせるように誕生したので、今でも不思議なめぐり合わせと感じている。

自転車走行は小脳の働きに関係ある

平成19年8月14日、盂蘭盆会での話しのなかの抜粋です。
  最近、自転車を入手、まったく自転車を触ったことのなかった孫に運転の仕方を教えてあげたら、瞬く間に上達しています。自転車の運転はバランス感覚をとることができれば難なくできるようになるもので、子どものバランス感覚は通常高いので、怖がりさえしなければすぐに覚えます。
  ところがこのバランス感覚は年齢を重ねるにしたがって怪しくなって行きます。妻は、若い頃、近くにスーパーマーケットがなかったので、自転車に乗って遠くのスーパーまで買い物に行っていたので、自転車の運転には自信があった。そこで、上記の自転車を入手した直後、すぐに乗ってみたところ、わずか3mくらい進んだだけで横転して、左脚にかなりの擦り傷を作ったのです。なんとも説明のつかない一瞬の出来事でしたが、既に若いときのようなバランス感覚がなくなっている証です。私も乗ってみて、この自転車は運転しにくいと思いましたが、実は、そう思うこと自体が、それだけ自分のバランス感覚が低くなっているということなのです。(話を聞かれていた人で、「若いとき傘を差して自転車走行ができたが今はできない」と言われた人もいた)。
  この人間のバランス感覚をつかさどる機能は、小脳であるといわれています。小脳の働きが衰えると、体の重心が右か左かに移動しているということです。小脳の働きの衰えがバランス感覚を衰退させているので、自転車の運転がうまく行かなくなるのです。特にスピードを落としたときに、安定をとりにくくなったり、転んだりするようになります。小脳衰退の原因の一つは、やはり運動不足です。
  とりあえずバランス感覚を取り戻す一つの方法として、これは何かで見聞きしたことですが、目を瞑って左手を前に伸ばし、手のひらを外側にむけ指を開きます。次に頭上で右手を握り締め、人差し指を伸ばし、その指を伸ばしている左手の親指につけ、戻す。この動作で、順次小指までつけ行きます。次に小指から順次親指へと行います。次に左手と右手を入れ替えて同じことをします。これをするだけでも衰えた小脳の働きが活性化していくと聞きました。
  自転車の走行も、安定が悪くなっていると感じたら、あせらず一からやり直すという気持ちで行ってみてください。その意味では、自転車走行をあせらず正しく行えば、衰えていた小脳の働きを活性化させることになると思います。健康器具の中にも自転車によく似たものがあるのを見たことがあります。
  また、修行から長く遠ざかっている修験者にとっては、霊山での走行修行を再開する必要があります。山道や谷道は、でこぼこして変化に富んでおり、自分の体の安定とりながら歩く、登る、下る、渡るといった諸動作が小脳を活性化させると思います。そして、自分の足の感覚、呼吸、心臓の鼓動等が、いつ、どこで平常の状態に戻るかに気づくと、正見行脚の修行の度合いを認知できます。

2007年8月19日日曜日

朝青龍の謹慎処分と横綱の品位について話す

平成19年8月7日のこと
  蔵王権現供養会で、連日報道されている朝青龍の処分について私見を話した。
  朝青龍が肘の疲労骨折を理由に、相撲協会に相撲巡業欠席届を出し、親方に黙って母国モンゴルに行き、持ち前のサービス精神を発揮し少年サッカー競技に参加してサッカーに興じている映像がマスコミに流れ、日本相撲協会から「2場所休場、自宅謹慎、給与30%カット、高砂親方も給与30%カット」等の処分を受けた。朝青龍は、その後、自宅に引きこもり、うつ的症状に陥っているという。
  私は、この処分に関して、当初から相撲協会の処分の仕方に対して疑問を感じている。まず相撲協会は朝青龍に対して、これまで横綱としてのあるべき姿、品格の指導をしてきたのか、今回の処分を発するにあたっても朝青龍に対してその理由を十分に理解できるように説明をしたのか。彼が横綱としての品格を保っていないのであれば、その指導をしてこなかった相撲協会にも責任がある。仮にしてきたとしても横綱がそれを理解していなかったから今回の事態が発生したのであり、その責任は、親方だけではなく、協会にもある。北の湖理事長以下の全理事は、横綱に対する指導力不足に対して、自らをも処分の対象とすべきではないのか。
  今まで1人横綱として勝ち続けるために踏ん張ってきた朝青龍にとっては、白鵬という横綱ができたので、品格のないお前はもういらないと言われているようなもので、憤懣やるかたないと思う。今回の処分は横綱の生命を奪ってしまうようなものである。処分とは、本来本人の反省を促し、今後同じような過ちをしないように誓わせるべきものだと思う。これでは、これまで相撲に貢献してきたと思っている横綱にとっては屈辱感を味あわせるだけで耐え難いと思う。要するに本人に反省する機会を与えず、いきなり重い処分をしすぎており、処分を下した協会に、何ら自らの反省の姿が見えてこないということなのである。
  では、なぜ横綱には、品格が必要なのか。それは横綱がつけるまわしに意味がある。もともとは、相撲の最高位は大関であり、その中で横綱のまわしをつけられる者は限られていたという。その選定には、相撲が強い(力量)だけではなく、品格が必要であった。それは、横綱のまわしは、神様の神域を表す注連縄であり、その注連縄をつける者は当然神様でなければならないからである。神様である以上は、人に崇められる神様としての品格は必要である。
  ついでにいうと相撲は、日本の神様に奉納するものであり、神社の境内に土俵が作られるのはそのことを表している。その意味で国技であり、国技であるが故に天覧相撲として天皇がご覧になられる席が国技館には設けられているのであり、本来相撲は、外国人がとるものではなかったと思う。風習の違う外国人を横綱にするのであれば、このことを十分に納得させておくべきである。日本の神を崇敬できない横綱などあり得ないことだと思う。土俵が、地表より一段高く作られるのは、人がいる地表より上に神はおられるからである。つまり「上」は「かみ」で「神」である。土俵の周りに敷く縄は、これもまた神の結界を現す注連縄であり、、土俵の中は神の世界であることを示していると思う。したがって、土俵に上がって相撲を取るとき、神の世界を汚してはいけないので塩をまいて土俵上に邪気が入らないように祓い、清めているのだと思う。力士が四股(しこ)を踏むのも、地表の醜(しこ)を踏みつけているということで、かつては力士に四股を踏んでもらい地鎮祭をしていた例もあるという。この意味では、相撲を取る力士はすべて神に恥じない品格は必要である。ましてや、神であることを示す横綱の注連縄をつけ、自らが神として土俵上に上がってくる横綱には、神として崇敬されるだけの品位、品格が必要である。
  前々から朝青龍は強いだけで横綱としての品位、品格がないといわれていたが、20代そこそこの若者を横綱とした後、横綱としての品格、行動がいかにあるべきかを十分に理解させるための指導を怠ってきた協会に問題があると思う。協会は自らを裁き、襟を律すべきである。伝統、格式を重んじつつも、現代の若者の世相に対応できる柔軟な指導方針を確立してほしい。襟を正し、これからの相撲界がいかにあるべきかを今、真剣に検討していないと、閉鎖的な相撲界にあっては、これからも不祥事が続出すると思う。
  私たち修行者は、人を好き嫌いだけで判断するのではなく、非は非、是は是としながら、公平に物事を見ていく精神を育まねばならない。人を裁けば、自らも同じ裁きを受ける覚悟が必要である。

