2007年8月19日日曜日

南洲墓地で示現流による鎮魂を見る 

平成19年7月29日のこと
  14:37~14:50。南洲公園駐車場でバスを下車し、真夏の炎天下の中を少し歩いて南洲墓地に行った。参道左側の石段を上ったところに、明治10年(1877)に勃発した西南の役で西郷軍に加わり戦没、あるいは処刑された人たちの遺骨を葬った墓地がある。ここを「南洲墓地」と称している。明治12年有志により、市内5か所に仮埋葬されていた遺体を、ここ(時宗浄光明寺跡)に集めて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨を集めて葬ったといい、その数2023体という。西郷南洲(隆盛の雅号)の墓は、彼らに囲まれるように石段の正面中央に建っている。墓前の賽銭箱に賽銭を入れて合掌した。有にも賽銭を渡し賽銭箱に入れさせた。
  その向かって右にある別府景長(晋介の法名か)の墓を見たとき、私の法名と同じ景の文字があったので親密感を感じた。別府晋介は、明治10年9月24日早朝、城山で被弾した西郷の自決に際し、その介錯をした人で、同日岩崎口の戦いで自決した(享年31歳)。同所での戦死者の中には、いとこの桐野利秋(40歳)もいた。私が気に留めているのは、この二人の生誕地が現在の鹿児島市吉野町実方であること。つまり吉野町という地名が、本山のある吉野町と同じだからだ。ただそれだけのことではあるが、同地にある実方神社前の実方公園内に桐野生誕地があり、その200m坂下の実方橋近くに別府生誕地があるという。機会があれば行ってみたいと思う。
  南洲墓地に向かって右奥に「南洲神社」がある。ここは、明治13年に南洲墓地全体の参拝所が設けられたところらしいが、大正11年6月28日、無格社「南洲神社」となった。拝殿前に建つ銘板に刻まれている氏名は、ここに葬られ祀られている人たちの俗名なのだろう。
  西南の役で西郷軍に加わり没した人たちが抱いていたであろう一途な想いは、志半ばで打ち砕かれ無念であったであろう。でも、それから130年の歳月が流れようとしている今日、この墓地が鹿児島市の観光スポットとなり、多くの観光客が次々と訪れているのを見ていると、たとえ戦に破れても、彼ら薩摩人のことは人々の心の中にいつまでも記憶され、ましてや神としても崇められているという意味では没して勝利者となったといえるのかも知れない。西南の役では官軍に属して戦没した多くの将兵もいたはずだが、その人たちの墓地については全く知らない。
  南洲神社石段下の広場で示現流練習会があっていた。この剣法が伝承されているということは、ここ鹿児島には、薩摩人の目的に向かって突進する攻撃一途の心意気が今も生き続けているということ。そして、この場所で示現流の練習を声高らかに行うと、その声は墓地全体に響き渡り、ここに眠る霊魂の鎮魂供養になるであろう。

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