2008年12月23日火曜日

プログ移転

  このところ、下記ブログと同じことばかり書いているので、重複して恐縮することしきり。したがって、当分の間、下記にまとめたいと思いますので、登録を下記アドレスに変えてください。
  お願いします。
  ブログ名は、同じ 「正見行脚」 としています。
    http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/

2008年12月19日金曜日

吉野山に前登志夫さんの歌碑が建立された

  12月7日に、たまたま目にしたブログ「短歌と英語大好きのおばさんの日々」に「前さんの歌碑が、吉野山の金峯山寺の境内の南朝皇居跡公園に立てられたという記事があった。刻まれた歌は、さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり  歌集「青童子」より  ご自身がわかりやすい歌をと、生前に選ばれたものだという。05年のころから歌碑建立の話があり、碑の文字も自筆の色紙から採ったものとのこと」と書かれていたのを見て、すばらしいことだと思っていた。(http://blogs.yahoo.co.jp/fumanband/45849064.html)
  前さんと直接を言葉を交わしたことはないが、昭和60(1985)年10月14日金峯山寺蔵王堂前で「蔵王讃歌」の大合唱が披露されたときお見かけしたことがあり、以来、お名前は、作詞された「蔵王讃歌」とともに忘れたことはなかった(4月8日記載ブログ参照)。
  最近(10月8日)では、ブログsomething like that で、次のような文を見て、私も読んでみたいと思っていたほどである。それは、「前さんと駿台」というテーマで「10月5日に行われた駿台予備校の全国模試をちらちらみていたら、国語の問題に、前登志夫さんの「存在の秋」の一節が引用されていた。吉野の桜の話、ビルマで戦死されたお兄さんのしてくれた楠正行の話などであった。」(http://pinecones.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-ebc9.html)
  そんな折、金峯山寺から届いた「金峯山時報(12月10日発行)」で「前登志夫氏の歌碑 有志により建立する」の記事を見た。
  記事を見ると、建立除幕式は11月25日に執行され、その場所は妙法殿前辺りのようだ。そういえば、そこに「南朝皇居跡」の石碑が建っていたような記憶がある。ここを南朝皇居跡公園というのだろう。昭和56年から27年間、毎年、「金峯山時報」新年号に掲載されてきた前氏の新春短歌集を金峯山寺にて編集発刊したとのこと。また遺弟の集い「山繭の会」の萩岡良博氏が歌碑の詩を披講されたという。「山繭」は「やままゆ」と読むのだろうか。
  この後で、金峯山寺・田中利典宗務総長のブログ「山人のあるがままに」を読んだ。「吉野のサクラをこよなく愛し、また自分自身が吉野の山林に定住して、山川草木の深い慟哭を聴き続けて来たことでしられる歌人」で、「今年新年号の最後の歌が「一基だに われの歌碑なき吉野山 雪ふみくだる いさぎよかりき」であった。この歌をいただいたとき、えーー、先生の歌碑はたくさん建っているのに吉野山にはなかったのだとはじめて気づき、ま、督促していただいたようなものだと悟って、早速建立話を寺内ですすめるところとなった。先生の意向もお聞きして「さくら咲く ゆふべの空のみづいろの くらくなるまで人をおもへり」という自筆の歌を刻むことを指示いただいたが、生前中の建立はかなわず、昨日ようやく建立をみて、4月に亡くなった先生の遺影にささげたのであった。」とあり、ようやく歌碑建立の経緯が分かった。
  また、金峯山寺に寄稿された歌は、昭和45年以来の分を含めると99首もあるそうだ。
  前登志夫さんは、山深い山中の集落(自宅/下市町広橋)で生育され、林業に携わる傍らで、吉野山の自然をこよなく愛し讃える短歌を詠み続けられ、土俗の前衛的歌人とも称されていたが、本年4月5日吉野の山桜の咲く季節に82歳で亡くなられた。
  死後にはなったものの念願の歌碑が吉野山、しかも吉野櫻に包まれた修験道の総本山金峯山寺境内に建ち、きっと霊界で喜んでおられることだろう。この歌碑は前さんの菩提碑と言ってもよく、すばらしい供養碑となることだろう。今度帰山したときは、必ず見学し合掌を捧げたいと思っている。
 ※画像は、「山人のあるがままに」http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2de.htmlからお借りしました。

2008年12月11日木曜日

朝日新聞Miss Saigonメッセージに新妻聖子

  12月1日から朝日新聞西部本社版朝刊に、来春1月5日から博多座で公演されるMiss Saigonのプリンシパル24人のメッセージ広告が掲載されています。枠は小さいがカラーで載っているので、すぐに目に付く。毎日、楽しみに見ているが、今日は、新妻聖子だったので嬉しかった。メッセージを次に転記します。
  「新妻聖子が博多座で「ミス・サイゴン」キム役を演じるのは、もしかしたら一生に一度かもしれません。あなたに、観ていただきたいです!! 2月18日まで博多の街に滞在しながら、心を込めて日々の舞台を勤めます。是非、この感動を目撃しにいらしてください!!」
 ※画像は新妻聖子公式ブログ(8/31、スタボー出演時のもの)からお借りしました(朝日新聞掲載ミス・サイゴンの画像ではありません)。

生涯かけて正見行脚(実母のアルバム⑪)

  母は、別の意味で、私に「何度も裏切られた」と言ったことがあった。思い当たることは多々ある。
  私は、幼少のときから養母の元で育ち、養母に対する想いは人一倍強く、また恩義も強く感じていた。この心がいつもブレーキとなって、実の母には、接近しては離れる、を繰り返し、心底から気持ちを通じ合えないジレンマがあった。その狭間で、産んだだけの母とは縁を切ろうなどと思ったこともあったが、結局は切れなかった。血のつながった実の親子とはそんなものなのだろう。私の、時として決断を鈍らせる優柔不断な性格も、こういった背景のもとで形成されたのかもしれない。
  それでも最後は、心から母を想い、自分なりに尽くすことができた。一度は延命護摩をたき、死の淵から生還させることができたが、二度目はできなかった。というより、もう少し生きていると思っていたのである。
  私には、寝たきり状態で明日の行方が見えなくなっている母をこれ以上苦しませたくないという思いもあったが、母は、まだ生きようとする気持ちが強いと思っていたので、もう少しは大丈夫と踏んでいたのであった。しかし、後で考えてみれば、どこか安堵していたような面もあったので、死期を悟りふっと息を抜いたのだろう。
  母は、死の前夜、自ら強く望んで久しぶりに入浴し、身を小奇麗にしたようで、霊界への旅立ちの準備をしていたのか。翌朝、容態が急変し、長く苦しむこともなく、あっけなく逝った。
  母の死後、私は、自ら修験道の作法に従い仏式で母の魂の引導渡しを行った。喪主を兼ねて葬儀一切の導師を務めた。もともと、私が僧籍を得たのは、母の導きで金峯山寺に行き得度をしたことがその発端であり、今、考えてみれば、母の葬式をするために得度をして、修行を重ねて大阿闍梨になったような気がする。 かといって私自身が悟りを得ているわけではない。
  当然、母の法名も、母が私より1年早く得度したときに頂いた法名をそのまま使った。母は、私の行う葬儀修法に満足し納得して、現世での一切の憂いを断ち切り黄泉の国、来世へと旅立ち極楽往生した。このことを幸いと思いたい。
  その後、たまたま残っていた母が出たS尋常高等小学校の同窓会アルバムを見たとき、母が生まれ育った時代背景が見えてきた。若い時代は、戦争という背景を抜きにして生きられなかった。その中での結婚、出産、別離があった。戦争を挟んだ苦しい時代を、必至に生きてきた。
  青春の時代に戦争がなければ、母も私ももっと違った人生があったのかも知れないが、人は避けて通れない宿命に翻弄されて生きている。その道筋をもがきながら生きて、自分の人生を形作って行くしかないのだろう。母は母なりに、正しい仏陀の教え道理を見るべく生涯かけて正見行脚したのだろう。そして、最後に悟りの境地に至り、生涯を閉じたと思う。
※画像は「クリップアートファクトリー」
http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/07_character/clipart2.htmlからお借りしました。

2008年12月10日水曜日

「けじめ」をつける(実母のアルバム⑩)

  母の身内に心から母のことを慕い、心配してくれた人がいたのだろうか。母が残した書類の中に、CやDの金銭借用書があった。母が常々「お金を貸したが返してくれない。あげてもいいと思ってはいるが、貸してくれと言って借りたのだから、いったんは返すのが筋。それがけじめ」と言っていたが、その話は事実だったようだ。
  母の死後、Cは、私に「お母さんが亡くなっても絶対に返します」と口にしたが、母に督促されても返さなかったものを私に返すはずがない。Dは「お母さんが、そのお金は返さないでよいといっていた」と言った。
  母は、1人で生計を立てていただけに、お金のことはシビアであった。世話になった人にはきちんとお礼をし、お小遣いをあげたりする人だったが、貸してくれと言って貸した人にお金を返さないで良いと言うような人ではなかった。母が貸したお金を返してもらおうとは思っていないが、けじめのわからない人たちを悲しく思う。C、Dとも母の遺品を運び出した後は何の連絡もない。
  なお、母の遺品に群がった人たちがTVアンテナやトイレマット、トイレットペーパーなど、まさかと思えるような品々までも運び出したのには驚いた。
  生前、母は、私に「お前は、人に借金したりして迷惑をかけるようなことはしないが、私の周りには、私からお金や金目のものを取ろうとしている人が多い」と嘆いいたことがあり、当時、私は母の妄想と思っていた。しかし、今は母の嘆きの意味を理解できる。
 [死者に合掌せず]
  もう一つ残念なことがあった。母に、子供ときから育ててもらった人が、新興宗教Eに入信し、母の死に際して合掌一つしなかったことである。自分たちの実父の死のときもそうだったという。本人たちは基督教と言っていたが、本当にキリストはそんな教えを説いたのだろうか。
  ところで、母が入院中に「いつも親切にしてもらっている」と言っていた看護師(男性)がいた。母がこの看護師に好きなのは何かと尋ねたら「焼酎が好き」と言った。母が私に「彼に焼酎をあげたい」と言った。そのことを知った婿が鹿児島に出張したときに買った焼酎をくれた。この焼酎を彼にあげたらすごく喜んでいた。
  母が死んだ朝、出勤してきた彼と廊下出会った。早朝に私が病院にいるので不思議に思い「どうかされましたか」と声をかけてきた。母の死を知った彼は看護服に着替えた後、「お別れをさせてください」と霊安室で合掌した。その看護師の姿を見た看護長が「早く持ち場に戻りなさい」と注意した。
  焼酎2本を貰っただけなのに恩義を感じ、持ち場を離れてまでも霊安室に行き合掌を捧げた看護師がいるのに、どうして上述の人たちは合掌一つできないのだろう。
  身近な人の死を悼み合掌して気持を捧げるのは自然の姿である。自然の流れに逆らうような教えに染まってしまった人たちなのだろう。
  葬儀の流れの中で最初から一切顔を出さないのならまだしも、食事時には大挙して押しかけてくるのが不思議だった。たとえば通夜には出席せず、その後、故人とのお別れを惜しむ飲食時には出席する、さらに翌朝告別式前のおときに来て食事をし、告別式が始まるといない。火葬場に行くバスに大挙して乗車、そのため大型バスを手配しなければならなかったが、火葬している間の待合室での飲食に参加したが、遺骨は拾わない。料亭での法要の間は誰も姿を見せず、精進あげが始まるとどっと入室する。当然、御霊前は包まない、線香は立てない、焼香はしない、合掌はしない。
  そして、「私たちは生きている人には尽くすが、死んだ人を悼むことはしないという教えに忠実に従っているだけです」と主張する。道理に反する教えは無意味である。世話になった人に対する感謝の気持が伝わってこない。死者を悼むことはしないが、死者が残した遺品はいただく。母は、この人らを、どんな育て方をしたのだろう。
 [けじめ]
  当初は、母の家を売って分けようと考えていた。しかし、それは、母の本意ではないことを悟った。母が残した遺品のすべてを与えたことで、私との関わりも終わった。人としての道理や人情が通じない親戚は要らない。これが、霊界に赴く母が下した最後の「けじめ」であった。ただ、亡母の供養をしてくれる人には別に考えている。  母は、自由闊達に生きた人と思っていたが、本当は、身内の多くに頼られ裏切られていた寂しい人だったのかもしれない。

2008年12月9日火曜日

自らの信奉との決別(実母のアルバム⑨)

  母の某社信奉は、その死の1か月ほど前まで続いた。しかし、死を意識していたのか、会員継続を「もうしないでよい」と口にして更新せず自然脱会した。折もおり所属していた支部が、本部から離脱し別会社を設立したことも決断を促す一因になった。
  最後は、実子の私にすべてを託し来世への引導を渡してもらうしかないと思ったようで、そのためにも死ぬ前に、私が関係していないこの社への信奉を整理しておこうと考えたのではないかと思う。その頃には、自分が死んだ後、S霊園に遺骨を納骨できることが分かり安堵するなど、死を意識していたことは確かであった。
  私が仕事などで帰りが遅くなったり、疲労で休んだりして病院に顔を出せない日があると、翌日必ず病床から携帯電話をかけてきた。それほど気が弱くなっていたのだろうが、やはり最後に面倒をかけ頼ることのできる人は、私しかいなかったのである。
  母が死に、母とは姓が違ってはいたが、葬儀の喪主になる人は私以外にはいなかった。まず病院の霊安室での供養から始まる葬儀一切を、私が導師となり仏式で行うことにした。病院から葬儀車で死体を母の自宅に運んだ。
  居間に敷いた布団に寝かせようとしたとき、布団に大きな同上社のロゴの入ったシーツが敷いてあったので、すぐに取り除いた。「誰がこの毛布を敷いたのですか」と尋ねたら、Bの妻(同社会員)が「姉さんをこの毛布の上に寝かせた方が喜ぶと思ったので」と言った。
  母は、生前、常々同社は宗教ではないと言っていたので、供養法まで口をはさむことはない。だが、その会員が喪主に断りもなしに、自分の考えで勝手なことをしてはいけない。私は、「母は、死ぬ前にそこをやめています」と言った。
  余談だが、母は、生前、私や私の家族の健康を願いゴールド会員にして、ゴールド会費を払ってくれていた。数回、母を私の車で所属支部まで送迎したこともあった。母は、同社の健康食品(サプリメント)を販売する指導員になっていた時期があり、この商品仕入れ等に相当の金銭を使っていたようである。
  葬儀が済んで数日後、同社に詳しいBが合鍵を使って母の留守宅に入り、大量に買い置きしてあった健康食品(仕入れ伝票、領収書、電話早見表を含む)のすべてを持ち出した。1か月後、Bを追求したところ、「K町の会員に全部あげたら喜ばれた」「伝票類は燃やした」「早見表はちょっと連絡したいところがあったので」と答えたが、健康食品の量は1人の人にあげて喜ばれるような半端な量ではない。それらを売りさばくために伝票、早見表も必要だったと考える方が妥当である。仕入れゼロで販売すれば売り上げのすべてが儲けになる。母は一体誰のために、これらを大量に買っていたのかと思う。母は生前、Aが健康食品も狙っていると言っていたが、実際に狙っていたのは母が信用していたBだったということになる。母の周りには信じるに足るような人はいたのだろうかと思う。
  ただ、同社会員の中にも親友といえる心の友、高齢のUさんがいた。晩年の母にとっては救いであった。何かと電話やハガキで励ましあっていたようで、人生の最後にこのような人にめぐりあえたことは幸せだった。そのUさんとは、私も数度、電話でお話したこともあり、今でも感謝している。
 ※画像は「クリップアートファクトリー」http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/02_woman/clipart1.htmlからお借りしました。

2008年12月7日日曜日

絶縁10年を経て母と再会(実母のアルバム⑧)