知覧特攻平和会館で絶句

平成19年7月30日のこと
  12:50~14:10、知覧特攻平和会館内に入り、沖縄特攻で散華した1036柱の人たちの写真を見て絶句、こみ上げてくる涙を抑えた。展示してある海底から引き上げられた後部のない戦闘機の残骸、この機は目的を達せず墜落したのだろうか、そのときの特攻隊士の思いはどんなだったのだろうか、言葉が見つからない。17歳からの特攻隊士たちが護国防衛の信念を抱き、片道燃料を積んで米艦隊に肉弾攻撃を行うために、知覧飛行場を飛び立ち、還えらぬ人となった。今の私たちには、そのような信念があるのだろうか。
  特攻隊士の遺書の数々、立派な文章と文字、旅立つ人たちのどこまでも勇ましく前向きの文章に胸打たれる思いであった。有は、数点の遺書を声を出して読んで、「この文字は何と読むの」か、「どういう意味なの」かと何度も聞いていた。教えてはあげたが、果たして納得いく説明ができたのか、そして、有はどこまで理解できたものか。でも、こういう機会に触れることによって、かつて日本が戦争をしたこと、護国の信念を抱いて多くの人たちが戦火に散っていたったこと、その犠牲の上に今日の平和があること、平和の大切さなど、やがて自ら身につけることができれば幸いだと思う。私も父が戦死していなければ、父の元でもっと違った人生を歩いていたかも知れないと思うことがある。それだけに私は、若いときから波乱はあったものの夫婦揃って子を育てる家庭の大事さという気持ちは貫いてきたつもりでいる。
  会館横にある観音堂の「特攻平和観音像」を参拝した。大和法隆寺の夢ちがい観音像を模倣して造像され、像内に特攻者の芳名が記された巻物が収められているという。ここでも声なし。暑い日差しが照りつける。有が、会館前通路の横にある平和釣鐘を撞きたいというので、棒に結び付けられている紐を引っ張って引くのだと教えてやったら、その紐を引っ張って3度鐘を撞いた。この鐘の音、英霊に対するせめてもの鎮魂、合掌。「南無阿弥陀仏」。
 ※画像 は、平和会館展示の海軍零式艦上戦闘機(昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500m、水深約 35mのところに海没、昭和55年6月に知覧町が引き揚げたもの)。http://www37.tok2.com/home/yaris2320/tokkoheiwa.htm

南洲墓地で示現流による鎮魂を見る 

平成19年7月29日のこと
  14:37~14:50。南洲公園駐車場でバスを下車し、真夏の炎天下の中を少し歩いて南洲墓地に行った。参道左側の石段を上ったところに、明治10年(1877)に勃発した西南の役で西郷軍に加わり戦没、あるいは処刑された人たちの遺骨を葬った墓地がある。ここを「南洲墓地」と称している。明治12年有志により、市内5か所に仮埋葬されていた遺体を、ここ(時宗浄光明寺跡)に集めて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨を集めて葬ったといい、その数2023体という。西郷南洲(隆盛の雅号)の墓は、彼らに囲まれるように石段の正面中央に建っている。墓前の賽銭箱に賽銭を入れて合掌した。有にも賽銭を渡し賽銭箱に入れさせた。
  その向かって右にある別府景長(晋介の法名か)の墓を見たとき、私の法名と同じ景の文字があったので親密感を感じた。別府晋介は、明治10年9月24日早朝、城山で被弾した西郷の自決に際し、その介錯をした人で、同日岩崎口の戦いで自決した(享年31歳)。同所での戦死者の中には、いとこの桐野利秋(40歳)もいた。私が気に留めているのは、この二人の生誕地が現在の鹿児島市吉野町実方であること。つまり吉野町という地名が、本山のある吉野町と同じだからだ。ただそれだけのことではあるが、同地にある実方神社前の実方公園内に桐野生誕地があり、その200m坂下の実方橋近くに別府生誕地があるという。機会があれば行ってみたいと思う。
  南洲墓地に向かって右奥に「南洲神社」がある。ここは、明治13年に南洲墓地全体の参拝所が設けられたところらしいが、大正11年6月28日、無格社「南洲神社」となった。拝殿前に建つ銘板に刻まれている氏名は、ここに葬られ祀られている人たちの俗名なのだろう。
  西南の役で西郷軍に加わり没した人たちが抱いていたであろう一途な想いは、志半ばで打ち砕かれ無念であったであろう。でも、それから130年の歳月が流れようとしている今日、この墓地が鹿児島市の観光スポットとなり、多くの観光客が次々と訪れているのを見ていると、たとえ戦に破れても、彼ら薩摩人のことは人々の心の中にいつまでも記憶され、ましてや神としても崇められているという意味では没して勝利者となったといえるのかも知れない。西南の役では官軍に属して戦没した多くの将兵もいたはずだが、その人たちの墓地については全く知らない。
  南洲神社石段下の広場で示現流練習会があっていた。この剣法が伝承されているということは、ここ鹿児島には、薩摩人の目的に向かって突進する攻撃一途の心意気が今も生き続けているということ。そして、この場所で示現流の練習を声高らかに行うと、その声は墓地全体に響き渡り、ここに眠る霊魂の鎮魂供養になるであろう。

神域を汚さないように注意しよう

平成19年7月24日のこと
 某神社参道にあるお仮屋の隣に、かつてあった家の主人が自殺し、その子息は気が触れて同家は断絶したと聞いた。また、同所の隣接地は、現在、すべて空き地になっている。お仮屋(神域)を汚す行為があったのか、ご無礼があったのだろうか。このお仮屋は、現在駐車場となっているが、お神様に対してご無礼にはならないのだろうか。
 よく似た話だが、現在某温泉となっている土地に、かつては丘陵があり、その頂上にはT神社の後方に位置する古墳があった。この丘陵でミカン栽培をしていた地主に某業者から賃借の話が持ち上がり、この丘陵を平地にするために削りだしたとき地主の家族に不幸が襲った。また、工事を請け負った業者は、工事担当者に負傷事故が続き、何度も工事が中断し、聖護院修験僧に依頼してお祓いをしてもらったが、倒産した。同地を借りる予定にしていた業者は、事業縮小で契約不履行となった。地主は他の業者に同地を売却、その後、紆余曲折を経て、今は、完全に平地となり、温泉施設が建ち、かつての丘陵の面影は全くない。
 この以前、丘陵の末端部分を削り、蕎麦店を経営した人は自殺して代が絶えた。また神社下で、丘陵の縁を削って飲食店を造営した奥様が突然死した。この丘陵のあった地域全体がかつては神域であり、丘陵上の古墳の主が神社の真の神であったと思われる。神域を考えなしに侵し汚す行為は、今でも神罰があるのではないかと思われるので、慎重にならざるを得ない。

若村麻由美(TV「刺客請負人」出演)の魅力

平成19年7月20日のこと
 女優若村麻由美は、今年4月宗教家の夫と死別後、テレビドラマの配役としては個性的な悪役が多く、ややもするとその美しさを台無しにしているように思えることがあるが、テレビでこの日始まった金曜時代劇「刺客請負人」で演じている女元締め役(闇猫のお吉)は彼女の美しさを本当によく引き出し、輝いている。そして、私は、この女優を見ていると故養母の若いときの面影を思い出すのです。
 ところで、彼女の故夫である宗教家のことですが、釈尊の生まれ代わりといい釈尊会という宗教をされていたらしい。私には、本当に彼がそうだったのかについてはわからない。ただ神仏との交信をする人は、肥満には注意しなければならないと思っている。太ってくると必ず真の神仏との交信(霊感)度が落ちるからです。

松尾大社夏越大祓「茅の輪」の神意

平成19年7月15日のこと
 7月3日、去る6月30日に松尾大社(京都嵐山)で夏越大祓が執行されたが、そのとき祈祷された無病息災厄除けを祈る「茅の輪」が届いたので、いったん松尾大神御神殿にお納めした後、7月8日、外玄関ドア上部(中央部分)に設置した。
 7月14 日、午前6:25、台風4号接近に伴い、外に置いているゴムの木(植木鉢)ほかの植木鉢を玄関内に入れておいた方が良いのではと思い、玄関ドアを開けた。すると、一番先に、玄関ポーチ横に植えている香港カポックの根元に目が行き、同所に玄関ドア上に設置していたはずの「茅の輪」があるのに気づいた。風で揺さぶられて、外れて飛んでいたのである。急いで拾い上げ、玄関内入れた。外は雨が降っていたのに、ほとんど濡れていなかったので、飛んだ直後だったのだと思う。きしくも丁度、この時間に玄関ドアを開けたのは、神がこのことを知らせようとされたからだと思った。
もう少し早い時間にドアを開けたら、まだ飛んでなかっただろうし、もう少し遅く開けたら、雨で濡れてしまって使い物にならなくなってしまっていたか、風でどこかに飛んで行ってしまっていただろう。このことを知らせられた神意のすごさを知り、同時にこの「茅の輪」に大いなる大神の神威がこもっていることを知らされた。
 7月15日、午後1:25、台風4号通過後、前回の設置方法のあまさを反省し、今度は、台風でも飛ばないように工夫をこらして、しっかりと取り付けた。道場に来る人たちは、必ずこの下を通るので、誰もが大神の無病息災の神威を授かることだろう。ありがたいことだ。

