平成19年7月30日のこと
12:50~14:10、知覧特攻平和会館内に入り、沖縄特攻で散華した1036柱の人たちの写真を見て絶句、こみ上げてくる涙を抑えた。展示してある海底から引き上げられた後部のない戦闘機の残骸、この機は目的を達せず墜落したのだろうか、そのときの特攻隊士の思いはどんなだったのだろうか、言葉が見つからない。17歳からの特攻隊士たちが護国防衛の信念を抱き、片道燃料を積んで米艦隊に肉弾攻撃を行うために、知覧飛行場を飛び立ち、還えらぬ人となった。今の私たちには、そのような信念があるのだろうか。
特攻隊士の遺書の数々、立派な文章と文字、旅立つ人たちのどこまでも勇ましく前向きの文章に胸打たれる思いであった。有は、数点の遺書を声を出して読んで、「この文字は何と読むの」か、「どういう意味なの」かと何度も聞いていた。教えてはあげたが、果たして納得いく説明ができたのか、そして、有はどこまで理解できたものか。でも、こういう機会に触れることによって、かつて日本が戦争をしたこと、護国の信念を抱いて多くの人たちが戦火に散っていたったこと、その犠牲の上に今日の平和があること、平和の大切さなど、やがて自ら身につけることができれば幸いだと思う。私も父が戦死していなければ、父の元でもっと違った人生を歩いていたかも知れないと思うことがある。それだけに私は、若いときから波乱はあったものの夫婦揃って子を育てる家庭の大事さという気持ちは貫いてきたつもりでいる。
会館横にある観音堂の「特攻平和観音像」を参拝した。大和法隆寺の夢ちがい観音像を模倣して造像され、像内に特攻者の芳名が記された巻物が収められているという。ここでも声なし。暑い日差しが照りつける。有が、会館前通路の横にある平和釣鐘を撞きたいというので、棒に結び付けられている紐を引っ張って引くのだと教えてやったら、その紐を引っ張って3度鐘を撞いた。この鐘の音、英霊に対するせめてもの鎮魂、合掌。「南無阿弥陀仏」。
※画像 は、平和会館展示の海軍零式艦上戦闘機(昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500m、水深約 35mのところに海没、昭和55年6月に知覧町が引き揚げたもの)。http://www37.tok2.com/home/yaris2320/tokkoheiwa.htm
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