  実母との交際を絶って10年後、母から「主人が死んで丁度10年経ったからもう会ってくれもいいでしょう、相談があるから来てほしい」と電話があった。
  縁を切っていたはずだが、母の方から「相談がある」と言われると、そこにはどうしても説明の付かない気持ちの動きがあった。そして、母の家を訪れた。
  会うと、親子の10年の溝は一瞬のうちに埋まってしまったかのようであった。相談とは、母が所有していた中古アパートに関することで、「A君が、アパートを壊して、1ルームマンションを建てる計画を勧めているが、どうしたらよいか」ということであった。
  その後、母の家で、AとAが連れてきた不動産屋さんにあった。不動産屋さんは、「満室になれば収益が出ます」「お母さまは年老いておられるが、商売をして銀行の信用があるA氏が保証人になれば銀行ローンが組めます。A氏が保証人になった後、もしもお母様に何かあったときは、お母様名義のものはすべてA氏が受け取り引き継ぎます。そのために、お母様と付き合っておられない実子のあなたに遺産放棄をしてもらいたい」と言った。
  黙って聞いていたが、許されないという思いが湧いてきていた。聞き終わったと同時に私の口が開き、次のようなことを言った。
  「ワンルームマンションの需要が長期に続くとは思わないし、現在設定した家賃の額をいつまでも維持できるとは限らない」 。
  「この計画では、満室になっても収益が少ない上に、満室にならないと赤字になる。この計画を実行すると、途端に母の生活が困窮するのが目に見えている。このような採算の取れない計画には絶対に賛同できない」 。
  「母と付き合っていないというが、母には今のアパートがあり、生活は困らないという背景があり、安心感があったから付き合わなくても平気でいられたのだ。そのことを他人にとやかく言われる覚えはない」 。
  「だいたいA(呼び捨て)は母の何なのか。銀行が信用しても私は信用していない。そんな人に保証人になってもらう必要はない。他人のあんたに遺産放棄しろと言われて、はい、そうですかと答える義理はない」。
  これに対して怒った不動産屋さんは、「私の店舗に来て親分と会って話をしてくれ」と意味不明の話をしだしたので、「いつでも会うよ」と応じたら、母が「喧嘩はしないでくれ」と言った。
  後日、この不動産屋さんの店舗に赴き、ここには書けないやり取りがあったが、結果的にこの計画は消滅した。
  計画を壊した私に対して、母は、意外とさばさばとしていた。迷っていた気持ちが吹っ切れたようだった。
  その後、私は、母にI不動産を紹介して次のことを実行に移させた。①アパートの管理一切をI不動産に変更し、I不動産に手数料5%を支払い、その管理一切を委託させる。③アパートの家賃を下げて全室を満室にすること。そのお陰で、家賃集金に関わる心労は減り、逆に母の収入は増えた。
  しかし、年月の経過とともに、入居者が入れ替わるたびに家賃は徐々に下がり、その上、台風や地震などによる被害で建物のあちこちに傷みが生じ、その補修費がかさむようになった。また荷物を置いたまま行方知れずとなる人がいたりして、その廃品撤去にも費用がかかるといった状況も出だした。次第に母はアパートに手をかけることを止め、空き室が出ると新しい人を入居させることもしなくなった。母の死後、築35年になるこの古アパートを相続したが、現在、その取り扱いに苦慮している。
  しかし、もし母が当時Aの計画に乗っていたら、確実にマンション経営に行き詰まり、その後の人生は暗礁に乗り上げていたはずである。だが、この一件がなかったら、本当に一生、母と再会する機会がなかったかも知れない。私を再び母に近づかせるために、Aは悪役を演じさせられたことになる。これが神仏の見えない力である。母にとっても私にとっても、あの時点で完全に親子の縁を断ち切ることは許されなかったのだろう。
  しかし、以後10数年間、母が入院するまでは、是々非々の付き合い方をしてきた。あまり親身になりすぎると、1人暮らしが長い母にいろんな疑念を抱かせてしまうことになりかねないと思っていたからである。
  そして、今回再び私の前に立ちはだかったAは、今度は完全に信用を失い、母が死を迎える前に除外された。せっかく母の面倒を見てきた好意が、心がけの間違いで悪意であったことが露見したからではあったが、結果的には、Aは、私に母に対する最後の孝行をさせる機会を与え、母の葬儀を執行させるための役割を演じたことになる。
  これらのすべては、神仏の見えない力や導きによるもので、神仏は、「必要なときに必要な人にいろいろな役割を演じさせられる」のである。
※画像は、http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/02_woman/clipart1.htmlからお借りしました。

2008年12月6日土曜日

宗教遍歴、そして母との絶縁10年(実母のアルバム⑦)

  実母は、若いときから宗教を渡り歩いた。知る限りでも生長の家、真光文明教団、崇教真光、金峯山修験本宗、阿含宗などがある。私は、母と一緒に、それらの宗教を回った。その過程で、私は、修験の総本山金峯山寺で得度をした。
  山岳修行等を積み重ね霊力を得たある日、母の家の土地建物を祓い神仏供養を行った。その直後、母の後夫が退院し交通事故にあった。この事故で、私が行った祓い供養を疑った母は、お祀りした神仏をすべて廃棄した。
  後夫は、交通事故にあっても身体には何の異常もなかった。これは、神仏のおかげをいただいたのだ、きっと車が身代わりになって自分の悪因縁を除去してくれたのだ、などと思えば良かったのだが、そうは考えなかった。
  特に母が一時熱烈に信心した崇教真光では、このような現象が起きることを「清浄化」として教えており、母自身が他人にそう説いていたはずだった。しかし、災難が自分に降りかかってきたとき、それを「清浄化」現象だと考えることができなかった。事態の好転を、逆に悪化と捉えてしまったことで、もはやなす術はないと悟った私は、以後、母の家と宗教的、霊的なことで直接かかわりあうことを避けた。同時に、以後、母の宗教遍歴に付き合うこともなかった。
  その後、母は、後夫の病状の再悪化と看病に明け暮れる中でESP(パワー)にのめりこんで行き、後夫の死を見届けることになった。
  私は、陰で後夫の成仏法を修し、母の寿命が10年以上延びたことを確信し、この日を境に母との交際を絶った。およそ20年前のこと。そして、この状態は、実に10年に及んだ。

2008年12月5日金曜日

「そら豆」が好きだった(実母のアルバム⑥)

  熊本の知人が「風雅巻き」(豆菓子)をくれた。有明海で一番摘みしたという焼き海苔で数個の炒めた豆を棒状に巻いただけの菓子である。焼き海苔を噛んだときのバリバリ感に加え、「バッリッ」と音を立てて口の中で砕け散る豆の感触が何ともいえない。
  この豆菓子、母が好きだった。仕事の帰りに母の家に立ち寄ったとき、この豆菓子が菓子入れに入っていたことがあった。私が一つ手に取ってみたら、母が「これ、美味しいよね」と言った。この豆は、入れ歯で噛んでも容易に崩れる硬さなので、食べやすかったのだと思う。糖尿病もあったので、好きな菓子を多くは食べられないようだったが、たしなむ程度には食べていた。
  油大豆、梅大豆、醤油ピーナッツ、醤油カシューナッツ、わさび大豆、醤油そら豆などいろいろあるが、私は、「醤油そら豆」が好きだ。どうして、「そら豆」なのかというと、私の場合、多分、幼児期に受けた養母の影響だと思う。実は、私を育てた養母が「そら豆」を好きで、よく一緒に炒った「そら豆」を食べていた。
  私の娘ができた後も、養母は、幼かった娘(孫)の手を引き、「行きましょう、行きましょう」と歌いながら、屋台で売っていた「そら豆」を買いに行っていた。屋台のおばさんに「お孫さんは、おばあちゃんにソックリですね」と言われるのが嬉しかったようだった。血縁ではなかったが、私も娘も養母によく似ていた。
  もっとも当地では、「そら豆」のことを「糖豆」と言っていた。糖分をたくさん含んでいたのだろうか。戦後の食糧難の時代でも、この豆は容易に手に入り、満腹感を味あわせてくれる手ごろな食べ物だったのかもしれない。
  そして、実の母もまた、不思議なことに「そら豆」が好きだった。W病院で一時生還した後、病室のベッドで「豆菓子が食べたいから千代町の豆屋さんで買ってきてくれ」と言ったことがあった。「どんな豆?」と聞いても「あれ」「あれ」というだけで名前が出てこなかった。多分、「そら豆」と言いたかったのだと思うが、そのときは思いつかなかった。思いついていれば、デパートで「風雅巻き」でも買ってきたのに、頭が回っていなかった。
  千代町の豆屋さんがどこにあるのか知らなかったが、千代町に行ってみたらと「豆屋」と書いたバス停があった。近くのパピヨン24ビルの地下駐車場に車を停めて豆屋を捜し回った。そのビルの1階の道路に面した場所にあった。何を買ってよいか分からなかったので、軟らかそうな豆菓子類をいろいろ買った。そこで硬いそら豆が好きだったことを思い出した。
  病院に持って行くと、一番にそら豆を手にして「この豆が食べたい」と言ったが、「入れ歯で、こんな硬い豆が食べられるの?」と聞いた。結局、食べたのは柔らかい甘納豆菓子のみだったが、大好きなそら豆を手元に置いているだけで安心できたのかもしれない。病院で息を引き取ったとき、この豆を持って昇天したのかも知れない。
  私がそら豆を好きなのは養母の影響と書いたが、ひょっとしたら実母の遺伝の影響もあったかもしれない。醤油そら豆の風雅巻きを食べながら、ふと、そんなことを思った。
 ※画像は、「風雅巻き(醤油そら豆)」の包み。

2008年12月3日水曜日

一時生還(実母のアルバム⑤)

  母が転院して間もなく、呼吸困難に陥り一時危篤状態になったことがあった。
  その日、Aが私に電話してきて、「どう考えてますか」と尋ねた。「どうって何のこと?、葬式のことを言っているの?」と聞き返すと、「そうです」。
  私は、「葬式の喪主は私がする。葬式費用も全部、私がつごうする。ところで、君は、母の生活の面倒を見てくれていたようだが、母に預金があったかとかを知っているのか」と尋ねたら、Yは「私は、そんなことにはタッチしていませんので、まったく知りません。調べてみます」と答えた。
  思わずAが口にした意味不明の言葉、「調べてみます」の意味は?。Aにしてみれば、このやり取りで私が母の預金のことを知らないことを確信して、思わず口にした言葉であった。チャンス到来、かねてから持っていた合鍵で母の留守宅に入り、金庫のなかにあった現金と預金を持ち出した、と推測される。
  母がこのまま死んでいれば、この問題は表面に出ることはなかった。しかし、母を守護する神仏は、そうはさせなかった。母の生きようとする生命力の方が強かった。医者は、「この病状で生きている方が不思議」と言った。
  死の淵にいた母の魂は、確実にAの動きを見ていた。生き返った母は、すぐさまAに電話して、「金庫から持ち出した私のお金を返しなさい」と言った。Aは、慌てて、引き出して銀行預金の一部を戻し入れをしたものの、その後、一切病院に近づかなかった。母は、Aのことを「泥棒」と言い出した。
  それでも、私は、一切この問題に立ち入らなかった。そんな私の態度に業を煮やしたのが娘だった。「母から、この問題を解決して欲しいとは頼まれていない、頼まれてもいないことには口出しはできない」と言う私の態度に対して、娘は、「お父さんがそんな考えだからAにいいようにされるのだ」と怒鳴った。
  翌日、母に、そのことを話した。母は「頼む」と言った。真実を確かめるべく、母から金庫のキーを預かった。母の弟(叔父)に立ち合わせて金庫を開けようと思い、叔父に電話をしたところ、「俺も姉さんに頼まれて金庫を開けたが、年金証書などの書類以外は何も入ってなかった」と言われた。母が叔父に金庫を開けることを頼んだという話は聞いてなかったので、後で母に尋ねたが、母は記憶にないと首をひねった。金庫の中は、叔父が言ったとおりだった。
  母の預金があった銀行、郵便局は、ともに担当者が、通帳・印鑑紛失による再発行手続きのための本人確認をするために入院中の母を訪ねた。キャッシュカードを作っていなかったので、Aが一部銀行で母の預金通帳を使ったことは目撃されていた。銀行は、「紛失ではなく盗難にしましょう」とアドバイスしたが、「犯罪者は作りたくない」と言った。
  ここまで確認がとれた以上、黙って見過ごすことはできない。母に「これからAに連絡して会って話す」と言うと、「あんたは、すぐに喧嘩を始めるから、喧嘩だけはしてほしくない」と言い、Aの取引先のY氏に電話をしてくれと言った。母の携帯からY氏の携帯に電話した。留守電になったが、折り返しY氏から電話があったので母にかわった。母が、涙ながらにY氏に訴えた。
  急転直下、翌日、Aが私に電話をしてきた。「おばちゃんから預かっていた預金通帳など返します」。私に母の預金のことなど「まったく知りません」と言っていたはずなのに、知りすぎるほど知っていたことになる。ただし、会って返金してもらった現金額は、母が言っていた額の1割で、葬式費用も出ない額だった。
  もちろん、喧嘩はしなかったが、これでAとは縁切りだと思った。Y氏にお礼の電話を入れた。この問題が決着した後、母は、その現金と預金を私に渡して死んだ。最後は、私を信じるしかなかったのか。さほど孝を尽くした息子ではなかったのに。しかし、母は死ぬまで、Aを許してはいなかった。母に近づいてくるので、Aに頼ったところもあったが、心から信じてはいなかったようだ。親族筋からAに葬式の連絡は行ったが、Aとその家族は誰も来なかった。来れなかったのだと思う。

2008年12月2日火曜日

実母の転院と不審な出来事(母のアルバム④)

  先日、S校同窓会名簿の49人(母を除く)に喪中ハガキを送った。10枚が「宛所に尋ねあたらない」として返送された。地番が明確な人たちが多かった。返信のあった1人を除き、生存の可否は不明。
  S町内居住者は18人、その多くは地番が書かれていなかったが、その多くは配達された模様。S町の郵便局は、名前だけを見て配達できる昔ながらの温かさが残っているのだろう。ほほえましい限りである。
  ところで、なぜか母は、母校があったS町に建つW病院に入院したことを快く思っていなかった。ここは、終末期医療の病院のように見えるので、入院した後、まだ死にたくないと思ったのだろう。確かに、毎日、見舞いに行き、周りの入院患者さんの姿を目にするたびに、何か救いのないような寂しさが漂っていた。その死を迎えるまで、たびたび病室を替えられていたが、そのつど誰かが亡くなっていたのだろうか。
  転院前のK町の救急病院では、看護師さんに車椅子を押してもらいトイレに行っていた。私が見舞いに行ったときは、私が車椅子を押してトイレに連れて行くのが日課だった。トイレの中まで運び、パンツを下ろしてやると、「もう、そこまででいいから、外に行きなさい。外で待っとかないかんよ」と言う。「うん、分かっちょる」。終わったら、また病室まで押して戻る。自分ながら、よくこんなことができるものだと思っていた。
  しかし、転院してからは、排便排尿はすべてオムツで、決まった時間に作業療法士がオムツを取り替えに来る。これでは本当に寝たきり老人になってしまう。
  リハビリ室に頼んで、極力体を動かしてもらうようにはしていたが、だんだん自分で身動きができなくなってしまったことが多分つらかっただろう。私も病室に行くたびに、母に命令されて、その足を持ち上げて擦ったり、クリームを塗ってあげたり、体を持ち上げて寝返りを打たせたりもした。しかし、その持ち上げ方の要領がわからず苦労した。自らの力で動かすことができなくなった母の体は非常に重く感じた。
  入院した後で、この病院の終末期医療の性格が分かり「転院したい」と言い出したのかも知れないが、それにしても、なぜ、W病院に転院したのか、私はまったく知らなかった。母に付きまとっていたAが、突然、転院さ、その直後に私に電話で知らせた。何度もK町の病院に足を運んでいた私が知らない間に、転院先が決まっていたなど、長男として恥ずかしい限りであった。
  以後、Aと顔を合わせたのは次の一度だけである。母が一時危篤から立ち直った後、私がAの会社に行き、Aが持ち出していた母の現金と貯金通帳、印鑑等を返還してもらったときである。返還額は、母が言っていた額の10分の1に過ぎなかった。
  そればかりではない。仕事が終わって、K町より遠いこの病院に着くのは、どんなに急いでも面会時間の終わる午後7時前後頃、それ以後に着くことの方が多かった。毎日、その前後頃に見舞いに来ては、面会時間を越えて帰る私の姿を看護師さんらが目にしていた。ある日、担当看護師さんが母に「あの方はどなたですか」と尋ねた。母が「息子です」と答えたため、病院中が大騒ぎになったらしい。
  Aは、母を転院させ、手続き書類にサインをしたとき、「おばさんには子供はいない」と言っていたというのである。そのため私の存在を知った担当看護師は、ビックリして「お子さんはいないと聞いていたが、いらしたんだ」と、大騒ぎになったというである。当然、事務室にもナースセンターにも、私の連絡先を教えていなかった。Aは、母の面倒を見る振りをして、どこまでも私だけではなく周りの人たちまでも騙し続けていたのである。
  そのことを知った私は、病院に「以後、一切Aに連絡する必要はない」と告げた。入院時にAは「一切の延命治療をしないでよい」という書類にもサインしていた。このことは、母が息を引き取る間際に担当看護師さんに知らされて知った。Aは、一刻も早く母が死を迎えることを待ち望んで病院を選んでいたのだろうか。不可解かつ不愉快な行動であった。

2008年12月1日月曜日

実母は育った故地に死に故地に埋葬(実母のアルバム③)

