2007年8月23日木曜日

白ゆり開花と故養母孝行 の思い出

平成19年8月18日のこと
  8月15日、自宅の花壇で白ゆり(高砂異種)が2個開花した。この白ゆりは、故養母が大好きな花であったので、盂蘭盆の送り日にあわせるように開花したのだろう。17日に3輪目が開花し、残り1輪が本日開花した。
  毎年、この時期に開花する白ゆりを見ると、8月26日が祥月命日である故養母のことを思い出す。その生存中に、私はどれだけ親孝行をしたのであろうか。いろいろ思い返すたびに迷惑をかけたことばかりが思い出され心が痛むことがある。唯一の孝行は、養母に顔立ちのよく似た長女の誕生だったのではないかと思う。養母は、本当にこの長女が可愛くて仕方がなかったようで、当時関東でこの長女が誕生したときも100日宮詣りにも九州から飛んで行った。また養母の家に幼かった長女を連れて行ったときは、養母は長女の手を引いて「行きましょう、行きましょう」と声をかけて商店街に買い物に行き、就寝時には同じ布団で寝かせていた。その養母は、長女が中学生のときに亡くなった。もう少し長生きしていたらよい話し相手になれたのであろうと悔やまれたが、それでも、この長女誕生が、私ができた唯一の親孝行であったとしたら慰められる。その長女も今は子を持つ母である。そして、この長女の子(長女)は、故養母の月命日に合わせるように誕生したので、今でも不思議なめぐり合わせと感じている。

自転車走行は小脳の働きに関係ある

平成19年8月14日、盂蘭盆会での話しのなかの抜粋です。
  最近、自転車を入手、まったく自転車を触ったことのなかった孫に運転の仕方を教えてあげたら、瞬く間に上達しています。自転車の運転はバランス感覚をとることができれば難なくできるようになるもので、子どものバランス感覚は通常高いので、怖がりさえしなければすぐに覚えます。
  ところがこのバランス感覚は年齢を重ねるにしたがって怪しくなって行きます。妻は、若い頃、近くにスーパーマーケットがなかったので、自転車に乗って遠くのスーパーまで買い物に行っていたので、自転車の運転には自信があった。そこで、上記の自転車を入手した直後、すぐに乗ってみたところ、わずか3mくらい進んだだけで横転して、左脚にかなりの擦り傷を作ったのです。なんとも説明のつかない一瞬の出来事でしたが、既に若いときのようなバランス感覚がなくなっている証です。私も乗ってみて、この自転車は運転しにくいと思いましたが、実は、そう思うこと自体が、それだけ自分のバランス感覚が低くなっているということなのです。(話を聞かれていた人で、「若いとき傘を差して自転車走行ができたが今はできない」と言われた人もいた)。
  この人間のバランス感覚をつかさどる機能は、小脳であるといわれています。小脳の働きが衰えると、体の重心が右か左かに移動しているということです。小脳の働きの衰えがバランス感覚を衰退させているので、自転車の運転がうまく行かなくなるのです。特にスピードを落としたときに、安定をとりにくくなったり、転んだりするようになります。小脳衰退の原因の一つは、やはり運動不足です。
  とりあえずバランス感覚を取り戻す一つの方法として、これは何かで見聞きしたことですが、目を瞑って左手を前に伸ばし、手のひらを外側にむけ指を開きます。次に頭上で右手を握り締め、人差し指を伸ばし、その指を伸ばしている左手の親指につけ、戻す。この動作で、順次小指までつけ行きます。次に小指から順次親指へと行います。次に左手と右手を入れ替えて同じことをします。これをするだけでも衰えた小脳の働きが活性化していくと聞きました。
  自転車の走行も、安定が悪くなっていると感じたら、あせらず一からやり直すという気持ちで行ってみてください。その意味では、自転車走行をあせらず正しく行えば、衰えていた小脳の働きを活性化させることになると思います。健康器具の中にも自転車によく似たものがあるのを見たことがあります。
  また、修行から長く遠ざかっている修験者にとっては、霊山での走行修行を再開する必要があります。山道や谷道は、でこぼこして変化に富んでおり、自分の体の安定とりながら歩く、登る、下る、渡るといった諸動作が小脳を活性化させると思います。そして、自分の足の感覚、呼吸、心臓の鼓動等が、いつ、どこで平常の状態に戻るかに気づくと、正見行脚の修行の度合いを認知できます。