2007年8月18日土曜日

博多山笠(追い山)TV中継を観る

平成19年7月15日のこと
 前日午後2時頃、大型で非常に強い台風4号が大隈半島に上陸し、午後5時頃日向灘に抜け四国の南海上を北上した。台風が九州から離れたので、吹き返しの風はあるものの追い山は実施できることになり、櫛田神社(祇園)の神の神威を感じた。ただ強雨は続き、気温も下がっているので、追い山は冷雨の中での実施となった。
 4:15~6:00、NHK-TVで博多山笠の中継を観た。今は観るだけになった。アナウンスによると、博多山笠は766年の伝統があり、清道旗の回りを一周することで山を神に奉納する神事ではあるが、あわせて7つの流れがタイムを競う遊興でもあるという。つまり、重さ1トンの舁き山(山笠)を担ぎ、①「櫛田入り」のタイム(スタート地点の山留めから清道旗を回り出るまで)と、②全コース5kmのタイムで競うのである。
 すべての山笠は、420年前に行われた太閤町割りを基本にした7つの流れという町内組織のいずれかに属している。1番山笠には、博多祝い唄を歌える特権が与えられているが、この唄に1分かかるので、スタート地点の山留めを4:49に出発し、「櫛田入り」のタイムを1分マイナスする。この後、4:55から5分ごとに順次各流れが出発する。
 今年の「櫛田入り」の順序は、①土居流、②大黒流、③東流、④中州流、⑤西流、⑥千代流、⑦恵比寿流。これに加えて番外の⑧上川端飾り山である。なお、今年の櫛田入りタイムのトップは、千代流れ(32秒69)であった。
 一番山笠(土居流れ)が「櫛田入り」した後、番外8番目の飾り山(上川端)が「櫛田入り」を終えるまで、台風4号通過がもたらした強雨の中での走行であったが、櫛田神社境内の桟敷席やその近くの路上で観覧している客は、雨合羽姿で誰もが傘をさしていなかったので、さすがと思った。神に対する敬意の心得だと思う。神は、奉納される山笠を傘を差したりして観てはおられない。山笠の笠は傘に通じるので水に濡れるのは当然のことだろう。  
 「清道旗」は、次の3か所に立っている。
 ①櫛田神社(疫病退散の神を祀る祇園宮がある。なお、境内には松尾宮があり、多は、誕生日がまさに追い山の本番である7月15日で、その神を守り神としているので、ある種の品位才覚と情の強さを兼ね備えているのではないかと思う。戦前には近くに松尾屋という料亭があり、当家は松尾宮の禰宜でもあった)。
 ②東長寺(806年、平安時代弘法大師空海が建立した真言宗別格本山で、神仏混淆時代には櫛田神社をその管理下に置き、住職が櫛田神社の神官を兼ねていた。その歴史を重んじて今も山笠が奉納されているのだという)。
 ③承天寺(1241年、博多で疫病が大流行したとき開祖聖一国師病魔退散の祈祷を行い施餓鬼棚(お供え物の棚)に乗り若者たちに担がせ町中を回わり聖水を撒いた、これが博多山笠の起源となったといわれている。山笠に水をまくのはその聖水の意味もあるのだと思う。また、ここは山笠が回転するもっとも狭い場所でもある)。
 山笠は、この後、御供所町(旧東町筋)の狭い道路に入る。この道筋の先の、旧海岸線部分に約100mほどの急勾配があり、かなりのスピードが出る。大博道路に入ると、道幅が広くなるので頻繁に舁き手が入れ替わることができるものの、進行方向の目標が定めにくいので山笠はかなり蛇行して走る。冷泉町(権藤通り)に入った後、旧西町筋に曲がる狭い交差点(クスリのハカタ第一前)があるが、ここは舁き手の腕の見せ所といわれる。そして、廻り止め(須崎問屋街)までを約30分で駆け抜け終点となる。
 なお、飾り山には、よく川中島の決戦が題材にされるものの、どういうわけか舁き山に武田信玄を作ると不吉というジンクスがある。博多山笠の流れのもとになる太閤町割りを作った豊臣秀吉(西流れに属する奈良屋町にある豊国神社の祭神)に滅亡させられた武田勝頼(信玄の子)の怨念があるのであろうか。3月に9年勤められた西流の人形師の急死は悼まれる。

2007年8月17日金曜日

仏壇の掃除は自家の者でしよう

 平成19年7月8日のこと
 朝、曇り、時々太陽が顔をのぞかせていたが、昼を待たずまた雨になった。
 11:00 この日の供養のために帰省したBが車で迎えに来た。
なかなか道場を出発できなかったのでおかしいなと思って、何気なく暦を見たら仏滅だった。だから、なかなかお神様が腰を上げてくれないのだと分かったが、事前に、この日にご供養を行うことをお尋ねしたときは、即了解をいただいたので、その時間が来るのを待つことにした。
 そうしているうちに多が突然「午後2時に暦が大安に変わる」と言ったので、見切り発車で12時50分に出発した。そのとおり、午後2時、私たちを追いかけるようにお神様が到着され、C家仏壇供養を執行できた。
 仏壇供養に際して、本尊前の香炉に線香を入れただけではこと足らず、豆蝋燭を入れて火をつけた。香炉の中で蝋燭が燃え尽きるまで蝋燭の炎が上がっていた。今までの仏壇供養でこんなことをしたのは初めてで、仏壇の不浄祓いをされているだと分かった。
 なぜ仏壇が穢れているのか分からなかったが、後で、仏壇屋さんに頼んで仏壇の掃除をしてもらっていたことが分かり、なるほどと思った。その仏壇屋がどこかの不浄を連れてきたのだろう。どうも同家は、大事なことをお尋ねせずに行い空回りしているところがあるようだ。また当主は、今年も同家の子孫繁栄をもたらす仏壇供養に参加しておらず、今ひとつそのことが進まないのが残念である。15:20終了。

新妻聖子のサド侯爵夫人ルネ

平成19年6月29日のこと
 NHK・BS2深夜放送でサド侯爵夫人(三島由紀夫原作の戯曲)の劇場中継録画を見た。蛇のように巻いた長い髪形をして、母モントルイユ夫人(剣幸)に対し激しい言葉を浴びせ、憎憎しいほどすばらしい演技をしている女性がサド侯爵夫人「ルネ」を演じる新妻聖子です。
 ルネは、役の上では貞淑な妻ですが、既に第1幕において母モントルイユ夫人に対し激しい口調で「良人が悪徳の怪物だったら、こちらも貞淑の怪物にならなければ」と発する言葉を聞くと貞淑とは何かと戸惑い驚かされてしまいます。第3幕で悪徳の怪物サド侯爵が牢獄から解放され城に戻ってきたとき、貞淑の怪物たるルネが、侯爵の入城を断固として拒否する言葉を発し終幕します。何とも説明のつかない思いが心の中を渦巻き、それでいて感動する、ミュージカルとは全く違った感動のあるすばらしい台詞戯曲だと思う。私たちが普段口にしている愛、貞淑、悪徳、傲慢、品位、社会的立場、道徳等等、この戯曲を見ていて何が正しいのかと考えさせられることが多い。ぜひ機会があったら見ていただきたいと思い、ここに掲載しました。
 ところで実は、私は、このミュージカル女優新妻聖子のブログをいつも見ている隠れたファンなのです。今年は、元旦に、TV「堀部安兵衛」で伊佐子役で出演していた彼女を見たので、ついてると思ったくらいです。最近では、ダブルキャストではありますが、9月4日博多座開演のLes Miserables(レ・ミゼラブル)のエボニーヌ役で出演すると聞いています。私は、ミュージカル界のシンデレラガールといわれている彼女にエールを送りたい。