  実母は篠栗町の病院で死んだ。いわば尋常高等小学校の頃過ごした故郷の地で死んだことになる。しかし、その死を迎える瞬間まで、この地で育ったことを言わなかった。
  言っていたのは、「宇美の病院に転院したい」だった。宇美は出生地だった。気持ちは生まれ故郷を目指していたのかも知れないが、病院の医師は「転院できるような状態ではない」と言い、母の希望を果たすことはできなかった。
  ところが、どういうわけか母は、元気な頃、篠栗の霊園墓地の権利を購入していた。入院中に、そこに「お父さんが1人でいるので寂しいだろう」と口にしたことがあった。お父さんとは、再婚した夫のことで、20年前に亡くなり、遺骨はその霊園に納められている。その後、霊園の権利は、その子息に譲渡したようだ。
  その子息に電話で「母は、死んだ後、篠栗の霊園に入りたいと言っているが、入れてくれるか」と尋ねた。「母と直接会って話す」との返事が返ってきた。この話を母にしたら、母は怒った。「誰も入れてくれとは言っていない。お父さんが1人で寂しいだろうと言っただけだ、何でお前は話を変えるのか」と。
  もともと母は自分が買った霊園だという意識はあったと思うが、自分の死後の管理はその子息に託すしかなかった。夫の死後、子息と母との間で、交流が途絶えていたようで、お互いのコミニュケーションがとれない状態になっていた。私も、子息とは、20年来、まったく話をしていなかった。
  その子息が病院に見舞いに来たとき、母が切り出した。「お墓のことだが」、その言葉をさえぎるように、「自分がちゃんとするから、心配はしないでください」。その言葉を聞いて、母は安堵し、喜んでいた。私に怒っても、本音はそこに入れてほしかったのだと思う。そして、心のどこかに、このまま死を迎えるのではという予感もあったかもしれない。
  母の死後、未納4年分及び今後10年分の霊園管理費を支払い納骨した。埋葬の儀は、私自身で執り行い、今後の管理と供養を子息に託した。私にしてみれば、実母ではあるが、その遺骨は、後妻に行った夫と同じ墓地に納める方がよいと判断した。
  結局、母は、子供の頃に過ごした篠栗の地で最期を迎えた。その遺骨は、同じ篠栗の地に埋葬されたことになる。この埋葬地から最期を迎えた病院が眼下に見えている。不思議な巡り合わせである。
  母が子供のとき、いつから篠栗に住まいしたかは不明。だが、篠栗尋常高等小学校卒業同窓会アルバムがあり、その同窓会に出席した写真や同窓会名簿も残っていたので、この地で同校卒業を迎えたことは間違いないだろう。この地には、まだ生存している同窓生がいたかも知れないが、誰にも連絡などしていない。もっとも終末期医療で身動きもままならなくなった姿を同窓生にさらすことは嫌だったかも知れない。

2008年11月30日日曜日

「魅惑のスタンダード・ポップス」…ポップスの上手な知人に昨日℡

  ポップスの上手な女性がいた。福岡でリサイタルをし、多くのファンがいた。CDも出した。彼女の歌は、いつも青春。
  昨日、久しぶりに携帯に電話した。いつも変わらぬ歯切れのよい声が飛び込んできた。「今、主婦しているよ」。幸せそう。でも、そのまま主婦で治まる人なのかなあ。今は、もう福岡にはいない。でも、いつかまた彼女の天から降ってくるような声のポップスが聴けるかもしれないと思っている。そう願っている。「また、電話してもよいですか」と尋ねたら、「もちろんよ」との返事あり、ホッとした。
  ところで、今夜は、テレビに釘付けになっていた。どうしても観たい番組は、1か月ぶり放映の「魅惑のスタンダード・ポップス」。ところが、毎週観ている「ダーウィンが来た」と「篤姫」と時間が重なっているので苦労する。HDDに入れて観ることにした。ところが数日前にテレビ等をデジタルテレビとBlu-ray Discに買い換えたばかりで取り扱い操作がわからず苦労した。「篤姫」の後は、どうしても「SCANDAL」を観てしまうので、結局、スタポーを観たのはその後になってしまった。
  いつも変わらぬ井上順と新妻聖子のさわやかな司会で始まった。今夜のスタートはやはり新妻聖子で、「ロコモーション(The Loco-Motion)」、「さァさァダンスのニュー・モード 誰でも一度で好きになる 小さい子供もOK ABC習うより やさしい Come on, Come on,do the Loco-motion with me お尻をピョンとはね スィングして・・・」、楽しく弾むようなテンポの歌に思わず一緒に口ずさむ。
  そして今夜のmedley10連発のテーマは、「花」・・・魅惑のポップス・ガーデンだった。森口博子とRinaの「Rose Garden(ローズ・ガーデン)」を皮切りに小野正利の「Red Roses For Blue Lady(ブルーレディに赤いバラ)」、清貴の「The Rose」など10曲、そのなかには前田美波里、bless4の「Edelweiss」などの静かな名曲もあった。胸躍る「Corazon De Melon(メロンの季節」(森口博子)も入っていた。
  そして、新妻聖子は、すがすがしい歌声でサンレモ音楽祭で生まれた「花のささやき(in Un Fiore)」を日本語で歌った。新妻聖子のドレスは真っ赤なドレスで胸元に花をあしらったデザイン、きっと今日のテーマにちなんでローズにしたんだね。とても似合っている。
  また上述出演者全員が日本語でコーラスした、同じくサンレモ音楽祭で生まれた「愛の花咲くとき」など、懐かしい。
  ポップスの伝説はロックンローラー山下敬二郎、言わずと知れた「ダイアナ」、ウエスタンの「思い出のグリーン・グラス」、それに「のっぽのサリー」など、凄い、声量はますます増すばかり、聴いていて気持ちが一気に青少年期に戻ってしまった。すばらしい。
  今日のポップス講座は「ブルースハープ」。ハーモニカを小さくした楽器だが、思うように上手に吹ける(吸える)ものではない。今日の講師は、妹尾隆一郎、歌の合間、合間にブルースハープを吹く(吸う)、曲芸を見ているようでもあった。
  スーパースターメドレーはビー・ジーズ(オーストラリアの3兄弟)、大ヒットした「マサチューセッツ」ほかのスタンダードナンバーの数々、そのなかで新妻聖子は「ホリデイ」を歌った。
  次回は、日曜日ではなく、12月27日(土)午後8:00~9:58で、スペシャルという。年末、忘れないようにしておこう。
 ※画像は、花のドレスの新妻聖子。新妻聖子公式ブログからお借りしました。

2008年11月29日土曜日

若い頃の実母は新珠三千代似だった(実母のアルバム②)

  故実母の家に残っていた「小学校出てから50年・ハナハト会」と題したアルバムがある。色あせてあちこちに茶色の染みがついている。
  実母が卒業した篠栗尋常高等小学校同窓会アルバムで、このアルバムを見るまでは、実母が小学校時代篠栗に居住していたなど知る由もなかった。
  実母の口から、その頃のことなど一度も聞いたことがなかった。言いたくない理由があったのかどうか分からないが、私の方からも尋ねたことはなく、関心がなかった。というより、実母は宇美で生まれ宇美で育ったものとばかり思っていたからからだろう。
  実母が篠栗にいた当時、篠栗はまだ炭鉱の採掘が盛んであったので、篠栗炭鉱に関係していたかもしれない。その後、母が父と結婚した当時、父は貝島炭鉱資材課にいたので、炭鉱とのつながりを感じないでもない。
  アルバムの発行日は、昭和60年(1985)11月23日となっているので、そのまま50年遡れば昭和10年(1935)になる。しかし、実母たちが尋常6年生を卒業したのは昭和12年(1937)、高等科卒業は昭和14年(1939)だから少し計算は合わない。
  それはさておき、掲載されている数枚の集合写真を何度も開いては、そのなかに写っているはずの実母の顔を探してみたが、どうも分からない。小学生の頃の実母は、どんな顔をしていたのだろうか。
  私が知っている若い頃の実母の容姿は、女優の新珠三千代(故人)に似ていた。どういうわけか私は、高校の頃、この新珠三千代が好きで、この人の出演している映画をよく見に行っていた。ところが、故養母は、なぜかこの女優を好きではなかった。あれだけ宝塚歌劇の好きだった養母が、どうして宝塚出身の女優を好きでないのか理解できなかった。
  今になって思うに、ひょっとしたら、私は知らず知らずのうちに、幼児期に脳裏に焼きこまれていた実母の面影を新珠三千代に重ねて見ていたのかもしれない。私が、実母と再会するのは、それより後のことだから、高校生当時は、まだ実母の顔は知らなかった。また、養母が彼女を好きでないと言っていたのは、私の実母に似ているが故だったのかもしれないと思うのは考えすぎだろうか。養母には、何かこだわりのようなものがあったように思えてならない。
  大好きだった新珠三千代という女優に、こんな戸惑いながら過ごした青少年期の思い出が残っている。
 ※画像は新珠三千代。http://www.fjmovie.com/tposter/trump/d12.htmからお借りしました。

2008年11月28日金曜日

10年間拒否していたMRI検査を受けた

  M脳神経外科に行き、初めてMRI検査を受けた。
  実10年前に一度、ペインクリニックの紹介で別の脳神経外科に受けに行ったことがあったが、そのときは検査の直前になって、急に怖くなって止めている。ベッドに仰向けになり、MRI検査装置の穴のなかに上半身がすっぽりと入ったとき、「怖い、怖い」と叫んだので、そのまま検査が中止になった。医師に、「100人に1人くらい、こんな人がいる」と言われた。
  このとき、私は閉所恐怖症なのかと思った。以後、自らを注意して見ていると、やはり閉所に対する恐怖感があることに気付いた。では、どうしてそうなったのだろうと自問自答をしてみたが思い当たるところがなかった。
  ところが、ある日、棺桶の中で「自分は死んでない!」と叫んでいる夢をみた。このとき、養母の葬儀のときのことを思い出した。私が子どもときから成人するまで大事に育ててくれた養母、この養母の告別式のときは、人目もはばからずに泣いた。狭い棺桶に仰向けに入った養母、蓋が閉じられたときの悲しみ、そして、戸惑いながら火葬炉の点火ボタンを押した自分を思い出した。当時の火葬場は、遺族の代表者が点火ボタンを押していた。ひょっとしたら、このときの悲しい思いが深く心の中にずっと残っていて、閉所恐怖症が始まっていたのかもしれない。
  激しい肩こりと首筋の痛み、手がしびれる等の症状がずっと続いていたので、数日前、漢方薬局に鎮痛剤を買い行ったとき、薬局の主人が、「頚椎症が考えられるので、鎮痛剤を飲む前に、MRI検査を受けた方がよい」と言われ、MRIを持っている上記M脳神経外科を教えられた。そして、「自分も閉所恐怖症だが、MRI検査を受けるときは最初から目をつぶっていれば大丈夫」と言われた。
  そこで、今回勇気を奮ってMRI検査に挑戦したのであった。だが、やはりMRI検査機を見たときは、「こんな狭い空間に入るのは怖い」と思った。ベッドの上で検査技師に「右向きがよい」、「いや左向き」とか言って手こずらせたが、結局上向きになり、顔の上に野球でキャッチャーが被るようなマスクを乗せた。狭い空間の中に顔が入る前に目を瞑った。
  約20分間、各種の検査音が鳴り続けていたので、時間が経つのが早く感じた。幸いMRI検査では、脳神経のどこにも異常はなく、その前に受けていた頚椎のレントゲン検査でも骨に異常は見られなかった。心身の疲労と運動不足から肩や首がこり、筋肉痛を起こしているのではないか、冬場は肩辺の冷えに注意するようにと言われ、各種の薬を調合した鎮痛剤を処方された。
  考えてみると、今年は、実母の看護と死、その後の各種の処理事項、職場でも各種騒動が続き、精神的疲労の連続で脳が疲労いている。運動不足もある。
  ただ、今回のMRI検査で閉所恐怖症が解消したわけではないが、10年間尻込みして検査拒否を続けていた一つの恐怖はクリアしたことになりホッとしている。
 ※画像はMRI。http://www7.ocn.ne.jp/~n.brain/mri_mra.htmからお借りしました。

2008年11月27日木曜日

犬走りと排水枡の上を白い玉石で覆う

  強い雨が降っている。以前は、こんな強雨が降ると庭から流れてくる雨水が、犬走り(土間)上にある排水枡に向かって音を立てて流れ込んでいた。ところが、最近、少し様子が違ってきた。
  それは、先月20日に排水枡の蓋の上を、たくさんの白い玉石で覆ったため、排水の流れが見えなくなっているからである。
  犬走りとその一部に設置している排水枡3か所の蓋上に細目の網を敷き、その上に玉石を敷き詰めたのである。 そのため、一見雨水の排水路を遮断しているかのように見えるが、雨水は、玉石の下に吸い込まれ流れが見えなくなっているだけで、確実に排水枡までは届いている。網を敷いたのは、排水を遮断しないで、大量の重い玉石が土中に沈まないようにするためである。
  この玉石は、娘の家の庭から移動した。娘は、草抜きが嫌いで、そのために自分の家の南庭の一部に玉石を敷き詰めていたが、それでも雑草は生えるので、今度はこの玉石を取り除き、草が生えないという化成土(?)に替えたのである。 そこで、不要となったこの玉石を、私の家の庭に運び込んだという次第である。
  最近、町委託の下水道工事業者が敷地内の排水路調査に来た。この地区は、1年後に下水道が通る予定であるという。もし下水道が通れば、せっかく敷いた玉石をいったん取り除いて汚水路新設工事をすることになるだろう。敷地内のこの工事費は各家持ちだという。我が家の壁際の景観はまだ定まらないということか。

2008年11月26日水曜日

ジュリアン子孫の先祖探索記事を読み、思い出したこと

  昨日の毎日新聞に、11月24日、日本で初めて長崎市で開かれた列福式に、天正遣欧少年使節の1人中浦ジュリアン(1568?~1633年)の子孫が列席されたとの記事が載っていた。
  中浦ジュリアンは、キリシタン大名大村純忠の命により、1585年ローマ法王グレゴリオ13世に謁見したものの、基督教禁教令の渦中に帰国し1633年殉教した。「聖人」といわれてもよい人ではないかとは思っていたが、これまで聖人に次ぐ「福者」にすら列せられていなかったのか。今回、この「福者」の意味を知り、不思議に思えた。
  そして、この中浦ジュリアンの命脈につながる子孫が現存しておられたとは…、すごく驚かされた。
  その人は、小佐々学さん(68歳、さいたま市見沼区居住)で、亡父が亡くなる前年に語った「昔、南蛮に行った祖先がいる。代々、世間には口外しなかった」の言葉を聞き、「それは誰なのか」という思いにかられ先祖のルーツ捜しの旅に出たらしい。
  イエズス会の資料や各地の小佐々家を訪ねたりして、長崎市北部海域を領有した小佐々水軍の有力者の子息が中浦ジュリアン(生涯独身)で、その叔父から14代目の子孫が自分であることが分かったそうだ。中浦ジュリアンが重罪人だったので口外することをはばかってきたのだろう。それにしても自宅に、途中途切れているとはいえヒントとなる先祖代々の家系図が残っていたことはすごい、そして、この探究心には敬服させられた。
  私も、若いとき自分の先祖に関心を持ったことがある。家系図は存在していたらしいが、関心を持った頃にはすべて焼き捨てられていた。その家系図には、菊池一族とあったらしいが、そのすべてが正しかったかどうかは分からない。
  戸籍を遡り一族を調べまわり、養母に「お前は何をしているのか、そんな探索などするな!」と怒られたことがあった。なぜ養母が怒るのかが分からなかったが、後になってその意味が分かった。
  つまり、養母が怒ったのは、先祖探しの順番が間違っている、それを気付けということだった。戸籍上にある親族を訪ねても何も分からず、菊池一族という伝承にも、菊池地方に私と同姓の神社が存在すること以外には何の手がかりもなかった。
  行き詰まり、霊山や滝での修行、霊地やお堂での瞑想等を繰り返すなかで、「近くの先祖を捜して遡るのではなく、まず大先祖を探してから上から下れ」という霊示を悟った。
  そして、修行中に脳裏に浮かんだ地名を頼りに、数年の間、各地を駆け巡った。そうしているうちに、いつか大先祖の霊地へと導かれて行った。大先祖が、そこへと引っ張って行かれたのだと思う。そして、当時、その姓名、生没年、家族構成などもすべて脳裏にあった。
  上述の小佐々家は、小佐々水軍の子孫ということであるが、私の先祖を下ると同じく長崎県に君臨した松浦水軍の一翼(田平方面)を担っていた一族がいたようだ。親戚に大村市出身者もおり、小佐々水軍とはどこか共通するところがあり、ひょっとしたら先祖同士の間では接点があったかもしれない。
  中浦ジュリアンの子孫という小佐々学さんの列福式列席の新聞記事を読み、かつて私自身も先祖のルーツ捜しの旅をしていたことを思い出した。
※画像は、中浦ジュリアン。さいかいシティ.ねっと、http://kankou.saikaicity.net/history/saikai.html掲載画像をお借りしました。

2008年11月25日火曜日

高血圧の人にも勧めた錠剤「ルミンA」について

  私は、もともと血圧は低い方であるが、外気が寒くなると、ときどき高くなることもある。
  たとえば、朝、起きたとき「寒い」と思いながら、血圧を測ると上下ともに高くなっているときがある。
  こんなことが続くと、「大丈夫かな」と不安になることもある。だからと言って血圧の薬を飲むのも大げさすぎるし、どうしたものかと思う。
  病院の高血圧の薬を飲みだすと勝手にやめられなくなると聞いたことがある。素人考えではあるが、血流をよくするために血管を風船のように膨らます、それが高血圧の薬で、薬を止める膨らんだ血管が急激にしぼみ、血流の流れが悪くなり危険ということなのだろうか。
  でも、薬を飲み続けて血管を膨らましたままの状態にしていたら、血管そのものの張りがなくなり、薄くなって破れってしまうことってないのだろうか。
  私も、あるとき、某医院で冒頭のようなことを話したら、すぐに高血圧の薬を出されたことがあった。服用すると、そのつど頭がふらふらしだすので止めた。
  その後、某漢方薬局で勧められた漢方薬を服用したところ、すぐに平常値に戻った。効果が早かったので、いつも高血圧の話ばかりして悔やんでいる知人に、その薬を勧めたら、「臭いがくさい」と言ったので、かわりに「ルミンA」の服用を勧めた。
  この「ルミンA」は漢方薬ではないが、同じ漢方薬局で「血圧にも効果のある」と聞いていたからであった。それ以来、その人は血圧の話をまったくしなくなったので効果があったのだろう。
  同じく高血圧で苦しんでいた別の人にも話したら、後日、「お陰で高かった血圧が下がった」と感謝された。この「ルミンAは、即効的に高血圧を下げる効果はないが、漢方薬と同じように徐々に効いてくる」と聞いていた。その人の場合、服用を始めて40日くらいたってから効果が現れてきたという。
  説明によると、この薬の有効成分クリプトシアニンO.A.コンプレックスが組織細胞を復活、生長させ、細網内皮系機能を高め細動脈の血行を旺盛にするらしい。
  この作用で体にできた炎症や症状は元の状態になるように修復されるという。したがって「急性化膿性疾患、末梢神経系疾患、湿疹、創傷、熱傷、凍傷、汗疱性白癬」などに効果があるそうだ。
  そういえば、以前、急性パニック症で不安な日々を送っていた人にも勧めたことを思い出した。その人は、少し時間はかかったが、半年後にはすっかり症状が治まり、元の明るく元気な姿に戻った。
  最近、寒い朝など血圧が上がることがあり、ふと、心身の万能薬のようなこの薬のことを思い出して漢方薬局で買ってきた。この薬は漢方薬ではないので一般の薬局でも売っている。
 ※画像は、錠剤「ルミンA-100γ」の外箱(森田薬品発売、林原生物化学研究所製造、定価9975円)。