2007年8月19日日曜日

朝青龍の謹慎処分と横綱の品位について話す

平成19年8月7日のこと
  蔵王権現供養会で、連日報道されている朝青龍の処分について私見を話した。
  朝青龍が肘の疲労骨折を理由に、相撲協会に相撲巡業欠席届を出し、親方に黙って母国モンゴルに行き、持ち前のサービス精神を発揮し少年サッカー競技に参加してサッカーに興じている映像がマスコミに流れ、日本相撲協会から「2場所休場、自宅謹慎、給与30%カット、高砂親方も給与30%カット」等の処分を受けた。朝青龍は、その後、自宅に引きこもり、うつ的症状に陥っているという。
  私は、この処分に関して、当初から相撲協会の処分の仕方に対して疑問を感じている。まず相撲協会は朝青龍に対して、これまで横綱としてのあるべき姿、品格の指導をしてきたのか、今回の処分を発するにあたっても朝青龍に対してその理由を十分に理解できるように説明をしたのか。彼が横綱としての品格を保っていないのであれば、その指導をしてこなかった相撲協会にも責任がある。仮にしてきたとしても横綱がそれを理解していなかったから今回の事態が発生したのであり、その責任は、親方だけではなく、協会にもある。北の湖理事長以下の全理事は、横綱に対する指導力不足に対して、自らをも処分の対象とすべきではないのか。
  今まで1人横綱として勝ち続けるために踏ん張ってきた朝青龍にとっては、白鵬という横綱ができたので、品格のないお前はもういらないと言われているようなもので、憤懣やるかたないと思う。今回の処分は横綱の生命を奪ってしまうようなものである。処分とは、本来本人の反省を促し、今後同じような過ちをしないように誓わせるべきものだと思う。これでは、これまで相撲に貢献してきたと思っている横綱にとっては屈辱感を味あわせるだけで耐え難いと思う。要するに本人に反省する機会を与えず、いきなり重い処分をしすぎており、処分を下した協会に、何ら自らの反省の姿が見えてこないということなのである。
  では、なぜ横綱には、品格が必要なのか。それは横綱がつけるまわしに意味がある。もともとは、相撲の最高位は大関であり、その中で横綱のまわしをつけられる者は限られていたという。その選定には、相撲が強い(力量)だけではなく、品格が必要であった。それは、横綱のまわしは、神様の神域を表す注連縄であり、その注連縄をつける者は当然神様でなければならないからである。神様である以上は、人に崇められる神様としての品格は必要である。
  ついでにいうと相撲は、日本の神様に奉納するものであり、神社の境内に土俵が作られるのはそのことを表している。その意味で国技であり、国技であるが故に天覧相撲として天皇がご覧になられる席が国技館には設けられているのであり、本来相撲は、外国人がとるものではなかったと思う。風習の違う外国人を横綱にするのであれば、このことを十分に納得させておくべきである。日本の神を崇敬できない横綱などあり得ないことだと思う。土俵が、地表より一段高く作られるのは、人がいる地表より上に神はおられるからである。つまり「上」は「かみ」で「神」である。土俵の周りに敷く縄は、これもまた神の結界を現す注連縄であり、、土俵の中は神の世界であることを示していると思う。したがって、土俵に上がって相撲を取るとき、神の世界を汚してはいけないので塩をまいて土俵上に邪気が入らないように祓い、清めているのだと思う。力士が四股(しこ)を踏むのも、地表の醜(しこ)を踏みつけているということで、かつては力士に四股を踏んでもらい地鎮祭をしていた例もあるという。この意味では、相撲を取る力士はすべて神に恥じない品格は必要である。ましてや、神であることを示す横綱の注連縄をつけ、自らが神として土俵上に上がってくる横綱には、神として崇敬されるだけの品位、品格が必要である。
  前々から朝青龍は強いだけで横綱としての品位、品格がないといわれていたが、20代そこそこの若者を横綱とした後、横綱としての品格、行動がいかにあるべきかを十分に理解させるための指導を怠ってきた協会に問題があると思う。協会は自らを裁き、襟を律すべきである。伝統、格式を重んじつつも、現代の若者の世相に対応できる柔軟な指導方針を確立してほしい。襟を正し、これからの相撲界がいかにあるべきかを今、真剣に検討していないと、閉鎖的な相撲界にあっては、これからも不祥事が続出すると思う。
  私たち修行者は、人を好き嫌いだけで判断するのではなく、非は非、是は是としながら、公平に物事を見ていく精神を育まねばならない。人を裁けば、自らも同じ裁きを受ける覚悟が必要である。