無縁仏が応援している

平成19年6月29日のこと
 A氏が道場に参拝にきたときのこと、道場で同家先祖の霊供養を行い、念仏を唱えているとき、私の手が勝手に動き何度も大徳寺銅輪(鐘)を打ち鳴らしたので、鳴らした私自身が不思議に思っていたが、「鳴らした鐘の数と同数の無縁仏がA氏についてきた、今、その供養をしている」のだということが分かった。
 さらに「A氏の家の中を通る多数の無縁仏がおり、その中には、邪魔(金縛りなど)をするものもいるが、祈祷された好文木の香りを受け、お経を聞き、成仏していくものもおり、これらは、A氏を公私にわたり応援をしている」ということが分かった。今まで、無縁仏は、いかにして祓えばよいのかを決めて祓うべき、祓えないときは敷地内にお地蔵様を安置して供養する、通過する無縁仏には迂回路を作ってやる等の方法があると思っていたが、そればかりではなかったようである。改めてこれまでの修行のなかで見聞したことを思い返していたら、かつて故中野晃道師(八女市祈祷院)が信者が持ち込んだ魑魅魍魎と思えるものを祓わず、そのまま居間で預かり供養を行い、逆に師自身がそれらに守られているのを見たことがあった。これとよく似たケースであった。
 A氏は、長男が帰省したとき「この家は得体の知れない騒々しさがありよく眠れない」と言って泊まりたがらないので、「この家を人に貸して、自分はアパートを借りた方が良いのではないかと思っている」と言われたが、霊的には、今は、邪魔をしている無縁仏は少なく、むしろ応援をしており、移転すべきではない。
 無縁仏を供養し、無縁仏に応援させるほどの力を持っている祈祷済み好文木の香の力を改めて教えられた感じがする。

護身乃柵が瞬間移動

平成19年6月28日のこと
 久しぶりにF氏に会ったとき、F氏が話されたことだが、福岡市で就職が決まり移転したとき、心境の変化があり、いつも持ち歩いていた護身乃柵(自分の三世を守護する一生のお守り)を実家に置いてきたという。
 その際、護身乃柵を箱に入れ、誰にも分からないように、自分の部屋のタンスの奥にしまいこんだ。ところが、先日実家に帰り、仏壇を見たら、その護身乃柵が仏壇の中に立てかけてあったのでビックリした。あわててタンスを開けたら、箱だけが残っていた。意味がわからず、母に尋ねたら「触ってない」と言われ、父は「俺がお前のタンスなど開けるはずがない」と言われた。その両親も、いつからその護身乃柵が仏壇にあったのかについては全く記憶がないという。いくら考えても自分で仏壇に置くはずがなく、不思議で仕方なく、皆が分からない間に護身乃柵が瞬間移動したとしか考えられないと話していた。
 瞬間移動については、私も数回経験している。近年では、K病院で、自動販売機で買った缶コーヒーを休憩室のテーブルに置き、椅子に座り、飲もうと思い手を伸ばそうとしたら、たった今置いたばかりの缶コーヒーがなくなっており、同じテーブルに座っていた3人(他には誰もいなかった)を巻き込み大騒ぎになったことがある。皆で探した結果、その部屋の奥の窓の近くにあった。この場にいた誰もが行くはずのない場所で、瞬間移動したとしか説明がつかなかった。後で分かったことだが、その窓の外にある建物は霊安室だった。霊が飲みたくて引っ張ったのだろうか。
 この例をみてもわかるように、F氏の話は、勘違いや作り話ではなく、護身乃柵がタンスの中から仏壇に瞬間移動したことに間違いなく、このことを通じてこの護身乃柵には、氏を守るご先祖の魂も入っている、ということを教えられているのである。きっと御守護霊が、タンスの奥にしまっておくようなものではない、持ち歩いた方が良い、と言われているのである。「今度実家に帰ったら必ずもって持ってきます」と言われた。護身乃柵は、1人で生活しているF氏をきっと守ってくれると思う。ありがたいことだ。

2007年6月5日火曜日

工芸社長の祥月命日に消息を知る

平成19年6月3日のこと
 理容店で整髪中、突然眠気に襲われた。うつらうつらしながら顔毛をそってもらっているとき、ふとこの近くに住んでいた工芸社長のことが思い浮かんできた。どうしても気になって仕方がなかったので、店主にに聞いてみた。
 店主は、突然なぜ彼のことを聞きだしたのかと怪訝な顔をされたが、「今年の1月3日に亡くなったよ」と言われた。深酒のしすぎによる急死だという。その数日前に、普段あまり話をしたことのない彼が珍しく理髪店主の奥様に声をかけ世間話をしていたらしい。やはり、先ほど突然眠気に襲われ彼のことが脳裏に浮かんだのは、彼がお別れに来ていたからだった。
 きしくも今日は3日で、6か月目の祥月命日に当たる日に、その逝去の話を聞くことになったのも不思議である。「かつて縁のあった人なので線香を立ててあげよ」というお知らせでもあった。少なくとも20年以上は会っておらず、私より2歳年上だったが、私の脳裏に浮かんできた彼の姿は若いときのままであった。
 なお、彼の弟とは修験道の同門ではあったが、今から10年以上前に豊後竹田市で行われた管長導師による第2回岡城跡採灯大護摩供(豊後竹田市)のときに同宿して以後会っていない。同門との照見行脚・正見行脚の修行も断ち切り、かつての記憶も遠くなっている。この10年近く神ごとに対して、迅速に動けないる自分がいる。神は、はやる自分を、まだその時期にあらずとして抑えられたのであろうか。これもまた苦しい修行である。
 整髪を終え、道場で彼の供養のために香を立てた。ご冥福を祈る。

立ち枯れモミジの身代わり

平成19年6月3日
 一昨年秋、南庭の中央部分にある背の高いモミジの紅葉が終わった後、幹の各所にかなり虫食いの跡があるのに気づいた。それても昨年春にはたくさん葉をつけた。しかし、秋になって、葉はきれいに紅葉しないままちじれるように枯れ、しかもその枯葉も自力で飛び散ることもできなかったので、松葉箒で落とした。
 今春、新緑の季節を迎えても一向に新葉が出る様子がなかった。もう枯れ木になってしまったかと思っていたとき、4月14日、二股になっていた幹のうち、居間から見て左側の幹に新葉が出たのでホッとした。だが右側の幹からは出ず、その枝の一部が赤くなり枯れだしたので、5月4日幹の中途で伐採した。
 しかし、6月に入り瞬く間に、せっかく出ていた左側の新葉が全部枯れてしまった。枯葉は、やはり自力で飛び散ることができず、枯葉をつけたまま立ち枯れの樹木となり、何とも無残な姿を呈していたので、お神酒と神塩をまきかけて樹霊に祈り、根ごと引き抜いた。今年、幹の虫食いに必至に耐えて新葉を出したのであろうが、新葉を出すことで精魂使い果たしたのであろう。
 神は「身代わり」と言われた。一昨年、私は落胆の激しい年であったが、最近やっとその状態から何とか立ち直りつつある。きっとこのモミジが家の中心となる者が枯れたり腐ったりして倒れることのないようにと、自らの姿をもってその無残さを教え身代わりになってくれたものと思っている。当道場では、庭の樹木に至るまでがその身に代えてでも照見行脚・正見行脚の修行成就を支えているのであろうか。そういえば身代わりの「身」は照見・正見の「見」と同音である。

あるF大準教授の退職挨拶状

平成19年5月25日のこと
 かつて縁のあったF大学準教授が今年3月31日に退職されたことは知ってはいたが、まだ定年前の61歳でどうして教授昇格も断念して退職されたのだろうかと思っていた。
 挨拶状には、「40年の永きにわたりF大は学生時代を含めまさに私の人生そのものでしたが、これからはやりたいことが多々あります」と記されていた。今後の方向についての具体的な記述は何も書かれてなかったが、何か目的があってのことだと思う。
 最初の奥様を亡くされた頃、頼まれて数回、ご自宅に伺い地所祓いとご供養を行ったことがあり、またこちらの供養会にも、当時ともに小学生だった娘さんと息子さんを連れて来られたこともあった。しかし、奥様の一周忌の後、「これから先は檀家寺に頼むので」と言われて以後、供養ごとで関わったことはない。ただ私としては、ここの供養ごとを「未完のまま」中途で打ち切らねばならなかったことに対する心痛はあった。あれからもう20年以上経っている。
 氏はその後すぐに再婚されたが、短期間で離婚、以後今日まで独身を通されている。今は娘さんも東京に嫁ぎ子供が二人おり、息子さんも東京で独立されているという。かつて縁あった氏の今後の活動を祈りたい。