2008年11月24日月曜日

村主章枝失速のニュースに一瞬「えっ!?」

  フィギュアスケート・グランプリ(GP)シリーズ第5戦ロシア杯女子SP(11/21)で村主章枝(27歳)が首位に立ったというニュースを見たときは、これで総合2位以内に入ればGPファイナル進出が決まる、「今年はやったね」と思っていた。
  ところが、翌日、女子フリー(11/22)で3位、総合3位に終わったという。このニュースを耳にしたとき、一瞬「えっ!?」、「どうしたのだろう?」と思った。
  TV実況放送はなかったので詳しいことは分からないが、ニュースによると、演技後半に乱れたようで、ジャンプで転倒することはなかったものの、ジャンプで小さなミスを重ねたという。今回もやはり回転不足等に難点のあるジャンプだったのか、「重圧はなかったが…」とのコメントがあったが、残念だっただろうなあ。
  これで2シーズンぶりに目指していたファイナル進出が危ぶまれる状況になったが、行かせてあげたいなあ。でもファイトのある人だから、今後も簡単に諦めることなく、また再起を誓い奮起することだろう。これまで彼女の頑張る姿を見て勇気付けられきた私としては、彼女が頑張り続ける限り今後も変わらぬ応援を続ける。
 ※画像はサンケイスポーツ(ネット) http://www.sanspo.com/sports/photos/081121/spm0811211552000-p1.htmからお借りしました。

2008年11月23日日曜日

「列福式」直前のホテル予約OKは奇跡に近いこと

  長崎で法事があったので、昨夜、長崎のホテルに泊まった。数日前、ホテルを予約するとき、市内のどのホテルも満室で、あちこち探しているうちに、偶然のようにシングル1室のキャンセルが出たところに巡りあわせ、予約をした。
  ホテルに着いた後、長崎の知人とあって食事をした。知人に、「ホテルを取るのに苦労した」ことを話し「連休の間は、長崎はホテルが取れないように観光客が多いのですね」と言ったところ、「いえ、そうではなく、今日、ホテルが取れたのは奇跡に近いことですよ」と言われた。
  「なぜ?」と問うと、「24日に長崎で列福式があり、バチカンを始め世界からカトリック信者が、続々と長崎に集まってきていますから、ホテルは一週間ほど前からどこも満室になっているはずです」と言われた。
  「そうなんですか、だったら運が良かったんですね」とは言うと、「そうですよ」と言われた。この知人は、カトリックの信者なので、この列福式に期待をしているようだった。私が列福式の意味を知っていると思われたのか、それ以上の説明はされなかったが、実は初めて聞く言葉だったので、何のことかよく分からなかった。
  今朝、たまたまホテルに置いてあった読売新聞(11/22付)の「広告のページ」を見ていて、やっとその意味が分かった。そこには次のように書かれていた。
  「江戸時代に殉教した日本人カトリック信者188人を、ローマ教皇庁が正式に「福者」に列する「列福式」が11月24日、わが国では初めて長崎市で行われる。」
  「福者は、カトリック教会において死後その人の徳と聖性が認められたことを証する敬称で、「聖人」に次いで崇敬される。福者の列に加えられることを「列福」といい、これを公式に宣言する式が「列福式」。」
  今朝、法事の会場に向かうタクシーの中でも、運転手さんが同じ話をされ、「長崎市内には、参集するカトリック信者3万人を収容できるだけのホテルの客室が、ファッションホテルを含めてもないので、長崎県下はもちろん、佐賀、福岡のホテルに至るまで予約でいっぱいになっているはずですよ」と言われた。
  このような世界的規模の行事が行われる最中にホテルが取れたということは、まさに「奇跡に近いこと」と言われたことが理解できた。これはきっと神仏の仕組みがあったのだと感謝した。
  次の話は、列福式とは関係ないが、前述のカトリック信者の知人(私と同年齢)が、仏式で亡父50年忌法要をされたことを付記する。
  「父が死んだときは、仏式で葬儀を出しましたが、子どもの私たちがカトリック信者となったため、以後父の供養をする者がおらず仏壇も位牌もすべて焼き捨てました。ところが、最近になってもう父の死から50年経っていることに気付いて、やはり供養は仏式でしてあげねばいけないのではと思いました。もともとの檀家であった寺を訪ねたら、戒名の記録が残っており、その寺で供養してもらいました。今までカトリックの信者としてお寺で合掌をしたり法事をすることなど絶対に許せないことだと思っていましたが、この歳になってやっと亡父はカトリック信者ではなかったのだから仏式でやってあげなければと思うようになれました。そして、それをする自分を許すことができました。こんな気持ちになれるまで、これだけの齢を重ねなければならなかったのです」と言われた。
  確かに、家の宗教と自分の信仰とは別のもので、自分の信仰は一代限りで、家の宗教を変えることは好ましいこととはいえない。仏教徒というか一般的な日本人は宗教に対する肝要さ、言い換えれば「いい加減さ」があるが、カトリック信者となると、そんないい加減さは許せないのかも知れないのだろうと思った。知人は、本当によいことをされたと思う。
 ※画像は、「列福式」で福者となる、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンの像=10月、長崎県西海市。産経ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081115/acd0811151047004-n1.htmからお借りしました。

2008年11月22日土曜日

たまたまチラシで見た青春のアイドル吉沢京子さん

  たまたま手にした「リンクル化粧品」のチラシに女優吉沢京子の顔写真が載っていた。
  現在も女優として各方面で活躍しておられるのだとは思うが、まったくその様子を知らず、私の脳裏には、若い頃の吉沢京子の顔だけが残っていた。そのため、このチラシを見たとき、すぐに吉沢京子だとは分かったが、一瞬、脳裏に残っていた吉沢京子のイメージと違うと思った。
  それもそのはずで、私が、最後に吉沢京子が出演している映画を見たのは31歳の頃のことで、以後、舞台でも雑誌でも見た記憶がないので、そのとき見た吉沢京子の印象が35年間ずっと脳裏に刻まれたままだったのだろう。その映画のタイトルは「涙のあとから微笑みが(1974年作品)」、吉沢京子20歳のときの作品だったと思う。かなり心に響く衝撃的な映画だった。
  チラシの見出しには「デビューから41年」と書いてあり、また「柔道一直線のヒロイン」と注釈のある当時のセーラー服姿の写真も載っていた。この「デビューから41年」というのは、13歳で映画デビューした「燃えろ!太陽(1967年)」を指しているのだと思う。続いて「柔道一直線(1969年、桜木健一主演)」のヒロイン(ミキッペ)を演じたときは15歳で実に可愛かった。
  その後、「さぼてんとマシュマロ(1971年)」や「父ちゃんのポーが聞こえる」などに主演し、同学年の岡崎友紀とともに清純派アイドルと称された。現在の「アイドル」という言葉や概念は、当時、この二人によって確立されたそうだ。
  吉沢京子がデビューし、アイドルとして活躍していた当時、私は既に社会人になっていた。青春の夢の実現に人生を賭けて戦い破れ、方向転換を余儀なくされた時代のなかで、吉沢京子の活躍を横目で見ていた。私にとっても青春のアイドルだった。その吉沢京子も既に54歳(1954年3月生)、つくづく年月は知らない間に経過して行くものと思うが、久しぶりに苦難の時代の青春のアイドルに巡りあえたような気分だ。活躍を祈る。
 ※画像は、若き日の吉沢京子。「京子ファン」http://kyokofan.hp.infoseek.co.jp/からお借りしました。

2008年11月21日金曜日

故実母供養の純白の胡蝶蘭の花びら散る

  昨夜、拝殿に置いていた3連の純白の胡蝶蘭の花びらがすべて散り終わった。9月12日に飯塚市の花屋さんが、「お母様の七日ごとの追善法要にお供えください」と言われ、贈られたものだった。それから数えて、すべての花びらが散るまで実に70日間(母の死から86日)かかったことになる。
  その間に母が残したもろもろの残務処理、相続手続きを完了することができ、花びらが散ったこの日は、丁度、母が卒業した尋常高等小学校の同窓生の人たちに出した喪中ハガキが、届き終わった頃であり、この散花は、これで一区切りがついたという証なのだろう。
  思い返してみると、実母の死後、母の家にあった遺品の数々は、一部の親族が跡形もなく持ち出した。形見分けという類ではなく、持ち出した品の多くは、リサイクルセンターや質店などに持ち込んで換金したと聞く。また、代理店として所有し残っていた大量の健康食品と得意先名簿や領収書を持ち出した人もおり、得意先に売却したものと推定される。これらのことを見聞するにつけ浅ましくも思えた。
  その後、残っていた大量のゴミを出し、廃品を業者に頼んですべて処分した。同時に母が所有していた古アパートの退去者が残していた大量の廃品ゴミも処分してもらった。この廃品処理に要した費用のほかに、これまで支払った費用はかなりの額になる。
  たとえば入院治療費、葬祭費、火葬費、お斎費、仏壇修理費、位牌代、霊園管理料、納骨費、未払いの固定資産税、後期高齢者保険料、介護保険料、所得税、町県民税、死亡所得者確定申告による税金と税理士報酬、電話通信料、電気代、ガス代、下水道代、鍵付け替え代、ゴミ袋代、アパート屎尿処理代、火災保険料、不動産移転登記料と司法書士報酬、相続税にかかわる税理士報酬、香典返し品代、喪中ハガキ印刷発送代、諸手続き(戸籍・改製原戸籍・除籍謄本、住民票、固定資産評価額証明、登記簿謄本、交通費、通信費)、その他雑件。
  これからも不動産を所有する限り付帯して支払わねばならない費用がある。たとえば、家屋修理費、植木の消毒や剪定費、除草処理代、電気代、アパートの屎尿処理費、固定資産税、所得税、町県民税、火災保険料費等等。
  母が残すはずであった現金は、生前、親切に母の面倒を見てくれていたAが持ち出した。追求してやっと返金してくれた額は僅かであった。母が一時呼吸困難に陥った6月初めに、彼は、それを待ちかねていたかのように、金庫を開け、現金、預金通帳、印鑑を持ち出したのであった。銀行では、引き出した事実もあり、印鑑盗難にすることを勧められたが、身内から犯罪者を出したくないという思いから、それはしなかった。しかし、母は死ぬまでAを許してなかった。
  また、健康食品代理店をして、大量の健康食品を仕入れ高額の仕入れ費を支出していた。いつも大量の在庫を抱え、自分でそれらを飲みすぎて肝臓を壊しただけで、採算が取れていたとは思えない。これらのことがあり、現金も預金もさほど残ってはいなかったが、諸々の支払の一部に充てることはできた。
  母にしてみれば、死後の処理のすべてを私に託して逝ったのだと思い、生前、母のためにさほど孝行らしきことをしてあげられなかった私としては、それに応えてあげなければという思いがあり、掛かる費用はすべて支払う覚悟で遺産相続した。
  遺産となった高台にある140坪の敷地上に建つ屋敷(築35年)、ここからの見晴らしは良いが、坂道の奥まったところにある土地で、売却するには面積が広すぎる。さらに不況の時代、売却するにしても貸家にするにしても難航しそうである。
  古アパートもほぼ同時期に建てられたもので空き室も多い。解体費をかけて解体するにしても居住者の立退きが容易ではなく、空き室を低家賃で貸すにしても改修費にかなりの費用がかかる。
  負の財産を相続したようなものだが、今はこの不動産問題を残すのみになっており、一応、諸々の雑件処理は片付いたといってよく、純白の胡蝶蘭は、これを見定めて、残っていた最後の花びらを散らしたのだと思う。
  母は、死後のことをすべて私に託し、それに応えるように次々に処理して行ったのを霊界から見守り満足して極楽往生している。厭離穢土 欣求浄土、南無阿弥陀仏。

2008年11月20日木曜日

実母の死をその戦前同窓生に知らせる・・・(実母の尋常高等小学校時代アルバム①)

  一昨日、故実母が昭和14年に卒業した篠栗尋常高等小学校高等科同窓生49人に喪中ハガキを送った。もちろんこの人たちの誰1人として面識のある人はいないが、それでも8月に病没した母の死を知らせておこうと思った。
  この同窓生名簿に気付いたのは、つい最近のこと。母の死後、書類類を持ち帰り、確定申告や相続手続きに必要な書類を抜き出し、それ以外の書類はそのままにしていたが、その書類の山のなかに同上小学校同窓会アルバムがあり、その中にこの名簿が挟まっていた。
  母の遺品は、すべてその弟妹や後夫の子どもたちにあげたので、私は、書類以外には遺品となるような品は何一つ持ち出していなかった。それだけにこの書類の山の中にこの名簿があることに気付いたとき、これは、きっと母が同窓生の人たちに喪中ハガキを出して、自分が死んだことを知らせてくれと言っているのだと思った。
  この同窓会名簿は、昭和60年作成のアルバム購入者50人の名簿であった。したがって名簿の住所は当時のもので、旧地名や、地番のないものも多い。このままでは郵便物は届かないと思い、各地の電話帳その他で調べたりしながら、徐々に正確な住所に近づいたが、それでも分からない所は名簿のまま書いた。
  ただ、皆さんが後期高齢者であるため、現在、生存されておられるかどうかは分からない。「宛所に尋ねあたらない」として返送されるものもあることを覚悟の上で投函した。
  なお、母が篠栗尋常高等小学校を卒業していたことなどまったく知らなかった。あまり過去のことを話さない人だったが、私も母に過去の人生を尋ねることはなかった。
  考えてみれば、母は、同上小学校を卒業して、3年後に結婚、4年後に出産、5年後に夫戦死…、戦中期の暗い青春時代を経て、戦後は過去を振り返らないように心に決めて、ひたすら前のみを向いて、青春を取り戻すべく生き抜いたのかもしれない。
  次回機会があれば、アルバムを見て感じたことを書き留めたいと思う。

2008年11月15日土曜日

クルーズ世界一周の旅をした主婦(知人)

  知り合いの主婦がくれた雑誌「Priority60」を開いたら、その主婦の顔写真が1ページ大で掲載してあるページがあった。成功までの百マイル!と題したページで、「世界一周の旅・・・夢のような話だが、夢は信じることで叶う」と書いてあった。
  彼女は、この旅を通して「これからの人生における大切な羅針盤を手に入れた」と語っている。この旅は、夢の実現というよりは、子育てが一段落した後の母の介護で、心が圧迫されるような生活からの逃避行だったという。クルーズによる4か月の世界旅行、この間、彼女は主婦業と介護から開放された。
  この旅の間、開放感に浸り、一切家庭のことは忘れることができたという。船の上では、乗り合わせた人たちとニックネームで呼び合うなど童心にかえることができ、裸の自分でおれたような気がしたという。
  この旅を通じて「掴んだチャンスは離さない」「今しかできないことは今やる!」という決断の心を磨くことを学んだという。帰宅してからは、また主婦業や介護などの現実の生活が待っていただろうが、きっとそれまでとは違った前向きの考えや生き方ができるようになられたのではないかと思う。
  私の妻も、この記事を読んで大いに刺激され、「私もクルーズの旅に出る」と言ったので、「行ってらっしゃい」と言ったら、長女や孫から「それだったら船を掃除するおばさんに雇ってもらったらいいんじゃないか」と言われ、まったく信用されていなかった。
 ※画像は、JTBクルーズ(http://www.jtb.co.jp/cruise/)からお借りしました。