知覧特攻平和会館で絶句

平成19年7月30日のこと
  12:50~14:10、知覧特攻平和会館内に入り、沖縄特攻で散華した1036柱の人たちの写真を見て絶句、こみ上げてくる涙を抑えた。展示してある海底から引き上げられた後部のない戦闘機の残骸、この機は目的を達せず墜落したのだろうか、そのときの特攻隊士の思いはどんなだったのだろうか、言葉が見つからない。17歳からの特攻隊士たちが護国防衛の信念を抱き、片道燃料を積んで米艦隊に肉弾攻撃を行うために、知覧飛行場を飛び立ち、還えらぬ人となった。今の私たちには、そのような信念があるのだろうか。
  特攻隊士の遺書の数々、立派な文章と文字、旅立つ人たちのどこまでも勇ましく前向きの文章に胸打たれる思いであった。有は、数点の遺書を声を出して読んで、「この文字は何と読むの」か、「どういう意味なの」かと何度も聞いていた。教えてはあげたが、果たして納得いく説明ができたのか、そして、有はどこまで理解できたものか。でも、こういう機会に触れることによって、かつて日本が戦争をしたこと、護国の信念を抱いて多くの人たちが戦火に散っていたったこと、その犠牲の上に今日の平和があること、平和の大切さなど、やがて自ら身につけることができれば幸いだと思う。私も父が戦死していなければ、父の元でもっと違った人生を歩いていたかも知れないと思うことがある。それだけに私は、若いときから波乱はあったものの夫婦揃って子を育てる家庭の大事さという気持ちは貫いてきたつもりでいる。
  会館横にある観音堂の「特攻平和観音像」を参拝した。大和法隆寺の夢ちがい観音像を模倣して造像され、像内に特攻者の芳名が記された巻物が収められているという。ここでも声なし。暑い日差しが照りつける。有が、会館前通路の横にある平和釣鐘を撞きたいというので、棒に結び付けられている紐を引っ張って引くのだと教えてやったら、その紐を引っ張って3度鐘を撞いた。この鐘の音、英霊に対するせめてもの鎮魂、合掌。「南無阿弥陀仏」。
 ※画像 は、平和会館展示の海軍零式艦上戦闘機(昭和20年5月鹿児島県甑島の手打港の沖約500m、水深約 35mのところに海没、昭和55年6月に知覧町が引き揚げたもの)。http://www37.tok2.com/home/yaris2320/tokkoheiwa.htm

南洲墓地で示現流による鎮魂を見る 

平成19年7月29日のこと
  14:37~14:50。南洲公園駐車場でバスを下車し、真夏の炎天下の中を少し歩いて南洲墓地に行った。参道左側の石段を上ったところに、明治10年(1877)に勃発した西南の役で西郷軍に加わり戦没、あるいは処刑された人たちの遺骨を葬った墓地がある。ここを「南洲墓地」と称している。明治12年有志により、市内5か所に仮埋葬されていた遺体を、ここ(時宗浄光明寺跡)に集めて改葬し、その後、九州各地に散在していた西郷軍の遺骨を集めて葬ったといい、その数2023体という。西郷南洲(隆盛の雅号)の墓は、彼らに囲まれるように石段の正面中央に建っている。墓前の賽銭箱に賽銭を入れて合掌した。有にも賽銭を渡し賽銭箱に入れさせた。
  その向かって右にある別府景長(晋介の法名か)の墓を見たとき、私の法名と同じ景の文字があったので親密感を感じた。別府晋介は、明治10年9月24日早朝、城山で被弾した西郷の自決に際し、その介錯をした人で、同日岩崎口の戦いで自決した(享年31歳)。同所での戦死者の中には、いとこの桐野利秋(40歳)もいた。私が気に留めているのは、この二人の生誕地が現在の鹿児島市吉野町実方であること。つまり吉野町という地名が、本山のある吉野町と同じだからだ。ただそれだけのことではあるが、同地にある実方神社前の実方公園内に桐野生誕地があり、その200m坂下の実方橋近くに別府生誕地があるという。機会があれば行ってみたいと思う。
  南洲墓地に向かって右奥に「南洲神社」がある。ここは、明治13年に南洲墓地全体の参拝所が設けられたところらしいが、大正11年6月28日、無格社「南洲神社」となった。拝殿前に建つ銘板に刻まれている氏名は、ここに葬られ祀られている人たちの俗名なのだろう。
  西南の役で西郷軍に加わり没した人たちが抱いていたであろう一途な想いは、志半ばで打ち砕かれ無念であったであろう。でも、それから130年の歳月が流れようとしている今日、この墓地が鹿児島市の観光スポットとなり、多くの観光客が次々と訪れているのを見ていると、たとえ戦に破れても、彼ら薩摩人のことは人々の心の中にいつまでも記憶され、ましてや神としても崇められているという意味では没して勝利者となったといえるのかも知れない。西南の役では官軍に属して戦没した多くの将兵もいたはずだが、その人たちの墓地については全く知らない。
  南洲神社石段下の広場で示現流練習会があっていた。この剣法が伝承されているということは、ここ鹿児島には、薩摩人の目的に向かって突進する攻撃一途の心意気が今も生き続けているということ。そして、この場所で示現流の練習を声高らかに行うと、その声は墓地全体に響き渡り、ここに眠る霊魂の鎮魂供養になるであろう。