脳裏の毘沙門堂に導かれる

平成19年5月20日のこと
 「七重塔礎石」を見学に行ったとき、その右奥方向に建っている物置小屋のような建物が視界に入った。最近、どういうわけか何度もこの建物が脳裏に思い浮かんでいたが、どこにあったものか思い出せないでいた。だから、遠目にこの建物が見えたとき、すぐに脳裏にある同じ建物であるとわかった。 この建物は「毘沙門堂」である。
 ここに行ったのは随分と以前のことで、奉に「お参りしておきなさい」と言った記憶がある。毘沙門天は、奉の御守護神ではないかと思っている。
 錠前がかかっている扉の隙間から堂内の様子を覗いた。中はきれいにしてあるが、毘沙門天像までは見えなかった。
 この日この地に行ったのは別の目的があったからで、この毘沙門堂を探しに行ったわけではなかった。しかし、別の目的の方はまったく達成できず、結果的には、どこにあったものか思い出せないでいた毘沙門堂に行き着くことになった。何かしら脳裏にあった疑問が解けたような感じで安堵感につつまれた。 意味あって神の導きがあってのことだと思う。
 この日は、ここで軽く挨拶した程度で立ち去ったが、いつかちゃんとした形で挨拶する機会がくるのかもしれない。神は、ここも照見行脚若しくは正見行脚の修行の道筋のひとつとして示され、ここに導かれたものと思う。奉が一緒に行ければ好ましいことではあるが、縁があればである。
 このお堂の左にある樫の大樹の下に石祠があるが、その前の叢に割りと大きな礎石が一つあった。何の礎石なのか、もともとここに毘沙門堂があったものなのか、毘沙門堂の由緒等もわからない。
 「七重塔礎石」のある場所に戻ると、足元に綿帽子をつけたタンポポがたくさん生えているのに気づいた。先ほどは、全く気がつかなかったので不思議な気がした。脳裏にあった毘沙門堂に行き着いたお祝いに好みのタンポポを見せてもらえたのだろう。
 ※画像は、筑前国分寺七重塔礎石、http://ameblo.jp/giotto/entry-10044060073.html

2007年5月20日日曜日

たんぽぽと伊丹十三記念館

平成19年5月15日
 一昨日、道路美化作業のとき、アスファルト道路の縁部分で鮮やかな黄色の花を咲かせている「タンポポの花」に気づいた。今朝行ってみると開花は終わっていた。綿帽子はまだできてなかった。孫はタンポポの綿帽子を吹いて飛ばすのが好きで、綿帽子をフーしたら、種をつけた白い綿の一つ一つが一斉に風に乗って四方に飛び散っていく様子に爽快感を感じるのだと思う。本当に良い場所に飛んでいって根を張ってほしいと思うものだ。5個ほど引き抜いて花壇の端に移植したが、アスファルトの縁に移植ごてが入らなかったので根元から完全には抜けなかった。雑草だが、黄色の花の色の鮮やかには癒される。また、冬の間、地に這うように葉を広げ、寒さに耐える力強さには励まされる。
 なぜ雑草のタンポポをわざわざ抜いてきて庭に移植したのかというのは、昨日テレビで「伊丹十三記念館」(松山市東石井)オープンのニュースを見ていて、伊丹十三の妻宮本信子(女優)が、開館日を伊丹の誕生日である5/15に合わせたほか、伊丹十三が「タンポポ」を好きだったので、特に記念館の中庭にはこだわって「タンポポ」を植えたと言われたので、タンポポを庭に植えても良いのだと思ったからであった。伊丹十三監督の映画のなかにも、「タンポポ」という作品があったと思うので本当に好きだったのだろう。
 なお、「伊丹十三記念館」は、その名前にちなんで、「13のコーナー」に分かれているという。神奈川県湯河原町で撮影された「お葬式」の撮影セットが再現されており、本当に記念館内こんな祭壇の展示があるのは珍しいと思う。それにしてもその名「十三」は、仏教では成仏に導く「十三仏」を指すありがたい仏の数ではあるが、1997年自殺(享年64歳)で人生を閉じられたのは惜しまれる。
 ※画像は、伊丹十三記念館の概観、http://itami-kinenkan.jp/

端午の節句と菖蒲湯

平成19年5月5日のこと
 昼頃、ふと思い出したように妻に「菖蒲湯にする菖蒲の束買ってきた?」と尋ねたら、「どこで売ってるの?今までしたことないよ」と言われた。今までしたことなかったのか。そうしてみると私の記憶は子供のときのことなのだろうか。記憶はあるがいつのことなのか思い出せなかった。しばらくして買い物から帰ってきた妻が「菖蒲あったよ、このまま風呂につければいいんだよね」と言った。
 夕食のとき、孫が「こどもの日にどうして菖蒲湯に入るの?」と聞いたので、「菖蒲は勝負と同じ発音だから、菖蒲湯に入って勝負に強い子に育つようにということだよ」と答えたが、黙っていたので理解できたのかどうか分からない。
 毎日新聞「余禄」欄を見ていたら、確かに「菖蒲」は「尚武」や「勝負」と同音なので、それと同じ意味に見立てられ心身の丈夫な男子に育つようにとの願いがこめられて端午の節句の祝いに使われたとある。元は菖蒲の葉を束ねて、それを刀に見立てて男の子たちが合戦をし、その束でたたかれると息災になるという「魔よけ」の行事があったという。この遊びが、江戸時代に端午の節句に菖蒲の葉束で地面を打つ魔よけの「菖蒲打ち」となったらしいが、菖蒲湯の風習はいつのことなのだろう。
 こうして今夜、当家では初めての「菖蒲湯」に入ることになった。照見行脚の修行をする者は勝負にも強い心身を育てておかねばならないだろう。

お教や賛美歌は短調音楽

平成19年5月2日「修験道60号)」着
 田中利典氏の特別講演「修験道に学ぶ子育てのありよう」のなかで現代音楽は、コマーシャルソングにいたるまですべて長調で作られており、短調がまったくないので、それを聞きなれている子供たちは、幼児にいたるまで、短調で構成されている日本の子守唄には馴染まないばかりか拒否するという。そのため人間の悲しみや愛情の念などの感性を育てる短調的な情緒に欠ける子供たちが育っているというくだりは、何か納得できるような気がした。賛美歌とかお経などの宗教音楽は全部短調に起因する音楽だという。
 そうしてみると小さいときから般若心経を覚え仏壇で称えることができる子供や、基督教系の幼稚園や小学校で賛美歌に馴染んでいる子供たちは、きっと情緒ある子供に育つと思う。ぜひこういう情緒ある人たちがこれからの社会のリーダーになって行くことを望みたい。
 今社会を見渡したとき、経営者や教育者と言われる人たちの中にも人としての情愛や情緒に欠けているのではないかと思える人がいる。その人たちは、心底から一生付き合える人ではなく、決して人々からいつまでも尊敬され続けることはないと思う。ひょっとしたら長調で育った人たちなのかもしれない。
 正見行脚を行じる人たちは長短兼ね備えた人であってほしい。神仏は短調的な感性の持ち主に宿り、意義ある人生を全うできるように導いて行かれると思う。