2008年11月13日木曜日

磐音(山本耕史)と奈緒(笛木優子)の再会に期待

  土曜時代劇「陽炎の辻2」で流れる主題歌「愛をとめないで」の歌唱力のすばらしさを聞いて、この歌手が新妻聖子だと知る人も多いと聞く。きっと新妻聖子は、この番組で新たなファンを獲得していることだろうと思う。
  私は、いつも車の運転中CDでこの歌を聴いているが、それでもTVで流れる歌には、また別の迫力がある。番組の終わりに流れるキャストの字幕が消えると、また来週も観て、この歌を聴こうと思う。(実は、HDD録画で観ていることが多い)。
  この「陽炎の辻2」も、残念ながらあと2回で完結する。この番組で一番期待していたのは、磐音(山本耕史)と奈緒・花魁白鶴(笛木優子)の再会場面。笛木優子(ユミン)は、花魁姿もよく似合って素敵、着物の着こなしもよく、時代劇にもあう女優だと思っている。
  この笛木優子は、第4回の「白鶴の宴」(9月27日放送)に出ただけである。第4回で、磐音は、吉原一の花魁白鶴(笛木優子)となった奈緒と出会うが、面と向かって顔を合わすこともなかった。磐音は、残された花魁の内掛けを手にして、川面を去っていく深見屋(赤井英和)の舟の上から「誰かは知らねど危うきところをお助けいただきありがとうありんした白鶴のお礼の気持ちの内掛けお納めくださんせ」と礼を述べる白鶴の清らかな声を耳にするだけだった。
  ところが、第12回「夢はるか」(11月15日放送)の予告編を観て、再び奈緒・花魁白鶴(笛木優子)が登場することがわかった。今度は、お互い顔を合わすのだろうか。既におこん(中越典子)と婚約している磐音と、違う世界に住むかつての婚約者奈緒、襖を挟んでの声と声の複雑な思いの再会と別れが待っているのかもしれない。
  そして、いつもドラマの終わり、情緒が揺さぶられる余韻が残っているときに流れる新妻聖子「愛をとめないで」の主題歌がまた情緒を誘うことになるのかもしれない。
 ※画像は、奈緒・花魁白鶴を演じる笛木優子。HP「陽炎の辻2~居眠り磐音江戸双紙」http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kagerou2/html_kage2_cast.htmlからお借りしました。

2008年11月12日水曜日

町内遊び会の「グラウンドゴルフ」に参加

  先日(11/2)、妻と一緒に町内の遊び会に参加してグラウンドゴルフを楽しんだ。今年は参加者が少なく中高年者ばかりの15人、会場であるホテルグランディア若宮のバスが送迎してくれるギリギリの人数だった。
  グラウンドゴルフのルールは、きわめて簡単、指定のクラブ(重さ600g、長さ86cm以下)でボール(直径6cm)を打ちながら、適当な人数のグループで、外回り4コース、内回り4コースの合計8ホールポストを回り合計点を競うだけのこと。
  1コースでのプレー数は5打で、点数は、たとえばホールポストに3打目に入ったら3点、4打目であれば4点、5打目に入ったときは5点、ゲームオーバーのときも5点と付けていく。もし1打目でホールインワンになったときは、合計打数からホールインワン1回につき3打差し引いて計算する。8ホール終わった時点で合計点の少ない人が勝ちということになる。
  この日は、午前中、3グループに分かれ、2ゲーム楽しんだ。私のグループにいた女性がホールインワンを決め、芝生の上で飛び上がって喜んでいた。この女性、初めて参加してこの快挙、嬉しかったに違いない。トップは、グラウンドゴルフの会に入っている男性、私は5位だった。実は、ゲームの途中で携帯電話が鳴り、それ以後完全に調子を崩してしまった。これは、いいわけ。
  午後、ホテルの天然温泉(かけ流し)に入った。内湯と露天岩風呂などがある。風呂上りに宴会場で飲んだビールの味は、やはり格別だった。食事とカラオケを楽しんだ後、帰路に着いた。途中、久山緑地に立ち寄ったが、買うものはない。若いときは、植木を買っては庭に植えたりもしていたが、今は、なぜかそんな気はない。  1年に一度しか開かれない遊び会で、グラウンドゴルフは昨年に続き2回目、今回もそれなりに楽しかった。これも町内の寄りごとの一つだと思って毎回参加している。
 ※画像は、スポーツキングhttp://www.sports-k.jp/6867/、プレイコースの参考地図はHATACHIhttp://www.hatachi.jp/groundgolf/rule.htmlからお借りしました。

2008年11月11日火曜日

セレブ・金髪の若村麻由美

  「セレブと貧乏太郎」というTV番組を毎週見ているが、何度見ても主役の美田園アリス(上戸彩)がセレブに見えなくて困っている。毎回、ファッションも楽しませてもらうのだが、似合っているとも思えないでいる。これって、年齢的ギャップのなせることっていうのかな。
  ドラマは、漫画的で、それなりに面白いところもあり、笑うことも多いが、仰々しいと思うときもある。まあ、そういう番組なのだろう。そんな番組なのにどうして見だしたかってというと、継母美田園真紀子役を演じている若村麻由美を見たかった、ただそれだけのことだった。
  貧乏太郎って言うのは、バラック小屋のような家に住んでいる佐藤太郎(上地祐輔)のことなのだろうが、太郎とアリスがひょんなことで知り合うところからドラマが展開する。太郎の周りには、おっちょこちょいで人の良い下町商店街の仲間たちがいる。この人たちとアリスの触れ合いを通じて、悲喜こもごもとした進展に結構はらはらもさせられる。
  その商店街の一角にアリスタウンという大商業施設が計画されている。このドラマの設定、考えてみると、私の住んでいる周辺地区にも大型ショッピングモールがある。今は、大型商業施設が次々に住宅地周辺に進出し、大型商業施設同士が覇権を争い、そのなかでかつての地元の商店街の風情は埋没して行く時代になっている。そんな時代を背景に本当の幸福が何を問おうとしている番組なのかもしれない。
  ところで、若村麻由美が演じる真紀子はセレブ、でも金髪似合わないよう。若村麻由美は、金髪に初挑戦したらしく、本当にどんな姿の役でもこなす大女優になったとは思うのだが、ちょっと金髪の鮮やかさが目立ちすぎて、若村麻由美の素敵な顔が金髪の下に埋もれてしまっているように感じている。でも、この金髪、支配欲の強い悪女のシンボルマークかも知れないな。
  それにしても、このドラマ、その展開にあまり期待もせずに見続けているので、我ながら不思議だなあ、と思っている。そんなことってあるのだろう。
 ※画像は、金髪の若村麻由美。若村麻由美公式ブログhttp://syunca.at.webry.info/200809/article_5.htmlからお借りしました。

2008年11月8日土曜日

「ジャッジⅡ」の麗子(戸田菜穂)

  楽しみにしていた「ジャッジⅡ~島の裁判官奮闘記(NHK土曜ドラマ)」が始まった。といっても、もう【第3話「反抗」】だった。完全に開始日を間違えていた。
  楽しみにしていたというのは、もちろん三沢麗子役を演じる戸田菜穂が出演しているからだ。
  今回は、万引きで捕まった摂食障害の少女・由佳(柳生みゆ)の更生に取り組む夫三沢恭介判事補(西島秀俊)を陰で支えながら、南の島での生活にすっかり馴染み夫の転勤で島を離れることに不安がる小学5年生の娘麻衣子(枡岡明)に思い悩む役柄だった。戸田菜穂の、大阪弁と暖かな家族愛あふれる演技がすばらしい。
  あと残り2回は、HDDに入れて絶対見逃さないようにしたい。
 ※画像はHP「ジャッジⅡ」、http://www.nhk.or.jp/judge2/zeele.htmlからお借りしました。

2008年11月5日水曜日

葬儀場からのアンケート依頼

  故実母の葬儀を行った葬儀場からアンケート依頼が届いた。最近、TVのワイドショウで「福岡県は、葬儀場の数が全国一多く、葬儀場の激戦区」「葬儀事前相談所という商売もある」と紹介されたらしい。このアンケートも、この報道と関係があるのかもしれない。
  6月上旬に実母は、一時呼吸困難に陥ったことがあった。「今日・明日が峠になるかもしれない」と思い、あわててある葬儀場に相談に行ったが、その後、持ち直して8月下旬に逝った。このアンケートに回答はしていないが、当時のことを思い出しながら下述する。
  ① 葬儀を行う前に事前相談をしたのは1社のみだった。ここに相談に行ったのは、知人から「サービスがよい上に他社より安価」と勧められ、実母の家から近く交通の便もよいこともあった。友の会に入会したのは、すぐに葬儀になるかもしれないという焦りもあったが、応対してくれた受付の女子社員や担当した男子社員の説明のさわやかさやマナーのよさが気に入って、ここなら安心して葬儀の手配を頼めるのではないかと思ったからだった。
  ② しかし、いざ葬儀となったときは、この男子社員とはイメージの違う男子社員が担当されたので戸惑った。
  a. 実母が死亡した日は、葬儀場が他の人の葬儀で埋まっており、通夜法要は翌日に営むことになった。遺体を病院から実母宅に運んだ後、葬儀費用の見積もりを算出し依頼した。その後、直ちに当方で取引にある生花店に連絡して、会場内に多くの生花が並ぶように手配した。そころが、その翌朝、担当社員が「昨日、言うのを忘れていましたが、友の会員の3万円の金券は生花一対に使いますので、その生花に下げる名札には誰の名前を書きましょうか」と電話で聞いてきたので当惑した。見積りの段階で、そのことを教えてくれれば、生花1対分の費用が浮いていたからである。友の会入会日にその説明があっていたのだと思うが、それから約3か月経過しており、当日の心の動揺もあり、その頃聞いた内容などは思い出せなかった。担当者に、見積もりの時点で、改めて説明してほしかった。
  b. さらに今度は、喪主以外の親族がたくさんいる前で、考えなしに「友の会に入っておられますので金権で準備した生花は、孫一同と書いておきましたから」と口にされた。そのため、居合わせた人たちから「友の会にいつ入ったのですか」「死ぬのを待って準備していたのですか」などと言われ、言い訳をしなければならなくなった。
  c. また、続けて、「皆さん、葬儀の朝のお斎はつき物ですから、できるだけ多くの人たちが故人と最後の食事をされてください、必要人数分手配しますので各家族の人数を申し出てください」と言ったので、それぞれが勝手に人数を増やし、手伝いも何もしない人たちまでが大勢押し寄せることになった。事前に担当者に、「葬儀費用一切を私が出すから他の人たちには費用に関わる話をしないこと」と念押ししていたのに、喪主に相談もなしに口にされたので閉口した。
  d. 葬儀の後のことを聞かれたので、「この家を売却する予定もあり、今後の法事は、この家以外で行うことになるでしょう」と言ったら、「いや、初盆と一周忌は、お母様の思い出の詰まったこの家でしてあげるべきです」と断定的に言われた。良かれと思って言われたのだとは思うが、そこまで他人の家のことに口出しをすべきではない。
  ③ 病院で死体を乗せた車が、実母の家に到着したとき、坂道での回転を誤り、車の後部ボディを門塀にあて、一時、車を動かせなくなった。その間、死体を車から降ろすこともできず、はらはらさせられた。運転技術が未熟な社員に運転させる配車の仕方にも疑問を感じたが、まだ葬儀の始まる前のことだったので、この後の葬儀全体の進行に支障が出る前触れではないのかという不安が心を過ぎった。
  ④ どうも人が死ぬ日や時間帯は決まっているのか、実母が死亡した日時は陰陽道の暦には引き潮の時間帯とあった。このとき死亡した人たちが多かったのか、近くの葬儀場も満杯状態になっていた。この葬儀場も葬儀が重なって会場の余裕がなく、葬儀場のスケジュールに合わせて、時間を這うように仮通夜、本通夜、告別式、火葬、初七日法要をさせられたような感じで、時間に追われあわただしかった。
  ⑤ 通夜法要の後、葬儀場で一泊(仮眠)したが、夜間の葬儀場内の照明は、明るくてよかった。ただ、祭壇に置いてあった焼香用の香が湿気ており、折った線香の上では燃えにくかった。葬儀時間以外は、香入れに蓋をしておく等をしていた方がよいのではないのかと思った。
  ⑥ サービス提供は、支払った料金に対比しどの様に感じたか?…。担当者から「他社に比べて安価」と強調されたので、他社のことはまったく知らないが、そうなのかとは思った。それでも一時に高額の葬儀費用を支払うのだから、担当者によってマナーに差がありすぎるのは感心しない。スタッフの教育には万全を尽くしてほしいと思った。
  ⑦ 親族に某新興宗教の信者が多く、通夜でも告別式でも初七日でも、儀式の最中には会場ロビーにたむろしていても式場内には入らない、線香は立てない、拝まない、火葬場に行っても骨も拾わない。それなのにお斎とか精進揚げとかの食事の時間になると大挙して押しかける。私の常識では理解できない人たちである。実は、こういう事情もあったので、事情のわからない担当者に、皆の前で「お斎にはたくさん参加して」というようなことは言ってほしくなかったのだった。
  ⑧ 事前に友の会に加入したので、会場のスケジュールが詰まっていてもここでしなければならないと、心に枠をはめてしまった。この葬儀場は、平屋で利用しやすかったが会場が少なく(小会場は狭すぎる)、葬儀が重なったときは過密スケジュールを余儀なくさせられる。これからは高層階の会場も必要かも知れない。そのためには、対応できるだけのスタッフも必要となるので、予め教育した臨時社員(高齢者可)等を登録し、必要に応じて召集するというような制度の検討も必要になるのではないかと思った。 

2008年11月4日火曜日

うれしい村主章枝のカナダ復活

  「銀盤のプリマドンナ」と称される村主章枝(27歳)だが、昨年フィギュアスケート・グランプリ(GP)ファイナル出場を逃すなどもあり、ここ2年間不振が続いていた。心配していたが、消えてはいなかった。
  今年6月拠点をアメリカに移しニコライ・モロゾフコーチの指導を受けて、カナダで復活した。環境を変えて「勝ちたい…初めて(この思いを)強く思えるようになった」と話していた。村主章枝のファンとしては嬉しい限りである。
  もちろん、11月2日KBC・TVで、GPシリーズ第2戦(カナダ)に出場した村主章枝の演技を食い入るように見た。前日のショート・プログラム2位に続き、フリーでの復活優勝にかけていたが及ばなかった。後半ルッツジャンプのトリプルフリッツが1回転になる失敗はあったものの、ほかのジャンプは完璧だったので、ジャンプで失敗を重ねていた過去に比べたら抜群の出来だった。きっと環境を変えて、もともと持っていた能力のモチベーションがあがったのだと思う。
  村主章枝の「初めての國際試合ではまあまあだったかと思います」というコメントを聞いていて、私には、これからもっと練習して完全復活を遂げると言っているように聞こえた。この年齢を感じさせない頑張りが頼もしく、ますます村主章枝を応援し続けたいとの思いが強くなった。
  なお、村主章枝は旋律の高低を何度も繰り返しながら最後に確信に迫っていく感じのラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」をバックミュージックに使うことが多く、この曲は彼女のフイギァスケート人生そのもののようでもあり、今回も少しだけ期待していたが、今回は「映画恋びとたちのアバルトマンより」(ショート)と「秋によせて」(フリー)が選曲されていた。これもまた村主章枝らしい優雅な曲だった。
 ※画像は、GPシリーズ・カナダでフリーを演じる村主章枝。サンスポ掲載画像http://www.sanspo.com/sports/photos/081103/spm0811030349000-p3.htmからお借りしました。

2008年10月28日火曜日

「北里柴三郎と出会う旅」の案内を見て

  TIP(旅行会社)のHPに「歴史ナビゲーター(井上政典)と行く感動初体験!!歴史上の偉人から元気をもらう旅」の企画があり、その第1弾は、「北里柴三郎と出会う旅」で、行先は「北里柴三郎記念館」とあった。このHPを見て昨年夏、「北里柴三郎記念館」に行ったときのことを思い出した。
  私が北里柴三郎について知っていた知識は、
①小学校の頃、「北里柴三郎は、明治時代に日本が生んだ世界的な細菌学者(破傷風菌の純粋培養法の確立と血清治療を発見)で、第1回ノーベル医学・生理学賞の候補にあがったが、当時、白人は黄色人種に対する偏見があり受賞できなかった」と教わったこと。
②奥様の名前が松尾トラだったこと。
③私は学生時代の一時、青山墓地下のアパートに住んでいたが、近くの青山墓地に北里柴三郎の墓があったこと。
④結婚当初、神奈川県に住んでいたが、相模原市北里にあった北里大学相模原キャンパスの前を車で通ったことなどで、何かしら北里柴三郎の名前だけはずっと記憶していた。ところが、それ以外の詳しい伝記などは知らず、まして、その生家が小国町(熊本県)にあったことなど、昨年夏まで知らなかった。
  昨年夏、杖立温泉(大分県・熊本県の県境)に宿泊した日、小国町方面をドライブしている途中、「北里柴三郎記念館⇒」の看板を目にしたとき、「何でこんなところに北里柴三郎記念館があるのだろう?」と思ったくらいであった。とにかく行ってみることにして、⇒の方向に進んだ。山間の曲がりくねった小道を通り抜けると急に視界が開けた。北里柴三郎記念館は、その右手の高台にあった。ここで初めて北里柴三郎の生誕(1852 [嘉永5]年)地が小国町北里であったことを知った。
  この記念館の敷地内に移築・復元された生家の一部(1895[明治28]年、両親が東京に移住後、解体されたときに残された座敷2間)の、開放された2階の座敷から眺める景色は絶景だった。当日は、真夏なのに、涼しい風が吹き込んで気持ちがよく、晴天の青空の下に広がる湯蓋山の山並みと盆地内に広がる田畑の風景に見とれ、しばし癒しの空間を味わうことができた。なお、実際の生家は、この台地の下の北里川沿いに建っていたようで坂下屋敷といわれていたらしい。
今回、TIPの企画には、日程(11月8日or15日)の調整ができないので参加できないが、また行ってみたい場所ではある。なお、私が通った道は旧道で、観光バスは、後方の丘の上のパイパスを通ると思う。