神域を汚さないように注意しよう

平成19年7月24日のこと
 某神社参道にあるお仮屋の隣に、かつてあった家の主人が自殺し、その子息は気が触れて同家は断絶したと聞いた。また、同所の隣接地は、現在、すべて空き地になっている。お仮屋(神域)を汚す行為があったのか、ご無礼があったのだろうか。このお仮屋は、現在駐車場となっているが、お神様に対してご無礼にはならないのだろうか。
 よく似た話だが、現在某温泉となっている土地に、かつては丘陵があり、その頂上にはT神社の後方に位置する古墳があった。この丘陵でミカン栽培をしていた地主に某業者から賃借の話が持ち上がり、この丘陵を平地にするために削りだしたとき地主の家族に不幸が襲った。また、工事を請け負った業者は、工事担当者に負傷事故が続き、何度も工事が中断し、聖護院修験僧に依頼してお祓いをしてもらったが、倒産した。同地を借りる予定にしていた業者は、事業縮小で契約不履行となった。地主は他の業者に同地を売却、その後、紆余曲折を経て、今は、完全に平地となり、温泉施設が建ち、かつての丘陵の面影は全くない。
 この以前、丘陵の末端部分を削り、蕎麦店を経営した人は自殺して代が絶えた。また神社下で、丘陵の縁を削って飲食店を造営した奥様が突然死した。この丘陵のあった地域全体がかつては神域であり、丘陵上の古墳の主が神社の真の神であったと思われる。神域を考えなしに侵し汚す行為は、今でも神罰があるのではないかと思われるので、慎重にならざるを得ない。

若村麻由美(TV「刺客請負人」出演)の魅力

平成19年7月20日のこと
 女優若村麻由美は、今年4月宗教家の夫と死別後、テレビドラマの配役としては個性的な悪役が多く、ややもするとその美しさを台無しにしているように思えることがあるが、テレビでこの日始まった金曜時代劇「刺客請負人」で演じている女元締め役(闇猫のお吉)は彼女の美しさを本当によく引き出し、輝いている。そして、私は、この女優を見ていると故養母の若いときの面影を思い出すのです。
 ところで、彼女の故夫である宗教家のことですが、釈尊の生まれ代わりといい釈尊会という宗教をされていたらしい。私には、本当に彼がそうだったのかについてはわからない。ただ神仏との交信をする人は、肥満には注意しなければならないと思っている。太ってくると必ず真の神仏との交信(霊感)度が落ちるからです。