2007年5月19日土曜日

「上高場大藤」満開の香華

平成19年4月30日のこと、本尊祠等に大祭成就御礼行(5人)
 「観音堂」
 壇の端に「奉納品一覧表」が透明のビニール袋に入ったままの状態で置かれていた。壁に画鋲で止めていたものだが、地元の人が外れているのに気づいてそこに置いてくれたのだろう。ありがたいものだ。この用紙に、奉納品の書き込みをするたびに毎回、画鋲を外し止めなおしていたので、板壁に画鋲の針穴がたくさん付いていた。外れたのは、もっと貼り方の工夫をしろということなのだろう。いったん持ち帰り、PCで打ち直して、次回行くまでに貼り方の研究をしておくことにした。
 花瓶の花は、今日上げられたもののようで美しく、まるで私たちの参拝を待っておられたかのように思えありがたかった。お神酒を上げ「4/22大祭成就の御礼」勤行を行った。お神酒は、本尊祠参拝後、周囲にまいた。
 「本尊祠」
 大祭前に参拝したとき祠の前で地表に頭をもたげようとしている竹の子2本が目に付いたが、既に折り倒されていた。地元の人が処分されたのだろう。お供えとしての役割が済んだということである。
 祠では、終始強風が吹きつけていたので、灯明は立てず、お神酒を上げ「4/22大祭成就の御礼」勤行をした。しかし、参拝を終えお神酒を周辺にまき、道路に戻ったらまったくの無風状態だったのでとても不思議な感じがした。門番犬は、吠えてはいたが、敷地の奥に座ったままだった。歳も重ねてきているからなのだろうか。
 「松峡宮」
 鳥居をくぐり左側の天満宮社後方にある「天神祠」や「道祖神碑」などを久しぶりに参拝した。天神祠内の木造2体の御神像は風化が進み痛ましい。
 石段を登り松峡宮拝殿に上段してお賽銭を上げ、今年初めて参拝した。広瀬宮、田神祠にも参拝した。田神祠は扉に亀裂が入って前方に傾き危険な状態になっていた。その前方の通路は一部崖崩れしてビニールシートが被せてあったが、同所にかかる拝殿の地盤も緩んでおり、その上の拝殿の屋根瓦などもずれているようだった。
 「上高場大藤」
 帰路、途中で食事をしていたら、まだ見たこともない上高場大藤が浮かんできた。この大藤は、松峡宮末社の上高場大神宮境内にある。今、季節的にこの大藤が満開ではないかと思い、それを松峡宮の神が教えられたのだと感じ、急遽行ってみることにした。
 今戻ってきた道をまた引き返し、松峡宮からから国道を横切ってまっすぐ行けば良かったのに勘違いして下高場を回り、かなりの遠回りをしてしまった。この勘の鈍りが照見行脚(若しくは正見行脚)から遠ざかっている証かも知れない。それでも、しかるべく到着することができたのは、やはり神の御加護あってのことだと思う。
 樹齢100年以上といわれる藤の大幹から伸びる多くの枝に垂れるように咲くたくさんの藤の花が満開で美しく、あたり一面に何ともいえない甘い香りが漂い癒される思いがした。樹木から発散される霊気をたくさん浴び、身体が浄化されていると感じた。やはり、神々がここに誘われたのであった。このような満開のときに運よく行き合わせることができ、樹霊の気を大いにいただくことができたのは、神の導きがあってのことだと思う。
 そのなかで大神宮にお賽銭を上げ参拝、境内の中国天神社にも御挨拶をした。同天神社内に数体の木造神像が安置されていた。こうしてきちんと整備して安置されていると、前述の天神祠のなかの御神像のような風化は防げるのにと思った。
 後になってわかったことだが、勘違いして下高場を回ったと思っていたことは、そうではなく下高場の観音様を迎えに回ったということだった。そういえば、観音堂の前を通って行った。まだまだ神々がされる導きは、それとすぐに気づかないことが多い。

2007年4月25日水曜日

人の幸運と不運は同数

平成19年4月22日本尊供養大祭執行
 昨夜、萩本欽一出演のKBCテレビ(23:00~54スマステ!!)で、彼の「人生で幸運と不運の量は同じ」という考え方を聞き、そのとおりだろうと思った。
 人は、幸運ばかりを願い、不運を悔やむが、不運で苦しんだ分だけ幸運が来ると思えば、不運を悔やむ必要はない。不運は甘んじて受けよう。不運で苦しんだ分だけ幸運が廻ってきてその分だけ幸せになると思えば悔やむことはない。
 人には生年月日に左右されるバイオリズムがあることは、よく知られている。生命保険会社でよくこの表を作ってくれたりするが、その曲線は日々上下に山と谷を繰り返して描いていっている。この曲線を見ていても、確かに山と谷の数は同じになる。良いことの後には悪いことが、悪いことの後はまた良くなる。つまり悪いことはよくなる前兆なのだから、今の苦しみを乗り越えればきっと良くなる、こう思うことができればどんなときでも心身に活力が沸いてきますね。照見行脚で苦行をした後、すがすがしい気持ちになれるのも、苦しみを乗り越えたからこそ味会うことのできる喜びだからでしょう。まさに幸運と不運は同じ、これも照見行脚する行者が心得ておくべき真髄の一つであろう。

2007年4月23日月曜日

古家解体と頭痛について

平成19年4月19日
 ある婦人が自分の住んでいる家の敷地内にある古家(空き家)を壊したら激しい頭痛に襲われたという話をされた。その原因を探ったら、古家を壊す前にしておかねばならなかったことをしてなかったからだった。
 この家の場合は、古家を壊す前に母屋の台所に神棚を作り屋敷神を迎えておく必要があった。さらに仏壇に置いてある二つの繰り出し位牌を一つにまとめて別に先祖代々の位牌をおいた方が良かった。その上で古家の解体を迅速に行うべきだった。
 また、古家に置いてあった荷物は、どれとして価値あるものはなかったので解体屋さんに持ち去ってもらったらよかった。しかし、捨てがたい物があったようで、それらを母屋に運び込んだようである。だが、そのときその物に憑いていた憑き物が一緒に母屋に入ってしまった。先に母屋に屋敷神をお迎えしておけば、その憑き物の侵入を未然に防ぐことができたと思う。
 母屋に入り込んだ憑き物は、アゼハシリなどの動物霊の類で、仏壇にも侵入した。。御先祖位牌を置いて供養しておれば、侵入を防ぐことも可能であったと思う。すべきことをしないまま、解体を実行に移すまでの期間もかかりすぎた。
 御先祖は、頭痛という現象を通じて早く間違いに気づくようにと教えておられたのである。
 解体後、母屋の部屋のあちこちで、仏壇でもミシミシ、パチパチと音がしだしたという。また、仏間に置いてある観音様が泣いておられるように見えるという。
 考えてみると、これは、古家を壊す相談があった頃に伝えていたことであった。神ごとの真髄を伝え、その人がそのとおりにしてくれないとき、教えた者にその反動が来て体調にこたえる。こういった照見行脚の行はありがたいものではない。
 とりあえず、今すべきことを教え、頭痛を抑えた。婦人が4/22の供養大祭に参加された後、仏壇で線香を立てられたら仏壇のアゼハシリは飛び去る。それで上記の現象も一応は治まるが、願わくばやはり教えたことを早く実行に移してほしいと思う。

2007年4月18日水曜日

志賀海神社の話題から。

平成19年4月15日。知人らと雑談の中で、みのもんたの「にっぽんミステリー(日テレ)」の話が出て志賀海神社の話になった。誰かが「志賀のお神様は海神で荒く怖い神様でお姿を見せないために、夜中の真っ暗ななかで笛や太鼓だけで御神幸を行うのだろうか」と言った。
 「そうしてみると志賀海神社の巫女さんが老婆と言うのも何か通じるところがありますね」、「若い巫女では怖くて勤まらないということですかね」、「怖いと言ったら、極端に不浄を嫌うお神様だといいますから、それを破ると怒られるのですよ」と会話は続く。
 確かに島には不浄を嫌う風習があるそうだ。たとえば、葬式を出した家は棺桶を持って参道を横切ってはいけない。また近所の人がお悔やみに行っても御霊前をそっと置いてすぐに逃げ帰るなど。
 ある人が子供とき、参道で小便をしているところに練習中の流鏑馬の矢が飛んできて、矢に小便をかけてしまった。その人は、その後、何度も死ぬような経験をして志賀島を出て行くことになったという。
 また、祭典のとき宮司が放った流鏑馬の矢が島外から見学に来た子供の額に当たった。その子は病院に運ばれ異常はなかったが、後でその子の家が葬式を出した直後だったことが分かったという。不思議な話があるものだ。葬式を出した家の人たちは、少なくとも1年間は不浄があけるまで、神社に行くのは慎んだ方がよいと思う。
 私は、志賀海神社にも随分と行っていない。この日、志賀海神社の話が出たのは縁のある境内末社の神にお参りに来るようにと言われているのかも知れない。この参拝も照見行脚の道筋の中にあるのではないかと思う。
 ※画像は、志賀海神社楼門、http://www.sikanosima.jp/shikaumi-shrine/index.html