2008年10月27日月曜日

九州古陶磁の精華展最終日に滑り込み見学

  昨日、「九州古陶磁の精華(田中丸コレクションのすべて)」展(最終日)を見学した。「田中丸コレクション」とは、福岡玉屋(現在廃業)の創業者田中丸善八氏(1898~1973)が生涯をかけて蒐集した約400点の九州古陶磁のことをいうが、そのうち今回181点が展示されていた。
  チラシのトップに「唐津 鍋島 柿右衛門」とあり、鍋島焼の「色絵蕎麦花畑文皿」(掲載画像参照/実際の彩色は画像の青よりはやや薄緑色)や「色絵茶摘文釜」の写真が、その表紙を飾っていたが、佐賀県・伊万里焼、長崎県・現川(うつつがわ)焼、福岡県・上野(あがの)焼や高取焼、薩摩焼(鹿児島県)のほか、現存点数が少ない須恵焼(福岡県)などの陶磁もあり、多彩であった。
  私は、展示品のなかで「菱口水指共蓋(17世紀中期、高取焼白旗山窯)」に釘付けになった。この菱口に合致させる共蓋、どうしてこういう精巧な陶器ができるのだろう。17世紀に既にこんなすごい技術があったものだ。写真を撮ることができないので、ボールペンでデッサンをしようとペンを出した途端、係の人に注意された。まったく恥かきものだった。
  高校生のとき、高取焼白旗山窯の発掘調査に参加したことを思い出した。当時、大量に発掘した陶器は、壊された失敗作の破片の数々だった。その一部は、現在も嘉穂高校郷土部に保存されているかもしれない。数えてみたら、それから既に48年経っていた。
  また、学生時代、たしか博多区川端町にあった有田焼今衛門の店舗で先代今衛門氏にこれからの商売の手ほどきを受けたこともあった。考えてみると、これまで自らが歩いてきた人生(生活)は、若い頃の夢や趣味から遠く離れてしまっている。
  故養母宅には、養母が大事に保管していた今衛門や柿右衛門作ほかの陶磁がかなりあったが、養母が亡くなったとき、内夫(私の育父)がそのすべてを道路に並べて放置した。瞬く間に通行人が持ち去ったという。彼は、叙勲記念に柿右衛門の絵壷を贈られ大事にしていたが、養母が所有していた高価な陶磁にはまったく興味を示さなかった。したがって、当家には今で言う「何でも鑑定団」に出すような陶磁はない。
  当家にあるのは、高価なものではないが、唐子が描かれている「景徳鎮の花瓶」である。いつだったか、岩田屋家具即売会に行ったとき、飾りの置物として置いてあったに花瓶に目が留まり、無理を言って売ってもらったものである。
  豪華な田中丸コレクションの数々に感嘆しながら、私と陶磁にかかわるささやかな思い出が頭をよぎった。
※画像は田中丸コレクションのすべて【うまか陶】http://www.umakato.jp/library/tenrankai/09-05.htmlらかお借りしました。

2008年10月26日日曜日

今夜のスタポーは素敵なタイミング

  今夜は、楽しみにしている「魅惑のスタンダード・ポップス」が1か月ぶりに放送(BS2 PM7:30~8:58)される日。司会は、いつものように井上順、新妻聖子。
  今回の「ワンテーマ・メドレー」は「素敵なタイミング」で、今夜もきっと新妻聖子のわくわくするような素敵な歌声で開幕し、一緒に笑顔で「素敵なタイミング」を口ずさむことになるのではと思っている。
  今夜の出演は、ムッシュかまやつ、勝野雅奈恵、サーカス、つのだ☆ひろ、ミトカツユキ、Rina、masumi。若い歌手からベテランまで、そうそうたるメンバーが並び、どんな曲で競演するのか楽しみである。
  「ポップスの伝説」は、「ムッシュかまやつ」。そして、勝野雅奈恵の「フラダンス講座」もある。また、「スーパースターメドレー」は、「パット・ブーン」を取り上げるという。
  この番組が収録された9月17日の新妻聖子ブログを見ていると、収録中に、「知念里奈ちゃんが遊びに来てくれたんですよー!!…ずっとニコニコして拍手で番組を盛り上げてくれた知念ちゃん、…もしかしたら…知念里奈ちゃんが映り込んでいるかも…皆様はそちらもお楽しみに(笑)」と書いてあった。本当に客席に知念里奈が写っているだろうかな? 宝さがしをするみたいで、これも楽しいかも。
  この二人は、ミュージカル「ミス・サイゴン」では、ダブルキャストで主役キムを演じているが、本当に仲がよさそう。
 ※画像は、新妻聖子と知念里奈。新妻聖子ブログ(2008.9.17)からお借りしました。

2008年10月25日土曜日

博多座はミス・サイゴン上演を想定して設計

  ミュージカル「ミス・サイゴン」の観劇予約日のキャストを見ていたら、ジジ役は、桑原麻希と書いてあったので、桑原麻希の力強い声量とダンスステップを観賞できると期待していたが、今日改めてキャストを見直したら池谷祐子に替わっていた。桑原麻希は、どうも今回の博多座公演には参加しないことになったようなコメントがあり少し残念。
  桑原麻希と入れ替わって出演することになった池谷祐子のことは、まったく知らないが、東宝ミュージカルアカデミー第1期生で、彼女が歌う「THE MOVIE IN MY MIND」の声調はすばらしく、ジジの切ない想いや苦難に立ち向かおうとする勇気が伝わってくるという。このことを耳にして、新たな楽しみができた。
  ところで、なぜ、博多座は、その開場10周年の節目にあたる記念公演に「ミス・サイゴン」を選んだのだろうと思っていたが、今日手にした雑誌「World Joint Club vol.33」の「ベトナム⇔福岡」の頁を読んでいてやっとその意味が理解できた。
  この雑誌には、「オリジナル版ミス・サイゴンの上演には大がかりな装置を要するため、これまで国内では帝国劇場のみで上演されてきました。しかし博多座は計画段階から本作の上演を想定して設計されており、10周年という記念の年に、ついにその夢を叶えることになった」と記されていた。
  確かに実物大のヘリコプターが登場して爆音を響かせる舞台装置など、スケールが大きい。博多座は、既に10年前にそこまで想定して建設されていたのか、改めて認識しなおした。
※画像は池谷麻希。「博多座ミス・サイゴン」http://www.tohostage.com/miss_saigon/top.htmlからお借りしました。

2008年10月20日月曜日

「ミス・サイゴン(博多座)」チケットを先行予約

  いよいよ25日、来年1月5日から博多座公演が始まるミュージカル「ミス・サイゴン」のチケットの一般発売が始まる。
  博多座メールマガジンで、博サイ会員には19日10時~13時に先行予約の受付を行うとの通知があったので、早速、当日、指定された電話番号にダイヤルした。1回目は話し中、2回目は混みあっているとの音声が流れた。少しあせったが、3度目にはすんなりとつながった。後で分かったことだが、電話がつながらず予約できなかった人が多数おられたようで、そうしてみると私は運がよかったのかもしれない。
  最初から第1希望日は、筧利夫(エンジニア役)と新妻聖子(キム役)が出演している日としていたが、希望どおりのチケットが取れたので嬉しかった。
  なお、この日のクリス役は原田優一。原田優一は、10月12日福岡アジアマンスのステージ(福岡市役所前広場)に笹本玲奈(キム役)と出演、劇中歌を披露し、「この作品のテーマは究極の愛で、愛にはいろんな形の愛があると思うのですが、たとえば恋人との愛だったり、親子愛だったりとか、そういうのがギュウっと詰まった作品なのでいろんな人に楽しんでいただける」と作品のPRもしていた。
  筧利夫は、最近、「NHKクラッシックミステリー名曲探偵アマデウス」(日曜PM11:00、BS2で不定期放映)に、共演の黒川芽以(助手響カンナ役)とともに出演している。この番組は、毎回、数々のクラッシックの名曲が生まれた背景やその意味するものを謎解きしながら、その魅力に迫るものだが、元指揮者天出臼夫役の筧利夫の冷静沈着な謎解きを見ていると、どんどんクラッシックの魅力に引き込まれて行く。それだけに、ミス・サイゴンで、この筧利夫が演じる舞台を観たいと思っていた。
  新妻聖子は、台詞戯曲「サド侯爵夫人ルネ」の舞台やTV「堀部安兵衛」の女剣士伊佐子役などを演じ、私はそのすばらしい演技を観て以来ファンとなった。昨年9月、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観劇したときは、エポニーヌ役が笹本玲奈だったので、今回は、何としても新妻聖子がキム役で出演しているときに観たいと思っていた。
  ミス・サイゴンの背景にある時代は、ベトナム戦争前後の時期なので、私の青春時代と一致する。ベトナムの悲劇に憤りを感じて育った世代なので、この舞台は機会があれば観たいと思っていたが、涙するのかも知れない。
 ※画像は筧利夫。博多座「ミス・サイゴン」公式HP(
http://www.tohostage.com/miss_saigon/top.html)からお借りしました。

2008年10月15日水曜日

手軽に癒しを楽しめる「御にほひ立」

  先日、「御にほひ立」なる品(左の画像)を頂いた。最初、この品名を見たときは、どんなものなのか見当がつかなかった。和紙で包まれた紙箱の蓋を開けたら、強い「御香のにおい」が部屋中に漂った。ここで初めて「御にほひ」とは、「御香のにおい(にほひ)」のことなのだと気付いた。
  箱のなかには、桐板で作られた切り立った三角形の小箱が入っていた。表面に季節の絵が描かれた二枚の桐板(縦11cm横7.5cm)の裾近くの内側に切り込みがあり、そこに巾3cmの桐板を差込み、倒れないように固定してある。
  この三角形の裾部分の空間に小さな引き出しがあり、そのなかに「御香袋」が入っている。「御香のにおい」は、ここから発散されていたのだ。なるほど、御香のにおいが立っている桐板から発散しているので「御にほひ立」というのか。また「御香のにおいが立ち上る」という意味も掛けているのかもしれない。
  また、この鋭角の三角形の組み立て方は、感謝と相手を敬う心を表す「合掌」の姿でもあるという。つまり、中空金剛合掌の掌形を抽象的にデザイン化した形なのだろう。
  2面の桐板の各表面に描かれている季節絵は、「中秋の名月と薄」と「春爛漫の桜」で、それぞれ型彫り技法の絵付けされている。これとは別に、夏・冬の風物絵を描いたものがあり、2組で四季揃えとなっているらしい。
  これまで、御香のにおいを漂わせるものとして和服の着物に忍ばせる「匂い袋」や修験者等が所持する黒檀又は紫檀の「香合(塗香入れ)」は知っていたが、この「御にほひ立」についてはまったく知らなかった。
  これは、部屋に置いて楽しむものらしく、香りの詰め替えもあるようで、今流行りのアロマに対抗して作られた新案意匠なのかもしれない。
  なお、発売元は松栄堂(京都市)だが、私が仏間で常時使用している名香「好文木」の発売元は梅栄堂(堺市)なので、その店名は松と梅の違いこそあれ、実によく似ている。共に関西を代表する御香の老舗である。
  玄関の下駄箱の上に「御にほひ立」を置いた。箱を開けたときほどの強いにおいはなく、ほのかに漂う程度である。外から玄関に入ってきたとき、きっと、このにおいで心身が清められることだろう。
  ときどきパソコンの前に持ってきたりもしているが、ただ置いておくだけでよいので、まったく手がかからず御香のにおいを楽しむことができる。多忙で疲れきっている現代人にはピッタリの癒しの品となるのかもしれない。

頂いたベリーダンサー添田直子さんの画像

  以前、「ベリーダンス万歳!…(2008年9月21日)」のなかで、大分にスタジオを開設され、大分・福岡を拠点に活躍されているベリーダンサー添田直子さんのことを紹介しましたが、現在、添田直子さんは、その活躍範囲が日本全土に広がっており、多忙な日々を送っておられるようです。
  そのお弟子(女子生徒)さんたちが、師である添田直子さんのことを口々に「とても美しい人で惹き付けられます」「(ベリーダンスは)最高です」と言っておられるように、素人の私が見ていても、彼女の均整のとれた容姿とベリーダンスの踊りはとても魅力的で優雅、その美しさに引きこまれます。各種イベント、アトラクションの舞台で演じていただけたら、きっと楽しい思い出ができること請け合いです。ぜひ「ベリーダンス添田直子」さんのHPもご覧になってください。
  ところで、数日前、知人(カメラマン)が、ソロダンスを踊っている添田直子さんの画像を送ってくれました。この画像の彼女の容姿、そして身に付けている衣装も素敵です。私だけがこの画像を持っておくのも勿体なくて掲載しました。
  ※画像は、ベリーダンサー添田直子さん。

2008年10月14日火曜日

悲母観音(芳崖の絶筆)完全再現版の完成案内を頂く

  小学館から「悲母観音完全再現版誕生」のパンフレットが届いた。
  左の画像は、東京藝術大学大学美術館20世紀の切手と美術>に載っていたもので、この画像の切手は、1979年5月30日近代美術シリーズ第1集として発行された「悲母観音(狩野芳崖の絶筆1888年制作・重要文化財)」である。
  現在、下関市立美術館で開催されている「狩野芳崖悲母観音への軌跡」で、原画が展示されている(11月5日まで)。狩野芳崖(1828~1888)の生誕180年、没後120年を記念してというが、同じくこの年忌を記念して、小学館からこの「悲母観音の完全再現版掛軸」が発行された。
  パンフレットを見ていると、東京藝術大学(1887年創立)が創立120年の「満を持して世に送る、初めての作品」と銘打っている。デジタル化に伴う印刷技術の進展に意を決し、所有する多数の美術品のなかからこの作品を選んで、初めて「複製」制作したものらしい。
  今回、東京藝術大学の正式認定を受けて発行された「悲母観音掛軸」は、限定480部(番号入り)のみで、価格は税込み126,000円(10月末日まで特価120,000円)。
  その画像をここに掲載することはできないが、従来市販されている複製品は無認可復刻のため細部がハッキリせず、また派手な色彩になり、原画とかけ離れたものとなっているらしい。
  たとえば、①まばゆい輝きを放つ宝冠の細工がつぶれていたり、②色彩あふれる描線をもつ立体的な雲が、濁った地色で派手に描かれていたり、③鳳凰など細やかな文様が際立ち色調豊かで軽やかな衣が、暗く純重な天衣になっていたり、④広がりと奥行きを感じさせる濃淡のある背景が、広がりのない単色の空になっていたり、⑤ふんわり浮かぶ水泡と生き生きした童子の画が、平坦な水泡とぼやけた童子の画になっていたりで、その違いは一目瞭然だという。
  古田亮準教授(東京藝術大学美術館)の作品案内を次に転記する。
  「この作品のように柳の枝を手にする観音は楊柳観音といい、病難救済を本願とする…。楊柳観音と善財童子という組み合わせの図像も多くの作例が残される。しかし、この悲母観音に見られる水瓶から落とされた浄水によって赤ん坊が命を与えられ地上界に降りていくかのような図像は、芳崖の独創といってよい。悲母とは慈母と同じ意味で、子供に対する母親の愛がこの作品の真のテーマとなっている。」
  なお、悲母観音(慈母観音)は、中国で誕生した観音なので三十三(化身)観音のなかには数えられないが、日本では広く流布し信仰されている。
  小学館から送られてきたパンフレットの複写図像に何度も合掌しながら観音信仰者の1人として本文(紹介)を記しました。合掌。
 ※画像はhttp://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/philately/geidai.htmlからお借りしました。

2008年10月13日月曜日

篤姫で観行院(若村麻由美役)逝く(扇の場面痛快だった)

  昨日のNHKドラマ篤姫(41回)を観ていたら若村麻由美が演じる観行院がもう亡くなってしまった。このときの顔を見ていて、また若い頃の故養母を思い出してしまった。
  篤姫で若村麻由美の出番は少なかったような気がするが、皇女和宮(堀北真希)の徳川家茂(松田翔太)に対する気持ちの揺れを見抜き、その母として気づかい、それとなしにアドバイスする演技は光っていた。
  篤姫で一番印象に残っているのは34回、皇女和宮一行が江戸清水家上屋敷に着き、大奥の女中らが挨拶に行ったとき、和宮と観行院がお前たちに見せる顔はないといわんばかりに扇(檜扇か)で顔を隠した場面。ビックリする女中らの表情が可笑しかったが、扇の後ろでアップになった観行院(若村麻由美)の顔の美しさも際立った。宮中では、高貴な人が身分違いの人と会うときは、御簾(すみ)か几帳(きちょう)越しに行い、安易に素顔を見せないというしきたりがあったようで、ここでは、この扇を御簾の代わりにしたのだろう。
  この若村麻由美、その頃放送されていた「刺客請負人2」で闇猫のお吉を演じていたが、その根城の浮御堂でも扇を持っていた。扇を仰ぎながら話をするお吉は、盗賊のようなもので、顔を隠すようなことはない。扇の種類も違い、身分相応の違いはあったと思うが、扇は、身分を問わず必須の持ち物だったのだろう。
  最後は、観行院は死んだが、闇猫のお吉は闇を捨て町娘風のいでたちで一人旅立った。若村麻由美は、最近「セレブと貧乏太郎」で金髪の美田園真紀子役を演じているが、どんな役をしても美しく目立つ。
 ※画像は、NHK大河ドラマ「篤姫」で観行院役の若村麻由美。

