毎日新聞の「雑記帳」蘭に「蒙古塚供養塔再建」の記事が載っていた。その記事には「鎌倉時代の元寇で戦死した元軍の兵士を慰霊する福岡市・志賀島の蒙古塚で8日、05年の福岡沖玄海地震で倒壊した供養塔が約2年ぶりに再建された。かつての供養塔は1927年、政財界と宗教界の協力で建立。今回は塔を管理する同市中央区の勝立寺(坂本勝成住職)が檀家約300人の募金で再建した。安全面から塔を移動させ、硬い地下岩盤にしっかり固定させた。神風に地震と元寇の霊も災難続きだが、これで当分は大丈夫と関係者は安堵の表情?竹花周」と書かれていた。
この記事を読んでいて、かつて一度だけ当地に行ったときのことを思い出した。それは、1978(昭和53)年5月28日のことで、29年も前のことだが、なぜか鮮明に覚えている。その日、妻と小学1年生になったばかりの長女を連れて、志賀島の万葉歌碑巡りをした。確か同島の西南端の海岸近くに置かれた横長の大岩に筑紫豊氏の筆で刻まれた第6号歌碑「志賀のあまの塩焼く煙風をいたみ立ちは昇らず山にたなびく」を見学したついでに、その上方にある蒙古塚の丘を登り、頂上に建っている蒙古軍供養塔(石碑)を見た。上記の記事にある「かつての供養塔」のことである。この供養塔が2年前の地震で倒壊していたとは知らなかった。小さな五輪塔も数個あったと思う。
その日は、快晴で、春陽の照りつけるすごく暖かい日だったが、当地に着いた途端、なぜかわからないが、ここにはおれないと思って、あわてて登ってきた坂道を引き返した。その後、急に元気だった長女の顔色が青ざめて発熱した。熱冷ましを飲ませる等の応急処置を施したら治まったものの、当時何が起きたのか原因がわからなかった。このような状況を起こした原因が憑依霊によるものではなかったのかと思ったのは、随分後になってのこと。同島出身の人たちに、この話をしたとき、「親から、あそこは怖いところだから近づいたらいけないと言われていた」「地元の人は怖がって誰も行かない」「夜になると火の玉が飛ぶ」などと言われたのを聞いてであった。以来、今日まで一度も当地に足を運んだことはなく、当地の現状は知らない。
それにしても、この「元寇の霊」というのが、1281年の第2回元寇「弘安の役」のものであったら、726年も前の霊ということになり、このように長い年月を経ても浮かばれないでいるということになる。上記の記事を読んでいて、その苦しみ、望郷の念を断ち切る成仏供養が現在も勝立寺とその檀家の人たちの間で続けられているのではないかということが想像でき畏敬に思う。当地に足を運ぶことすら止めた私にはとてもできないことだ。
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