2007年4月10日火曜日

大祭前の本尊祠・山頂御挨拶

  平成19年4月8日(日)のこと。今月、本尊供養大祭を実施するにあたり、お迎えする本尊様と結縁神仏への事前御挨拶に赴いた。
  本尊祠前の観音堂で「33観音」の絵馬を見上げていたが、随分と色あせてきているような気がした。以前その一部をRが線画にしたことがあるが、この33観音の所在地(絵馬の文字はほとんど読めない)及び現存の有無については未だ調べていない。
  本尊祠に着いたとき、その右後方の眼下に見える池の縁を指差して、時節柄、孫に「以前、あそこに大きな桜があったんだよ」と言ったら、「池があったの、初めて知った」と言った。ここには何度も来ていたのに知らなかったのかとビックリした。当然知っているものだと思っていたが、思い込みだった。孫にとっては新たな発見となった。
  祠前で勤行を始めたと同時に突然強風が吹き出した。そして、勤行が終わったと同時に吹き止み静かになった。この強風は集落や山中の神仏が四方からここに参集された証であった。池の水面も祠方向に向かって波打ち、神仏が水上を通って来られている様子が実感できた。山林にたたずむ上宮や中宮にも行きたいと思っていたところ、図らずもその神々の方がやってこられ「今日は行かずともよい」と。そのため、お供えしたお神酒が少なかったかなと思ったほどだった。したがって、山頂にも登らなくてもよいのだと思ったが、山頂にはここに参集された神仏と一緒に登れということだった。
  祠前で「竹の子」が2本、頭のてっぺんを土の上にもたげ出そうとしていた。これがお供えとなった。このままにしていてよいのかとも思ったが、妻が「地元の人が(処分)するからいいよ」と言ったので、そのまま、この場を後にした。
  祠への坂の途中にいつも吠える番犬がいるが、今日はどういうわけかおとなしく座り込んで頭をたれ一声も吠えなかった。神仏の姿を敏感に感じていたのだろう。
  山頂に登ることには、猪出没の心配から妻が強く反対した。「危険なときは、道路の途中に柵がしてあるから引き返せばいい」と言って納得させた。ところが、本当に柵がしてあった。妻が「引き返そう」と言ったが、タイミングよく柵の向こうに男性がいたので、「猪がでますか」と聞いた。「たぶん出ないでしょう」と言われたので登ることにした。その人は、香を納得させるために神仏が遣わされた人であった。
  山頂霊石にお塩とお神酒を上げたが、既に祠で神仏への挨拶は済んでおり、ここで軽く参拝をした後、弁当を広げ直会とした。食事が終わったと同時にまた強風が吹き、小雨も降り出したので、急いでお神酒を周辺にまき下山することにした。この強風は、一緒に登ってこられた神仏が退散されたときに巻き起こったもので、小雨は大祭前挨拶を受け止められた神仏のうれし涙だった。これにより本尊様と、その結縁神仏への大祭前の御挨拶を行うことができ、同時に大祭成就のお示しをいただいたのであった。晴れ晴れしい気持ちで帰路についた。

2007年3月15日木曜日

三世乃柵108体目の仏縁

  昨日、小生を介して「三世乃柵」の申し込みをされた108体目の申込者に柵を送った。  先月、あと一人申し込みがあれば、その人が108体目の受者になると分かり、ぜひこの108体目のめでたい仏縁を誰かに頂いてもらいたいと思って、何人かの人に勧めたが、その人たちは、まったく反応を示されず、縁のない人たちに勧めてしまっていた。  ところが、2月26日、思いもよらず、私の知らないご家族3人が申し込んでこられた。以前柵を受けた人が、知人に勧められて、そのご家族3人が申し込みをされたのだ。そのため、このご家族3人が同時に108体目の仏縁者となられた。このご家族3人も、勧められた人も、そんなこととはまったく知らずに、このありがたい仏縁を頂くことになった。よほどの幸運に恵まれる人たちだったのだろう。累計すると110体になった。  然るに、この108体目にいたるまでには、107人の人たちが柵を手にしておられ、この人たちが受けられた柵の積み重ねの上に108体目の柵が存在するのであり、これにより、この全員が同時にありがたい108体目の仏縁をいただくことになった。また、I様をはじめ、これまで多くの知人に勧められた人は、その人数以上のご利益をいただくことにもなった。  柵を受けるために納めたご供養料は、自分のご利益のためだけに頂くためのものだけではなく、神仏に対するお布施であり、ご先祖のご供養料にもなっている。そして、この柵を受けるための供養料の額に匹敵するご利益を神仏から受けることになる。  仏教には三宝を敬うと言葉があるが、その敬う方法の一つにお布施がある。神仏の名を借りて法外なお布施を請求する霊感商法はいかがなものかと思うが、ご先祖のご縁あって知りえたご縁ある神仏に必要なお布施を差し上げることは、ご先祖が喜ばれる。この喜びが、その金額の何倍にも匹敵する御利益をもたらされることになる。  柵を持っているのに節分祈祷札を申し込む必要があるのかと言う人がおられるが、この祈祷札の申し込みも、お布施だと思うとよい。祈祷札の申し込みも、ご先祖に対するご供養になる。神仏はその人のお布施の心と行いに対して有形無形の形で応えてくださる。祈祷札を人に勧進することも、柵を人に勧進することもお布施の心と行いそのものである。

2007年3月14日水曜日

若宮八幡宮旧宮跡

 2月20日のことだが、診療所の駐車場を出て、本当は左折して入ってきた道を引き返すはずだったが、どういうわけか右折してしまった。一瞬、通り抜けできるのだろうかと思ったが、直進すると路地を抜けることができた。右折すると信号機があり、そこで信号待ちをしているとき、ふと右側の「猿田彦大神」石碑が建っている空き地に目が向いた。そして、その石碑の前に「若宮八幡宮旧宮跡」と刻まれた小さな石碑が建っているのに気づいた。この空き地は、「伊野皇大神宮」の神殿工事のとき仮宮となったところだとは思っていたが、まさか「若宮八幡宮」の旧宮地だとは思ってもみなかった。そうしてみると現在、県道沿いの丘陵地にある若宮八幡宮は、いつの時代かに、この旧宮跡から移動したことになる。
 若宮八幡宮は、山田の産土神ではないのかと思っているが、随分以前に2度ほど行ったような記憶がある。はっきりとは覚えていないが、社殿の建っている神域では神の霊気を感じず、その横から更に上に登る山道だったか石段だったかを登ると、頂上に「五穀神」を祀る石碑があったような気がする。当時、そこで強い霊気を感じたので、この丘陵の頂上地に元宮か本宮(旧宮)があったのではないかと思っていた。しかし、そこが旧宮跡ではなかったのだとしたら、この頂上地には、もともと地主神がおられたのでないかと考えられる。そして、後にこの地主神の神域である丘陵中腹に若宮八幡宮が移転してきたというこことになるのかも知れない。
 今日、たまたまこの近くに所用ができ、通常通らない道を通り、信号機が赤で停車したために、運転席から窓越しに右を向き旧宮地跡の石碑を見せていただいたということは、偶然のことではなく、現在若宮八幡宮のある神域に再度行ってみよと、神に示されているのかも知れない。今、思い出してみると、以前、同八幡宮の前の県道でスピード違反を起こし免停になったことがあり、また同所近くで追突事故を起こし賠償したこともある。いずれも境内と言ってよい地域での出来事である。こんな形を通して、既にこの頃から間違いを正せといわれていたのかもしれなかったが、今に至るまで気づかなかった。旧宮跡に面した県道を何度も通っているが、未だこの旧宮跡には足を踏み入れたことがなく、ここに今も神霊が在されているのかどうかも分からない。

2007年2月8日木曜日

ある先生からの手紙

 「・・・お世話になりました。仕事を通して多くの人とかかわりながら自己成長に役立てて参りました。・・・私の名前はツヨミですが、実はツヨシで男子だったのでしょか?ウフフフ・・・。先生もお身体大切にお過ごしくださいませ。・・・そしてこれからも職場の中心に居てくださいませ。・・・」
 前から「ツヨミ」という名は女性にしては強い名だと思っていたが、「ツヨシ」が実名と知りまたまたびっくりした。「ツヨシ」は育の亡父と同名なので不思議な縁を感じ、忘れられない人となった。 なお、亡父は昨年4月他界し、11月遺族から新仏壇の開眼供養を頼まれ大阿闍梨修験僧として行った。
 実際の私は、職場では何の権限も持たされておらず職場の中心にいるとは思えないが、諸先生にとっては、私をそういう存在と思うことで精神的な支えとされているのではないかと思う。それがまた私の励みとなって、何とかしてあげようと努力してきた。       
 私は全身全霊を現在の職場に捧げて仕事に没頭してきた。そのために、自らの照見行脚の修行が疎かになっていたような気がする。神は、これからは没頭するにしてもほど合いが必要であるとして、今、また照見行脚、若しくは正見行脚の修行再開を求めておられるのだと思う。