松尾大社夏越大祓「茅の輪」の神意

平成19年7月15日のこと
 7月3日、去る6月30日に松尾大社(京都嵐山)で夏越大祓が執行されたが、そのとき祈祷された無病息災厄除けを祈る「茅の輪」が届いたので、いったん松尾大神御神殿にお納めした後、7月8日、外玄関ドア上部(中央部分)に設置した。
 7月14 日、午前6:25、台風4号接近に伴い、外に置いているゴムの木(植木鉢)ほかの植木鉢を玄関内に入れておいた方が良いのではと思い、玄関ドアを開けた。すると、一番先に、玄関ポーチ横に植えている香港カポックの根元に目が行き、同所に玄関ドア上に設置していたはずの「茅の輪」があるのに気づいた。風で揺さぶられて、外れて飛んでいたのである。急いで拾い上げ、玄関内入れた。外は雨が降っていたのに、ほとんど濡れていなかったので、飛んだ直後だったのだと思う。きしくも丁度、この時間に玄関ドアを開けたのは、神がこのことを知らせようとされたからだと思った。
もう少し早い時間にドアを開けたら、まだ飛んでなかっただろうし、もう少し遅く開けたら、雨で濡れてしまって使い物にならなくなってしまっていたか、風でどこかに飛んで行ってしまっていただろう。このことを知らせられた神意のすごさを知り、同時にこの「茅の輪」に大いなる大神の神威がこもっていることを知らされた。
 7月15日、午後1:25、台風4号通過後、前回の設置方法のあまさを反省し、今度は、台風でも飛ばないように工夫をこらして、しっかりと取り付けた。道場に来る人たちは、必ずこの下を通るので、誰もが大神の無病息災の神威を授かることだろう。ありがたいことだ。

2007年8月18日土曜日

博多山笠(追い山)TV中継を観る

平成19年7月15日のこと
 前日午後2時頃、大型で非常に強い台風4号が大隈半島に上陸し、午後5時頃日向灘に抜け四国の南海上を北上した。台風が九州から離れたので、吹き返しの風はあるものの追い山は実施できることになり、櫛田神社(祇園)の神の神威を感じた。ただ強雨は続き、気温も下がっているので、追い山は冷雨の中での実施となった。
 4:15~6:00、NHK-TVで博多山笠の中継を観た。今は観るだけになった。アナウンスによると、博多山笠は766年の伝統があり、清道旗の回りを一周することで山を神に奉納する神事ではあるが、あわせて7つの流れがタイムを競う遊興でもあるという。つまり、重さ1トンの舁き山(山笠)を担ぎ、①「櫛田入り」のタイム(スタート地点の山留めから清道旗を回り出るまで)と、②全コース5kmのタイムで競うのである。
 すべての山笠は、420年前に行われた太閤町割りを基本にした7つの流れという町内組織のいずれかに属している。1番山笠には、博多祝い唄を歌える特権が与えられているが、この唄に1分かかるので、スタート地点の山留めを4:49に出発し、「櫛田入り」のタイムを1分マイナスする。この後、4:55から5分ごとに順次各流れが出発する。
 今年の「櫛田入り」の順序は、①土居流、②大黒流、③東流、④中州流、⑤西流、⑥千代流、⑦恵比寿流。これに加えて番外の⑧上川端飾り山である。なお、今年の櫛田入りタイムのトップは、千代流れ(32秒69)であった。
 一番山笠(土居流れ)が「櫛田入り」した後、番外8番目の飾り山(上川端)が「櫛田入り」を終えるまで、台風4号通過がもたらした強雨の中での走行であったが、櫛田神社境内の桟敷席やその近くの路上で観覧している客は、雨合羽姿で誰もが傘をさしていなかったので、さすがと思った。神に対する敬意の心得だと思う。神は、奉納される山笠を傘を差したりして観てはおられない。山笠の笠は傘に通じるので水に濡れるのは当然のことだろう。  
 「清道旗」は、次の3か所に立っている。
 ①櫛田神社(疫病退散の神を祀る祇園宮がある。なお、境内には松尾宮があり、多は、誕生日がまさに追い山の本番である7月15日で、その神を守り神としているので、ある種の品位才覚と情の強さを兼ね備えているのではないかと思う。戦前には近くに松尾屋という料亭があり、当家は松尾宮の禰宜でもあった)。
 ②東長寺(806年、平安時代弘法大師空海が建立した真言宗別格本山で、神仏混淆時代には櫛田神社をその管理下に置き、住職が櫛田神社の神官を兼ねていた。その歴史を重んじて今も山笠が奉納されているのだという)。
 ③承天寺(1241年、博多で疫病が大流行したとき開祖聖一国師病魔退散の祈祷を行い施餓鬼棚(お供え物の棚)に乗り若者たちに担がせ町中を回わり聖水を撒いた、これが博多山笠の起源となったといわれている。山笠に水をまくのはその聖水の意味もあるのだと思う。また、ここは山笠が回転するもっとも狭い場所でもある)。
 山笠は、この後、御供所町(旧東町筋)の狭い道路に入る。この道筋の先の、旧海岸線部分に約100mほどの急勾配があり、かなりのスピードが出る。大博道路に入ると、道幅が広くなるので頻繁に舁き手が入れ替わることができるものの、進行方向の目標が定めにくいので山笠はかなり蛇行して走る。冷泉町(権藤通り)に入った後、旧西町筋に曲がる狭い交差点(クスリのハカタ第一前)があるが、ここは舁き手の腕の見せ所といわれる。そして、廻り止め(須崎問屋街)までを約30分で駆け抜け終点となる。
 なお、飾り山には、よく川中島の決戦が題材にされるものの、どういうわけか舁き山に武田信玄を作ると不吉というジンクスがある。博多山笠の流れのもとになる太閤町割りを作った豊臣秀吉(西流れに属する奈良屋町にある豊国神社の祭神)に滅亡させられた武田勝頼(信玄の子)の怨念があるのであろうか。3月に9年勤められた西流の人形師の急死は悼まれる。