2008年10月7日火曜日

ハイエナを見るようだった形見分け

  ハイエナは、死肉をあさる動物として「サバンナの掃除人」と言われているらしいが、故実母の形見分けの様子はこのハイエナに例えられるような状況だった。そのお陰で故実母の家の荷物は、片付いてすっきりしたものの、なぜか虚しい気持ちが残った。
  思い返すと、6月初め呼吸困難で実母の命が危険な状態に陥ったとき、それまで何かと1人暮らしだった実母の面倒を見てくれていたAが、実母宅の金庫の鍵を勝手に持ち出して金庫のなかにあった現金と預金通帳を持ち出した。
  これは、実母生存中のことで形見分けではないが、Aにしてみれば、このまま実母が死んでしまえば「死人に口なし」と勝手に判断したのだろうか。当時、Aに通帳のことを問いただしたら「いっさい知らない」と言っていた。しかし、実母が死の淵から生還したことにより、このことが露見し、後にAからその一部を取り返したものの、その額は、実母が言っていた額より遥かに少なくなっていた。当時訴えていたら犯罪である。もちろん、実母の葬式には呼ばなかった。まずここで身内の浅ましさを目にしてしまった。
  次に、実母の葬式後、Bに実母宅の玄関キーを預けていたところ、早々に、実母が大事にしていた高額の健康食品類と同食品の仕入れ伝票、未記入領収書、得意先を記した電話早見表などを持ち出していた。
  これは、形見分けを開始する以前のことで、相続人である私に報告がなく、後日、追求したところ、「健康食品は某町の人にあげたら喜ばれた」「伝票類は焼いた」「早見表は連絡するところがあったので」と、訳のわからないことを並びたてた。それどころか、その後、まだ押入れに残っていた健康食品をまとめて置いていたら、私のいない間に持ち出していた。
  これらの健康食品は、生前、その販売代理店をしていた実母が某社から大量に仕入れていたもので、Bはその販売方法を熟知していた。私に断りもなしに窃盗にも匹敵するような行為をされたことに対して憤りが残った。それでも、Bに形見分けはしたが、今後、親戚付き合いはできないと思った。
  そのBが、電話で「納骨の連絡をなぜしなかったのか」と文句をいったので、「納骨にあたって母の霊魂が、あなたを呼べとは言わなかった」と答えた。多分、Bが高額の健康食品を黙って持ち出した時点で、故実母の霊魂はBとの縁と切ったのだろう。
  さて、形見分けだが、集まった実母の身内に、「それぞれに好きなものがありましたら形見分けとして選んで持って行ってください」と伝えたところ、皆がわれ先に遺品に群がった。形見を選ぶのではなく、押入れ、箪笥、引き出し、下駄箱の中など、あるものすべてを、手当たり次第、袋につめて、車に積めるだけ積んで、数回に分けて運び出したのである。風呂場や便所にあったものまで持ち出した。さらにトラックでピアノ、テレビ、ソファ、絨毯、エアコン、冷蔵庫なども運んだ。
  その様子は、死肉をあさるハイエナを見るようで、私の頭のなかにあった形見分けのイメージとは、かけ離れていた。皆が置いていった不燃・可燃ゴミ類一切を私が運び出した後、残っていたのは、使いようのない物ばかりだった。お陰で家の内外が瞬く間に片付いてホッとした反面、がらんどうになったなった家を見ていて何とも言い知れない虚しさがこみ上げた。
  実母の死を偲んで、実母が愛用していた品の一部を、遺族が形見に貰い受けるというのが本来の形見分けなのだろうという思いがあっただけに、まさかここまで跡形もなく持ち出すとはイメージしておらず、ハイエナにように跡形のないようにあさって行った人たちに対する興ざめなのだろう。
  でも、これで、重い荷物をたくさん抱えていた実母は、現世に未練がなくなり身も心も軽くなって霊界に旅立つことができただろう。
 ※画像はハイエナ。 ハイエナ - Wikipediaからお借りしました。

2008年10月3日金曜日

博多座「ミス・サイゴン」の予約開始目前!

  最近の「ザ博多座」(KBC)にミュージカル「ミス・サイゴン」の予告が登場しだした。
  毎回、予告の内容も趣向を変えているが、今日のゲストは、キム役を演じる「ソニン」だった。「戦争の中で生まれた人と人との愛、究極の愛がテーマ」とコメントし、「命をあげよう」の一節「星が燃えて私も燃えた あげよう私に無いもの 大人になってつかむ世界を 神の心のまま望むもの選ぶの」を歌った。
  この歌は、「新妻聖子MUSICAL MOMENTS」にも収録されており、カーナビのHDDに録音して車を運転中に聴いているので、悲壮感のある歌ではあるが、私にとっては馴染み深く感じて、聴いていてやはり心がときめく。
  「ミス・サイゴン」は、博多座開場10周年記念第1弾として2009年1月5日(~3月15日)に開演するが、いよいよ10月25日から1月公演分のチケット予約が始まるそうだ。価格はA席16,000円、特B席12,500円、B席9,500円、C席5,000円。まだ開演まで間があると思っていたが、もう予約が始まるのだ。
  今春~夏、実母の入院先に通っていたときは、病状を気遣う毎日で、とても観に行くことはできないと思っていた。実母が死んだ後は、故人の確定申告、相続手続き、財産処分に煩わされているが、この1月公演の予約が始まるとのニュースを聴いて、もうそんな時期に来ているのだと思った。改めてプログラムを見なければと思っている。
  実母とミュージカルの話をしたことはなかったが、とにかくギターを抱えて歌うアメリカンポップスなどの音楽の好きだった実母の姿を思い浮かべ、その供養の気持ちをこめて、「ミス・サイゴン」を観に行きたいと思っている。
※画像は、ソニン。ミスサイゴン/博多座http://www.tohostage.com/miss_saigon/top.htmlからお借りしました。

2008年9月29日月曜日

魅惑のスタンダード・ポップス・新妻聖子、中川晃教ら

9/28の BS2 「魅惑のスタンダード・ポップス」は、1か月前から楽しみに待っていた番組。今回は、「コーヒー・ルンバ」で幕開け、司会の新妻聖子がライブハウスの客と一緒に笑顔で歌った。
  この歌、軽快なルンバのリズムに乗って物語のように歌う歌詞が楽しい。
  「昔アラブの偉いお坊さんが 恋を忘れた 哀れな男に しびれるような 香りいっぱいの こはく色した 飲み物を教えてあげました やがて心 うきうき とっても不思議 このムード たちまち男は 若い娘に恋をした…」と、以前、皆でよく歌った歌だったが、今はすっかり忘れていた。
  新妻聖子は、司会の井上順が「21世紀が生んだ美しき歌姫」とし紹介したように、ミュージカルで歌う新妻聖子の歌唱力は抜群。また、丸顔で目が大きくてミュージカルの舞台でも一段と映える。たまたま一緒に見ていた妻が「可愛い女性ね。私も若いときは、こんな顔していたのかな」と言ったので、改めて新妻聖子の顔立ちを見つめなおして、そうだったのかとうなずいた。考えてみると妻も丸顔で目が大きい。
  新妻聖子は、ワンテーマ「宇宙」10連発(すべて英語)のなかで、高低音の難しい曲「星に願いを」を歌い、スーパースターメドレーでも「レモン・トゥリー」を軽快に歌った。
  ワンテーマは「宇宙」で、1950~60年代の宇宙開発(1969年米国アポロ11号月面着陸など)を時代背景にして生まれた懐かしいポップス曲、布施明の「太陽は燃えている」を皮切りに、かつてエレキギターの奏でる音に魅力を感じていた「朝日のあたる家」(速水けんたろう)や「ミスター・ムーンライト」(裏声もすばらしい中川晃教)と続く。
  「ペーパー・ムーン」(シルビア・グラブ)、「ブルー・ムーン」と「輝く星座」(最近ピンキーとキラーズを期限復活した今陽子)、ビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」(Rina)など本当に懐かしい曲が連続した。
  特に「宇宙のファンタジー」をペアで歌った中川晃教とRinaは、これからのポップス界を担う若い世代。明るいリズムの「レット・ザ・サンシャイ・イン」の合唱ではTVの前で肩を振った。
  また、「ポップスの伝説」は、愛称チャコ(飯田久彦)。「ルイジアナ・ママ」が大ヒットした1962年は、私は19歳の学生だった。
  「あの娘はルイジアナ・ママ やってきたのはニューオリンズ…」、耳にすると体がリズムに乗って動きだし青春時代がよみがえってくる。
  まだ白黒テレビが徐々に普及しだした時代で、当時まだラジオしか持ってなかった。平和島に来ていた飯田久彦のロケを見に行ったことを思い出した。
  飯田久彦は、シルビア・グラブとRinaと「小さい悪魔」を、デビュー曲「悲しき街角(1961)を中川晃教と一緒に歌ったが、その声量は若い歌手に負けず劣らず、声も若い、今の方がよりすばらしいと思えた。歌を歌い続けることは、若さを保つ秘訣だろう。
  ポップス講座は「ドラム」、出演は真矢。「サンシャイン・ラブ」「いとしのレイラ」を披露した。打楽器は、それのみでは曲になりにくいので、弦楽器等の伴奏がいる。なお、この日の伴奏は、上柴はじめ&POPS11など。
  スーパースターメドレーのコーナーは、1960年代の「ピーター・ポール&マリー」(3人)のメドレー。最初の曲は、あまりにも有名な「パフ」、Puff the magic dragon lived by the sea…名曲です。「くよくよするな」「レモン・トゥリー」「悲しみのジェット・プレーン」「サンフランシスコ湾ブルース」「500マイルも離れて」「朝の雨」「ロック天国」「花はどこへ行った」など誰もが一度は耳にしたことのある曲、あっという間に時間が過ぎた。
  トリは、開幕曲「コーヒー・ルンバ」を再度、出演者全員と客との大合唱。
  次回は、10月26日、オールドファンとしての楽しみが増えた。
※画像は、中川晃教と新村聖子(新妻聖子公式ブログ)。

2008年9月24日水曜日

「男たちの大和」を観て南方で戦死した実父想起

  日曜洋画劇場で「男たちの大和/YAMATO」(05年東映・佐藤純弥監督)を観た。何度観ても鈴木京香と仲代達矢のやり取りにひきつけられる。やがて、回想という形をとって戦艦大和が出撃する場面へと進んで行く。
  大和艦上で対空砲を発射し米軍の航空機と対戦した男たちが壮烈な戦死を遂げていく場面を観ていると涙がこみ上げ、戦死した実父のことが思い出された。実父が乗船した船は、南方戦場に向かう陸軍輸送船で、昭和19年3月16日午後4時頃、 北緯5度00分東経136度46分の南太平洋上で米軍機の攻撃を受けた。
  実父は、当日、下痢気味で船室で休んでいたが、急いで甲板に戻り対空砲を握った。しかし、午後4時23分、米軍機が発射した弾丸が頭部を貫通し絶命したという。私は、若い頃、日常的に頭痛に悩まされ鎮痛剤(バッファリン)を常用していたが、ある事情で小仏壇を買うことになり、借家の一室に置いて実父の供養を始めたら頭痛が治まった。これにより、実父が頭部を撃たれて死んだという話は事実だったのだと悟った。実父の霊は、私のところに還って来ていたという証でもあった。
  大和の対空戦さながらに、実父も輸送船の対空砲を握りしめ壮烈な死に方をしたのだろう。当時満26歳、私が満1歳の誕生日を迎える直前だった。実父の面影については、残されていた数枚の写真以外に記憶がない。実父が私を抱いたという話も耳にしたことがない。
  ただ、故祖母から次のような話を聞いたことがあった。実父が乗船した船が門司港に寄港したとき、「出航まで3時間停泊する、妻と子供に会いたい、タクシーで来させてほしい」と実家に電話を入れた。しかし、そのとき妻(実母)は、行く先も告げず子供(私)を連れて出かけていた。実母は、当時満19歳で、夫のいない家にじっとして耐えているといったタイプの人ではなかった。家族総出で探したが見つからず、実父は妻子に逢うことなく出港し還らぬ人となった。生まれた子を抱き上げることもないまま戦死したのだと思う。実父の戦死の公報は、同年6月26日暁第2953部隊(中川多計士部隊長)からもたらされたが、その部隊の詳細、また乗っていた船の名も知らない。
  実母は、若くして未亡人となり、凄いショックと子供の養育に不安を抱えていたと思う。今も私の左耳下に残る傷は、若さゆえに子供の養育に手を焼いた名残なのだろう。実父の本家が私を引き取り、実母は家を出た。養父は私が6歳のとき死んだ。またも父親との縁は薄かった。
  彼岸に入り墓参。墓には実父の法名は刻しているが、遺骨は入っていない。戦死公報とともに骨壷が届けられたとき、本家の戸主(後の養父)は激怒して、その場で骨箱を投げ捨てた。「誰の骨とも分からないものを持ってくるな」と怒鳴った。骨壷には、誰のものか分からない一かけらの骨が入っていたという。実父の骨は「大和」の戦死者と同じように海中の藻屑となったのだろう。今は養母も死に、先月実母が死に、親子が歩んだつらい戦後の戦い(歴史)がやっと収束したのかも知れない。
※画像は「男たちの大和/YAMATO」のポスター。

2008年9月21日日曜日

ベリーダンス万歳!・実母の死後初めて笑う

  はっきりとは覚えていないが、学生時代の夏休みだったか、当時、実母が経営していたスナック(あるいは居酒屋だったかもしれない)を尋ねて行ったたことがあった。場所も覚えていないが、住吉だったかもしれない。考えてみると、それから年月を経て、当時のことを話しあったことはなかったので、記憶が霞の彼方に消えてしまっている。しかし、そこで実母からジルバ、マンボなどの軽快なダンスを習ったことだけは妙に覚えている。
  当時、実母はまだ30歳代後半で独身(未亡人)、肌が奇麗で人目をひくモダンガールだった。私を育てた養母が非常に厳格で威厳のある人だっただけに、見比べると実母は甚だ軽い。そんな人だったから気軽に親子でダンスを踊るなどができたのだろう。実母が再婚して以後、親子でダンスなどできなかったが、実母自身は、再婚した夫が20年前に死亡した後、数年前までダンス教室で社交ダンスを踊っていたようだ。
  実母が先月死んだ後、ある宴会で初めてベリーダンスの実演をみた。さすがに実母は、ベリーダンスのことは知らなかったと思うが、もし元気であったら年甲斐もなく踊ってみると言い出したかもしれない。
  この日、公演されたベリーダンサーは、大分・福岡を拠点に活躍されている添田直子さんと、その4人の生徒さんたち。皆さん、スタイルがよく美人揃い。とても気品のある添田直子さんとも挨拶を交わすことができて感激だった。
  ベリーとはお腹のことで、ベリーダンスはお腹と腰を中心に手足や全身を動かして踊る、アラブ諸国で発展した世界最古の踊りというが、添田直子さんは、最近、宮地嶽神社の舞台でも踊ったそうだから、神社でも踊れるような日本的な独自のダンススタイルを形成されているのだろう。
  ベリーダンスのことは、以前、NHKの趣味悠々で見たことがあったので知ってはいたが、やはり実演の迫力は違う。踊りの意味や内容はわからなくても充分に楽しめる。
  お腹を出して腰を振る様はセクシー、見ていて楽しくて、思わず舞台に駆け上がったら、ダンサーの1人が私の左手を握って頭上に上げた。会場から拍手喝采。ダンス好きだった実母の死後、久しぶりに笑った。
※画像は、ベリーダンサー添田直子さん。

2008年9月20日土曜日

胡蝶蘭香る観音会で実母の追善供養護摩

18日夜、故実母の追善供養を兼ねて観音会を開催した。
  心配した台風13号の来襲はなく、先に花屋さんから頂いた白の花びらの胡蝶蘭を、観音会の間、道場拝殿から内殿に移して神前に供えた。故実母の「七日ごとの法要に供えてください」と、鹿児島県肝付市から取り寄せていただいたもの。その美しい胡蝶蘭の甘い香りが発露する真横で追善供養の護摩をたくことになった。
  これまで実母と私の交わりは「親密と疎遠」の繰り返しであったが、終末医療と分かった頃からは、毎日のようにその入院先に足を運んだ。実母が寝たきりの状態になってからは、実母が望むことを聞いてあげ、少しでもかなえてあげようとした。仕事で病院に行けない日があると、翌日、病床から「今日は来ますか」と電話をかけてきた。
  「お前は、これまでまったく私の面倒など見なかったので、最後はお前が面倒を見るようになっているんだよ」と口にしたこともあり、最後に頼ったのは、たった一人の実子である私だけだったのかもしれない。「最後はとは、ないだろ」と言うと、「そう退院したら温泉にもハワイにも行くんだった」と答えていたが、あるいは死期を悟っていたのかもしれない。
  何事にも前向きで、人の悪口を言わない人だったが、死ぬ前に唯一、悔しい口調で「何かと面倒をみてくれていた人が、実は泥棒だった」と語ったことがあった。そのことを耳にしたのは、実母が6月3~4日に呼吸困難の危険な状態に陥り、急遽行った延命祈祷で生還した直後だった。担当医師は「この病状で生きていることの方が不思議」と驚いたが、もしこのとき生還していなければ、このことを知るよしもなかった。御守護の神仏が、その人物の実態を知らせるために実母を生還させられたのだった。
  その後、その人が持ち出した現金と預金通帳を返してもらったが、実母が口にしていた金額よりは遥かに少なかった。
  私の娘が、「そんな人を信じたおばあちゃんが悪い」と怒ると、最初のうちは、「半分死にかけているおばあちゃんを、そんなに怒らないで」と言っていたが、そのうち「おばあちゃんは、もうあんたと喧嘩する元気もなくなった」と口にしだした。徐々に死期が迫っていたのだろう。
  この娘とその娘(曾孫)は、実母にとっては、自慢の孫と曾孫だったようで、曾孫が習っている日本舞踊の来春の発表会を楽しみにしていたが叶わなかった。実母は、自ら三味線を弾き日舞を楽しむばかりでなく、ギターを弾き英語でポップス曲を歌い、また社交ダンスも踊る多芸な趣味を持った人でもあった。
  私が満1歳の誕生日を迎える直前に実父が戦死(当時実母は満19歳)していなかったら、お互いの人生はもっと違ったものになっていたかもしれないが、お互い生を受ける前からの因縁や業に支配されていたのかも知れない。
  満21歳のとき、満3歳の私を故実父の実兄に渡して離縁、私が成人後に再び出会った。その後、ずっと心ではお互いに思いあいながらも、なさぬ仲で面倒をかけあわない意地みたいなものがあった。