2007年2月7日水曜日

祈祷札が霊の通路を迂回

  節分祈祷札が霊の通り道を塞ぎ迂回させる・・・本山から届いた節分祈祷札を申込者の家族ごとに分け権現供養会の後で申込者に配布した。申込者の今年の運気は上昇すると見える。
  某家では、昨年末28日に玄関においていた祈祷札を納めて以後、またもやたくさんの霊が姿を現わして玄関に面している階段を登ったり降りたりして騒いでおり、一日も早く今年の祈祷札が届くのを心待ちにしていたという。
  当初この家のお払(祓)いを頼まれ、お払いをしていて、この家の近くに元大きな墓地があったこと、そして、この家が霊の通り道に建っていることに気づいた。このような場所は、くらお払いをしても払いきれるものではなく、次から次にやってくる霊をどこに払うこともできない。しかる後、玄関の下駄箱の上に祈祷札を置き、その前に塩を上げさせて、祈祷札の神力でもって霊の通り道を塞がせた。つまり、霊の通り道を塞ぐ代わりに、この家の横に霊的な迂回路をつくり霊の通り道を迂回させたのである。
  ところが、祈祷札を納札すると、たちまちこの家が元どおり霊の通り道に返ってしまう。挙句は、枕元まで霊が入ってくる。金縛りになるときもあるという。寝るときも護身の柵を身近に置いて身を守ってもらっているという。
  なお、こういった家では道場で祈祷している抹香をできるだけ多くの量を燃すことも有効である。
 Dパーク開園20年目・・・今年は、昭和63年の開園から数えて20年目の節目にあたるという。開園の年に養母の遺骨を納骨した。当時中学生だった多は、今は小学生児の母。私も老いたね。でも、このまま老いるわけには行かない。今年は、体調を整え照見行脚の修行を再開したい。修行を怠って間を空けていると霊的な勘も鈍る。      

2007年2月6日火曜日

霊的問題解決に順番あり

 今日相談があったことの内容の公表はできないが、「神ごとには順番がある」ということは伝えた。
 家庭内にいろんな問題があるときは、それらの問題がすべて微妙に絡み合っており、すべての元になっている原因が何かを突き止めないと何も解決できないことが多い。解決しようと思えば、まずその問題のどこかに霊的な問題が絡み合っていないかを見極めなければなりません。もし霊的な問題が絡みあっているようでしたら、絡みあった原因(悪因縁)を解く糸口を見つけて、そこから根気よくひとつひとつ解いていくしかない。
 私たち修行者は、その糸口を見つけてあげるのが仕事です。糸口が見つかったら、突破口を開く。それは、印明による払いの場合もあれば、口頭で伝えることもある。
 いずれにしろ、相談者が行うことは、まず最初に言われたことを実行すること。それを実行すれば、また次の糸口が見えてくる。この積み重ねの中で、抱えていた多くの問題の一つ一つが解けていく。目先の現象面だけを見ていると、それと気づかないことが多いが、後になって振り返ってみると、いろんな問題が、解決に向かっていることに気づくはずである。
 多くの人は、この順番を踏まずに先を急ごうとしますが、それでは何一つ好転はしない。まず先にしなければならないことを急いで実行すること。言われたことを実行しないと、また新たな問題が生じてますます糸が絡まることがある。まずすべきことをそっちのけにしたまま、新たな問題の解決方法を相談されても相談に乗れないことがある。

2007年2月4日日曜日

本山節分・雛飾・若杉眺望

 「福は内、鬼も内」の本山節分会・・・
昨日節分で孫が「鬼は外、福は内」と言ってまいた豆が庭に散らばっていた。修験道の総本山金峯山寺では、「福は内、鬼も内」と言う。節分で追い出された全国の鬼が金峯山に集まるという。そういえば修験道の開祖役の行者には前鬼、後鬼がつき従っている。お祓いをするとき、払われるものの行き先を決めて行わないと失敗するが、「鬼も内」は、このことを暗示しているようにも思える。全国で追い払われた鬼の行き先は金峯山と決められているから、各家で鬼を追い払っても、追い出された鬼が帰ってきて災いを起こす心配はない。

 雛飾り・若杉山眺望・・・
旧道場内殿に飾り付けた。年一度の年中行事だが、雛段の組み立て方を思い出すのに時間がかかった。間(期間)があくと勘も鈍る。間と勘は、ともに「かん」と発音。間があいても勘が鈍らないように常に心がけておかねばね。雲ひとつない晴天に恵まれ、旧道場の窓から「若杉山」がきれいに眺望できた。若杉山は頂上の太祖宮を中心に、北谷は建正寺観音堂や伝教大師堂(坐像安置)を中心とした天台宗の霊場、南谷は真言宗の霊場があった。南谷には大正年間に篠栗八十八か所も開かれた。なかなか近くにあっても登らない。

2007年1月30日火曜日

六ヶ岳眺望・護身の柵107

 六ヶ岳眺望・・・
天候は曇時々小雨だったが、どういうわけか突然、待機室の窓から日差しが差し込んだ。窓の外に六ヶ岳の一部の山容が見える。この1峰崎戸山に古代宗像三女神が降臨され、山頂には三女神を祀る石祠(上宮)がある。考えてみるともう5年以上登拝していない。きっと神が照見行脚の再開の道標を示されたのだと思う。
 護身の柵の霊力・・・
最近、護身乃柵を求められた人が、「このところ気の迷いが多かったが、申込後、突然、体内の気の流れが変わって、よく眠れるようになり、元気になっていく自分を感じた」と言われた。  護身の柵は、三世世界の三尊(釈迦如来、十一面観音菩薩、弥勒菩薩)に自分の一生を守護してもらえるお守りで、不思議な霊力がある。  「自分の三世(過去、現在、未来)の悪因縁や厄を除去し自分の一生を守護してもらえるお守りがある」と話しただけで、すぐに求める人もいるかと思えば、この人には絶対持っていてほしいと思い勧めてもまったく反応しない人もいる。この差は何なのだろう。かといって、誰かれと声をかけられるものでもない。勧めるのにもそれなりの精神的エネルギーが要る。一度言って反応のなかった人は、神仏との縁のない人、二度と声をかけることはない。  このようなお守りを求めている人とめぐり合うかどうかは、何か目に見えない縁のなせることなのだろう。自ら求めた人は、必ず何らかの形で災難を免れている。中にはせっかく手にしていながら途中で捨ててしまう人もいる。また、このお守りを手にした人たちがその功徳を感じて親戚知人に勧められたらその輪はもっと広がるのだろう。  今まで縁があって護身の柵をお渡しした人数を数えてみたら107人で、あと1人で108人になることがわかった。この中には、Iさん(57歳女性)が勧められた人も多い。             108は、仏教では煩悩を表す数としており、108煩悩を乗り越えると仏の智慧を感得する照見の境地に至るものと思う。除夜の鐘は、煩悩除去を願って108回打ち鳴らす。         小生を介して申し込まれる人で、この108人目の佛縁に巡り会える人は誰だろう。

2007年1月28日日曜日

本尊供養会・本尊祠参拝 

 寒の土用期間中の初本尊供養会。気の流れが上昇に変わる立春(2月4日)も近い。  
  観音堂、本尊祠に8人で行った。天候は曇りで時々小雨が降ったりして肌寒かったが、不思議なことに、このいずれでも参拝時には神仏の照射をいただき、太陽が照り付けて暖かった。この照射は、照見であり、今年は照見行脚の始まり年であると知らされた。ありがたいことだ。  里宮、上宮、薬師堂には行かなかった。特に今は狩猟解禁中で山中に入るのは危険。山中には今年の干支の猪や野生の鹿もいるという。