2007年8月17日金曜日

仏壇の掃除は自家の者でしよう

 平成19年7月8日のこと
 朝、曇り、時々太陽が顔をのぞかせていたが、昼を待たずまた雨になった。
 11:00 この日の供養のために帰省したBが車で迎えに来た。
なかなか道場を出発できなかったのでおかしいなと思って、何気なく暦を見たら仏滅だった。だから、なかなかお神様が腰を上げてくれないのだと分かったが、事前に、この日にご供養を行うことをお尋ねしたときは、即了解をいただいたので、その時間が来るのを待つことにした。
 そうしているうちに多が突然「午後2時に暦が大安に変わる」と言ったので、見切り発車で12時50分に出発した。そのとおり、午後2時、私たちを追いかけるようにお神様が到着され、C家仏壇供養を執行できた。
 仏壇供養に際して、本尊前の香炉に線香を入れただけではこと足らず、豆蝋燭を入れて火をつけた。香炉の中で蝋燭が燃え尽きるまで蝋燭の炎が上がっていた。今までの仏壇供養でこんなことをしたのは初めてで、仏壇の不浄祓いをされているだと分かった。
 なぜ仏壇が穢れているのか分からなかったが、後で、仏壇屋さんに頼んで仏壇の掃除をしてもらっていたことが分かり、なるほどと思った。その仏壇屋がどこかの不浄を連れてきたのだろう。どうも同家は、大事なことをお尋ねせずに行い空回りしているところがあるようだ。また当主は、今年も同家の子孫繁栄をもたらす仏壇供養に参加しておらず、今ひとつそのことが進まないのが残念である。15:20終了。

新妻聖子のサド侯爵夫人ルネ

平成19年6月29日のこと
 NHK・BS2深夜放送でサド侯爵夫人(三島由紀夫原作の戯曲)の劇場中継録画を見た。蛇のように巻いた長い髪形をして、母モントルイユ夫人(剣幸)に対し激しい言葉を浴びせ、憎憎しいほどすばらしい演技をしている女性がサド侯爵夫人「ルネ」を演じる新妻聖子です。
 ルネは、役の上では貞淑な妻ですが、既に第1幕において母モントルイユ夫人に対し激しい口調で「良人が悪徳の怪物だったら、こちらも貞淑の怪物にならなければ」と発する言葉を聞くと貞淑とは何かと戸惑い驚かされてしまいます。第3幕で悪徳の怪物サド侯爵が牢獄から解放され城に戻ってきたとき、貞淑の怪物たるルネが、侯爵の入城を断固として拒否する言葉を発し終幕します。何とも説明のつかない思いが心の中を渦巻き、それでいて感動する、ミュージカルとは全く違った感動のあるすばらしい台詞戯曲だと思う。私たちが普段口にしている愛、貞淑、悪徳、傲慢、品位、社会的立場、道徳等等、この戯曲を見ていて何が正しいのかと考えさせられることが多い。ぜひ機会があったら見ていただきたいと思い、ここに掲載しました。
 ところで実は、私は、このミュージカル女優新妻聖子のブログをいつも見ている隠れたファンなのです。今年は、元旦に、TV「堀部安兵衛」で伊佐子役で出演していた彼女を見たので、ついてると思ったくらいです。最近では、ダブルキャストではありますが、9月4日博多座開演のLes Miserables(レ・ミゼラブル)のエボニーヌ役で出演すると聞いています。私は、ミュージカル界のシンデレラガールといわれている彼女にエールを送りたい。