  死ぬ前夜は入浴もして綺麗な体で死を迎えることになった。肝臓から全身に転移した病根の痛みを悲壮に訴えることはなかった。荒い息使いが治まった後、ゆっくりと眠るように旅立っていった。負の遺産を含めて残したもののすべてを私に託すことができたので、安心して寿命を全うし、これ以上生の苦しみを味わうことなく霊界へと旅立ったものだと思った。

  実母が口にしたとおり、結局、最後は私が面倒を看、最期を看取り、喪主として葬式を出し、導師を務め成仏法を修し、納骨、仏壇(位牌)の手配をもすべてを取り仕切ることになった。35日を過きた後に遺産を処分し、その後のことは実母が後妻に行った先の子息に託すことにしている。

  実母逝去以来、忌中で入室を控えていた道場内殿に、観音会のこの日初めて入った。主として観音経と光明真言を勤行する観音会のなかで、合わせて胡蝶蘭の極楽の香りの漂うなかで清清しく故実母追善成仏護摩を修することができた。合掌。
  ※画像は「決定版フォーク・ポップス黄金時代」http://www.sonymusicshop.jp/cdbox/folk

2008年9月12日金曜日

純白の胡蝶蘭で花供養

  花屋さんが、「お母様の七日ごとの追善法要にお供えください」と言って、純白の「胡蝶蘭」を贈られた。
  実のところ、8月下旬に逝去した実母の法要は、3日目に料亭で、初七日から七七日忌(四十九日)までの法要を繰り上げ「三日斎(みっかどき)」として仕上げの法事を営み、既に秋の彼岸入りに間に合うようにと納骨も済ませていたので、このようなときに立派な「胡蝶蘭」をいただきとても恐縮した。
  今回、「三日斎」を営んだのは、実母の通夜、葬儀等の法要のすべてを私自身が導師となり成仏修法を執行していたからである。
  「三日斎」の語源は、地獄に堕ちた北斉の梁氏の遺族が三日目に僧を招いて斎(とき)=食事を供えて追善供養を行ったところ故人が地獄の責め苦を免れたという故事によると聞いたことがあるが、大事なことは、成仏法を確実に修しておけば七七日忌法要にはこだわらなくてもよいということなのだろう。
  納骨を急いだのは、誰もいない実母宅に四十九日間も遺骨を置いたままにすることはできないという思いがあったからである。ただ五七日(ごしち)35日の法事は少人数でするが、親の死とともに親の親族との交際は途絶えていくだろう。
  こう書くと、せっかく頂いた「胡蝶蘭は、どうするの?」ということになるが、三七日(みなのか)21日目を過ぎた時点で、実母の追善供養を兼ねて道場で観音会を開くことにしており、この法要に供えるすばらしいお供物になると思う。
  実母は、どんなことでも前向きに考え、特に真心の篭った贈り物には大感激する人だったので、この「胡蝶蘭」を目にすることができたら、さぞ喜んだことと思う。今回の観音会は、この「胡蝶蘭」の花びらが映えるよい供養会になることだろう。

2008年9月10日水曜日

白い玉スダレの開花と実母の旅立ち

  我が家の庭では、ときどき花々が不思議な咲き方をすることがある。
  毎年盂蘭盆を過ぎて養母の本祥月命日に合わせるように開花する白ユリ(高砂異種)がある。養母の好きだった花なので、養母の白ユリ供養と思って一輪開花するたびに合掌しては浄土での冥福を祈っていた。 この白ユリは、養母の死から22年咲き続けていたが、今年は一輪も開花せず枯れてしまった。どうしたのだろうかと思いつつ、その命日の夜、23回忌法要をした。
  その翌早朝、毎日のように訪れていた実母の入院先から電話があり、慌てて駆けつけた。実母は、私の目の前で息を引き取った。養母の命日をやり過ごし、その翌朝旅立ったのである。
  そして、この日、我が家の庭には、白いタマスダレの花が一面に開花していた。このタマスダレは実母の好きな花で、その元球根は実母の家の庭から持ってきて植えていたものだった。今年、白ユリが開花せずに枯れたのは、養母の御霊が実母の死を予感していたのかもしれない。それ故に、今年はタマスダレに席を譲っていたのだろう。今後、タマスダレの開花を見ると養母を思い出して合掌することになるのかもしれない。
  また、この花に混じって、タマスダレに良く似た形をしたピンクのサクラモドキの花も、色を添えるかのようにたくさん咲いていた。
  考えてみると、養母も実母も死ぬときは私の姓とは違っており、私は生涯で二人の姓の違う母の喪主を勤めたことになる。そして、その命日は一日違い、不思議な巡り合わせとはいえ、養母の死から23年経って、やっと養母がその命日に実母を迎えに降りてきて、その翌朝、その手を引いて霊界へと導いて行かれたのだと信じたい。
  今は、まだ心に穴があいたような状態だが、このことを記していないと、この後、何も書けないような気がするので、ここに書き留めておくことにした。

2008年9月7日日曜日

陽炎の辻2の主題歌は前回と同じでラッキー

  昨年7~10月にNHK木曜時代劇で放映された「陽炎の辻~居眠り磐音江戸双紙~」の続編「陽炎の辻2」が、今回は土曜時代劇の枠で始まった。
  脱藩浪人・坂崎磐音(山本隆史)や磐音に気のあるおこん(中越典子)などのレギュラーはほぼ前回と同じ。また、かつて磐音の婚約者だったが、今は吉原の花魁となった奈緒(笛木優子)との再会もありそうで、今後のドラマの展開が楽しみだ。
  それにもまして、前回の主題歌である新妻聖子の「愛をとめないで~Always Loving You~」(岩里祐徳作詞、佐藤直紀作曲)が、今回もその主題歌になっていたのが嬉しかった。シックで心が癒されるような歌詞と音曲、そして新妻聖子の哀愁を誘うような素敵な歌声は、江戸人情と男女の心の機微を描く時代劇の主題歌としては相応しいものとなっていると思う。
  昨年9月、このCDを購入、HDDに録音し、これまで数限りなく車運転中に聴いていたが、今回また同じ歌をTVドラマのなかでも聴くことができるのが嬉しい(ラッキー)。
 ※画像は、坂崎磐音(山本隆史)と由蔵(近藤正臣)NHK。http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kagerou2/html_kage2_story.html

2008年9月1日月曜日

「魅惑のポップス」を聴き実母の死を悼む

  8月下旬、入院中の実母(83)の病状が悪化し死亡し、ずっとTVを観ていなかった。今まで生きていた身近な人が、突然声を発しなくなり、形もなくなり消えていく。やはり悲しく、心が虚しくなる。昨夜、そのような気持ちを鎮めるかのように、やっと開いたチャンネルが「魅惑のスタンダードポップス」(NHK-BS2)だった。
  実母は、若い頃からダンスが好きで、またアメリカンポップスやジャズ・カンツォーネなどのポップス曲を英語で歌うなど、なかなかのモダンガールであった。私は、このような実母の影響も受けたが、性格が似すぎて相容れないところもあった。お互いにずっと気にかけあっていたものの同居した日々は僅かであった。この番組で数々のポップスを聴きながら、若い頃、水商売にも手を染め、色白の美人と、もてはやされたこともあった実母の思い出を辿っていた。
  番組は、左耳元に白い花の髪飾りをつけた新妻聖子が歌う「太陽の彼方に(日本語)」で開幕した。その「のってけ のってけ のってけサーフィン 波に 波に 波に乗れ乗れ 踊れ 踊れ 踊れサーフィン 太陽の彼方」という楽しいリズムに乗った歌詞を思わず口ずさんだ。
  この後、新妻聖子と井上順の司会で、「恋はみずいろ(日本語)」(meg)をトップに色をワンテーマとしたメドレーが始まった。続いて、すっかり年老いたが、今も味わいのあるデューク・エイセスのハーモニィメロディ、また鍵盤ハーモニカを奏でるピアニカ前田、さらにスーパースターメドレーはシナトラ一家と、1950年代から70年代までに歌われた馴染みの曲の数々が披露された。そのすべての旋律に心ときめき、まさにポップスは、熟年世代にとっては「心の歌」であると思った。
  新妻聖子は、中盤でも「幸せの黄色いリボン」や「にくい貴方」を英語で歌った。新妻聖子の発音は綺麗で、ポップスも流暢に歌う。このほかアルベルト・シロマ、宙美、今井清隆、Bless4、庄野真代などのベテランと若手の歌手が競演し、見ごたえ、聴き応えがあった。
  この放送曲を聴いていて、若い頃の実母のことを思い出すことができ、きっと実母も一緒に聴いていたかも知れないと思うと、ずっと沈んでいた心が少し和んだ。そして、次回9月28日の続編放送も観たいと思った。
 ※画像は、「魅惑のスタンダードポップス」に出演・司会もした新妻聖子(公式ブログ7/19から転載)。

2008年8月22日金曜日

笛木優子似の女優・相田翔子入籍のニュース

  女優・相田翔子(38)入籍のニュースを見た。相田翔子は、1988年に鈴木早智子と組んで女性デュオWinkとしてデビュー、翌年「淋しい熱帯魚」で日本レコード大賞を受賞したことが有名。
  相手の麻酔医・相澤宏光氏(37)は、相澤英之氏(元衆院議員・経企庁長官)と女優・司葉子の三男。司葉子は、かつて東宝の看板女優だったが、私も若い頃、こんなに美しい女優がいるのかと思ったことがある。その三男は、母と同じく美人女優を妻にしたことになる。
  昨年9月頃、二人の仲で噂があったが、7月31日に正式入籍、おめでとう!
  私が、相田翔子に興味を抱いたのは、どこか笛木優子(ユミン)に似ていると思ってからのこと。顔立ち、両笑窪、眼元、口元、スタイルなど、見れば見るほど見間違えるほど似ているように思えてならない。
  この相田翔子入籍のニュースを見ていて、ふと、6/23のブログに載せた「笛木優子似の女子社員 」のことを思い出していた。すると、以心伝心、当の彼女から電子メールが届いた。日本を離れ1か月たち、夫の仕事を手伝いながら少しずつスリランカの空気にも馴染み、快適に過ごしているという。
  それぞれに皆が幸せであることを祈る。
※画像は、相田翔子[07年11月撮影](オリコン)。http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/marriage_and_divorce/?1219303930(スポーツ報知)。

2008年8月18日月曜日

観行院(若村麻由美)と「幻の一枚?」(篤姫の雛段飾り)

  若村麻由美ブログに「幻の一枚…」と題した画像(左面掲載2008/08/17)が載っていた。この雛段飾りの前に座っている観行院(若村麻由美)というショットは、大河ドラマ「篤姫」にはないので「幻の一枚」ということらしい。
  この雛段飾りは、篤姫の「桜田門外の変」のなかで、篤姫(宮崎あおい)が大奥にて雛祭りをしたときに飾られていたものだと思う。井伊直弼大老(中村梅雀)が桜田門外で襲撃された同時刻に、幸せそうに大奥でひな祭りをしている篤姫、この不幸と幸福を同時に進行させた映像には言い知れない余韻が今も残っている(8/12参照)。
  この雛祭りの撮影があっているときに、既に観行院の出番の撮影が始まっていたということなのだろう。それにしても、この雛段飾りは、本物の葵の御紋が入っているものらしく、それを借り受けての撮影だったようで驚きだ。
  それから、「幻の一枚…」のなかに、「雛段から降りてきたような観行院さま」と書かれていたが、まさに、それには同感です!。17日から、「篤姫」に観行院が出演しだしたが、若村麻由美の着物の着付け、袖の振り方など、そのしぐさ一つを見ていても、雛人形のような美しさがにじみ出ていると思う。
  ※画像は、「幻の一枚…」。http://syunca.at.webry.info/

2008年8月17日日曜日

盂蘭盆(祖霊迎え提灯と雷雨中の送り)

  盂蘭盆3日間は、13日の祖霊迎え、14日供養会と墓参、15日の祖霊送りと、あわただしく過ぎた。以下、例年と違っていたことを書きとめておくことにした。
  まず13日朝、E氏から「玄関に吊るす盆提灯とは?」と、問い合わせ電話があった。私の家では、迎えの盆提灯(門灯)の灯りを目印にして確実に当家の祖霊が戻ってこられるという言い伝えに従い、外玄関に祖霊迎えの盆提灯(薄墨家紋及び家名入り・絹丸)を吊るして、夕方に灯りを灯すが、E氏宅はマンションの一室なので、共有通路上にある各室入口ドアの外には盆提灯を吊るすことはできない。
  提灯に限らず、盂蘭盆に家の前を明るくして祖霊を迎えるという風習は、仏教が日本に入る前にその原型となった風習からあったようで、その方法は、各地方や各家によって違いがあり、また現在、その方法も微妙に変化してきている。たとえば、各家の前で迎え火を焚くという風習については、都市化とともに危険が伴うこともあり少なくなってきている。もちろんマンションではできない。
  E氏には、「提灯がなくても、夕方、仏壇に灯明と線香を立て、祖霊迎えの勤行を行えばよい」と返事したが、考えてみると、以前、当家では就寝前まで灯明の灯りを絶やさないようにしていたものだ。
  14日午前中に盂蘭盆供養会を行い、墓参に行った。例年だと、霊園前道路(復路)で参拝者の車の渋滞に巻き込まれるのだが、今年は、それがまったくなかった。ガソリン価格高騰で車の運行を控えている人が多く、帰省ラッシュでの車の混雑が少ないと報道されていたが、車での墓参を控えている人も多いのだろう。
  15日夕方、祖霊送りの勤行をした後、激しい雷雨となった。指定された近くの川べりまでお供えものを運んだが、このような雷をともなった激しい雨の降り注ぐなかで祖霊送りに行ったのは初めてであった。よく降った雷雨も、夜になって治まり、祖霊は、無事、浄土に帰還されたものと思い安堵した。
  ※画像は盆提灯・門灯(一例) http://www.chochin.jp/products/7-12.htm

2008年8月16日土曜日

「逃亡者おりん」の青山倫子を思い出す

  13日夜、盂蘭盆迎えを終え、北京五輪TV観戦も疲れたので、ドラマでも観ようと思い、「ゴンゾウ(内野聖陽主演)」を録画予約し、「北の大地!旭山動物園命の事件簿②(西郷輝彦主演)」を観た。動物園の白熊の興味深い動きなどの方に気をとられながら漠然と観ていたら、妻が突然、「この女優、おりんだよ」と言い出した。
  「おりん?」、「ほら、以前、あんたが毎週見ていた時代劇があったじゃない、宅麻伸とかと一緒に出ていた」。最初はピンと来なかったが、改めて刑事の里美役をしている女優の顔を見なおして、やっと思い出した。
  2006.10~2007.3に全21回連続放映された金曜時代劇「逃亡者(のがれもの)おりん」で、植村道悦(榎木孝明)率いる「手鎖人(てぐさりにん)」という暗殺組織から抜け出し逃亡者となったおりんを演じた女優青山倫子(のりこ)だった。
  縞の合羽に三度笠という渡世人スタイルで旅をするおりん、そして、それらを脱ぎ捨てレオタードスタイルに変身し、次々と追ってくる刺客と渡り合う。この姿が格好良く、また、撃退したときに口にする「闇の鎖、またひとつ切りました」のセリフの響きもよい。当時、この番組を観た中高年の男性たちがはまり、高視聴率をマーク、時代劇復活が叫ばれたほどだった。また、「まだ見ぬ娘を求め、修羅の道をひた走る女・おりん。迫り来る刺客に、必殺の武器・手鎖(てぐさり)が飛ぶ」などのナレーション(津嘉山正種)も良かった。
  私も、このとき初めてこの女優青山倫子を見て、はまったひとりだった。モデル出身でスタイルが良く、モデル当時は井上訓子(本名)で活動していたというが、まったく知らなかった。
  しかし、その後、青山倫子出演作品を見たことがなく、今回の刑事里美役は、主役ではなく、おりんのイメージとはかけ離れており、妻に言われるまで気がつかなかった。おりんに、はまっていた筈なのに、すっかり忘れていた。青山倫子は、時代劇のほうが似合いそうだ。でも、今後は、忘れずに応援しようと思う。
  ※画像は、青山倫子、ドラマ「逃亡者おりん第4話」でのシーン(C)2007 テレビ東京・C...。http://contents.oricon.co.jp/news/movie/44223