無縁仏が応援している

平成19年6月29日のこと
 A氏が道場に参拝にきたときのこと、道場で同家先祖の霊供養を行い、念仏を唱えているとき、私の手が勝手に動き何度も大徳寺銅輪(鐘)を打ち鳴らしたので、鳴らした私自身が不思議に思っていたが、「鳴らした鐘の数と同数の無縁仏がA氏についてきた、今、その供養をしている」のだということが分かった。
 さらに「A氏の家の中を通る多数の無縁仏がおり、その中には、邪魔(金縛りなど)をするものもいるが、祈祷された好文木の香りを受け、お経を聞き、成仏していくものもおり、これらは、A氏を公私にわたり応援をしている」ということが分かった。今まで、無縁仏は、いかにして祓えばよいのかを決めて祓うべき、祓えないときは敷地内にお地蔵様を安置して供養する、通過する無縁仏には迂回路を作ってやる等の方法があると思っていたが、そればかりではなかったようである。改めてこれまでの修行のなかで見聞したことを思い返していたら、かつて故中野晃道師(八女市祈祷院)が信者が持ち込んだ魑魅魍魎と思えるものを祓わず、そのまま居間で預かり供養を行い、逆に師自身がそれらに守られているのを見たことがあった。これとよく似たケースであった。
 A氏は、長男が帰省したとき「この家は得体の知れない騒々しさがありよく眠れない」と言って泊まりたがらないので、「この家を人に貸して、自分はアパートを借りた方が良いのではないかと思っている」と言われたが、霊的には、今は、邪魔をしている無縁仏は少なく、むしろ応援をしており、移転すべきではない。
 無縁仏を供養し、無縁仏に応援させるほどの力を持っている祈祷済み好文木の香の力を改めて教えられた感じがする。

護身乃柵が瞬間移動

平成19年6月28日のこと
 久しぶりにF氏に会ったとき、F氏が話されたことだが、福岡市で就職が決まり移転したとき、心境の変化があり、いつも持ち歩いていた護身乃柵(自分の三世を守護する一生のお守り)を実家に置いてきたという。
 その際、護身乃柵を箱に入れ、誰にも分からないように、自分の部屋のタンスの奥にしまいこんだ。ところが、先日実家に帰り、仏壇を見たら、その護身乃柵が仏壇の中に立てかけてあったのでビックリした。あわててタンスを開けたら、箱だけが残っていた。意味がわからず、母に尋ねたら「触ってない」と言われ、父は「俺がお前のタンスなど開けるはずがない」と言われた。その両親も、いつからその護身乃柵が仏壇にあったのかについては全く記憶がないという。いくら考えても自分で仏壇に置くはずがなく、不思議で仕方なく、皆が分からない間に護身乃柵が瞬間移動したとしか考えられないと話していた。
 瞬間移動については、私も数回経験している。近年では、K病院で、自動販売機で買った缶コーヒーを休憩室のテーブルに置き、椅子に座り、飲もうと思い手を伸ばそうとしたら、たった今置いたばかりの缶コーヒーがなくなっており、同じテーブルに座っていた3人(他には誰もいなかった)を巻き込み大騒ぎになったことがある。皆で探した結果、その部屋の奥の窓の近くにあった。この場にいた誰もが行くはずのない場所で、瞬間移動したとしか説明がつかなかった。後で分かったことだが、その窓の外にある建物は霊安室だった。霊が飲みたくて引っ張ったのだろうか。
 この例をみてもわかるように、F氏の話は、勘違いや作り話ではなく、護身乃柵がタンスの中から仏壇に瞬間移動したことに間違いなく、このことを通じてこの護身乃柵には、氏を守るご先祖の魂も入っている、ということを教えられているのである。きっと御守護霊が、タンスの奥にしまっておくようなものではない、持ち歩いた方が良い、と言われているのである。「今度実家に帰ったら必ずもって持ってきます」と言われた。護身乃柵は、1人で生活しているF氏をきっと守ってくれると思う。ありがたいことだ。