2007年9月28日金曜日

護身乃柵の自然汚濁は身代わり

  9月14日に手持ちの護身乃柵の供養替えを頼まれていた人の新しい護身乃柵が金峯山寺から届いたので送った。この供養替え書を金峯山寺送ったのは18日で、その間、直筆の氏名を前にしてこの人の清浄祈祷を行っていた。供養替えを行うようにと勧めるためにこの人に会ったのは、9月5日のことで、その日のことを個人情報に抵触しない範囲で若干紹介しよう。
□  この人が先に持っていた護身乃柵は、水気のあるところに持っていった覚えはないのに、梵字の印刷が汗をかいたように流れていた。観音像も擦り切れたように色が剥げ落ちていた。柵が汗をかくほど、この人の知らないところで起きようとしていた危険から身を守ってもらっていた。つまり、この人は職場や家、友人等の悪因縁を知らない間に吸収していたが、そのたび護身の柵が、その危険を吸収し身代わりになってくれていた。そのために汚れが激しくなりすぎていたので新しいものと替えることにされたのであった。
□  この人が「(小学館発行の)金峯山寺の雑誌を見て、行きたいと思った」と言われたので、「行かれるときは、ただ行くのではなく、得度をされた方がよい」と答えた。それは、この人が、立派な先祖のご守護霊をいただいておられたからで、この人は、信仰と得度により人生の流れが変わり運が開ける人であると思ったからである。立派なご守護霊をお持ちゆえに、悪因縁にすがられ、吸収しやすい面もあり、そのつど護身乃柵が身代わりになってくれたところもあるが、機会があれば、いろいろ自らの信仰や供養法の話を伝えてあげたいと思った。
□  護身乃柵を開いて自室の浄化をする一つの方法を教えた。十三仏の13、六道輪廻の6、先祖の5、三世の3で好文木供養を行い、9回の真言で苦を消す。なお、この説明をしているときに書いた「メモ用紙」を、乗用車で帰宅中に運転座席横の隙間に落とし、回収するのを忘れていたら、夜になって激しい頭痛がしだした。そのメモのことを思い出し、懐中電灯で車の座席下など照らして探したが、どうしても見つからず、あきらめて鎮痛薬を飲んで寝たほどであった。説明をしているときにメモに魂が入り、そのメモを車の中に忘れたまま放置していたので、神の注意が入ったのであった。翌朝、多が見つけ無事回収した。ついでながら多には遺失物を見つけ出す能力が備わっていると思うことがある。

麻生太郎衆院議員の陰徳

平成19年9月23日のこと
  9/12に安倍総理が辞任表明、自民党後継総裁選びが始まった。自民党福岡県連(会長新宮県議)は、「県連票3票を福岡県の麻生太郎に投じる」ことを表明した。ところが同じく福岡県選出衆院議員の古賀誠、山崎拓ら6議員が福田康夫を支持し、県連決定に異議を唱えたため県連内に混乱が起きた。私は、「福岡県から総裁を」と動いた県連の麻生支持表明は間違っていなかったと思う。投票の結果、麻生は破れたが予想以上の善戦をした。
  私は、麻生議員と直接言葉を交わしたことはないし、議員が私のことなど知る由もなく、麻生指示云々を論ずる者でもないが、ただ、22年前の8月26日、私の亡養母が麻生飯塚病院で手術後、死亡したとき、飯塚市吉原町の私の実家で行ったお通夜に麻生議員夫妻が来られた。私の育ての親永露政夫とのつながりでとは思うが、お通夜に来てもらったということに対する感謝の気持ちは今も持ち続けている。見えないところで感謝している人がいるということは、麻生議員の陰徳であると思う。
  麻生議員が、総裁選に敗れても「負けた気がしない」と言ったのは、予想以上の得票を得ていたからである。これも麻生議員が積んだ陰徳のお陰だと思う。

2007年9月25日火曜日

花鳥花瓶の鶯飛び立つ

平成19年9月17日のこと  
  9月9日重陽の節句の日に、仏壇に置いていた花鳥模様の花瓶一対がともに水漏れしたので、新たな花鳥花瓶を発注していたが、本日その花瓶が届いた。
  この新しい花瓶と入れ替えるとき、小4の有が、水漏れした方の花瓶を手にして彫りこまれている絵柄を見ながら、「この花は梅だから、この鳥は鶯だね」と言った。そういえばそうで、今まで考えてみたこともなかったなと思った。さらに、私が「この花瓶は仏具店に引き取ってもらう」と言うと、「鳥は、飛ぶものだから、ここでじっとしているより羽ばたいて飛び立つほうがいいよ。この鶯は、今から飛び立って行くんだね。」と口にした。とにかく有のこういった突拍子もない発言に驚かされ、かつすばらしい発想をすると思うことがある。
  この言葉を聴いて、長い間、仏壇を輝かしてくれたスマートな絵柄の花鳥花瓶に感謝の合掌をして送りだすことができた。これからは、少し絵柄の大きな新世代の花鳥花瓶が新たな光明を輝かしてくれるものと思った。

美奈宜神社旧宮跡と柘植の木

平成19年9月16日のこと
  先ほどこの山際の道を3度通ったが、かつて訪れたことのある旧宮跡を見つけることが出来なかった。しかし、旧宮跡は、この道沿いにどこかにあると確信し、今度はかなり慎重になった。旧宮跡を探す目印としていたのは、大きな「柘植の木」だった。しかし、その「柘植の木」を見つけることが出来なかった。
  初めて旧宮に行き着いた日から既に10年以上の歳月が経っている。その日、私はこの下方にある農道から、傾斜地の上にある山林を見上げていた。そして、霊的な光を発している山林のある一点に目が留まり、そこに何があるのかと確めようと思った。その前面の傾斜地には、畑のほか雑種地や藪が立ちはだかっていたが、はやる気持ちを抑えることが出来ず直登した。雑草を掻き分け、泥や埃をかぶりながら、最後の段差を登りつめたとき初めて、山際を登る道があることに気づいた。
  目指した土地は、この道路から一段高い位置にあり、三方を樹木に囲まれた平らで明るい叢であった。神社の「社」というようなものはなかったが、この叢の奥に傘を広げたような美しい形をした1本の大きな「柘植の木」が立っているのに目が留まった。この木が御神体か、神の依代で、霊的な光はここから出ていたのだと確信した。そして、感動のあまり合掌した。この地が旧宮跡であった。現在は、私が駆け登った傾斜地には住宅が建ち並び、視界はきかなくなっている。
  台風11号の影響下にある雨が降り出した。もし今日行き着かなかったら日を改めて出直そうと思った。そう思った途端、林の中に小さな木造の「社」らしきものが目に入った。しかし、旧宮地は、こんな場所ではないと思った。傘を差したまま、半信半疑で、その林を覗きこんだ。どう見てもこの建物は「社」なので、辺りを見回したら、その左手前に「旧宮跡」と記された石碑が立っているが分かった。ここが旧宮跡に間違いなさそうだ。お神酒とお念珠を手にして、雨に濡れた叢を踏んで林の中に入った。
  この叢を抜けると、その先は傾斜した土の地面で、その中に「社」が建っている。四方が杉林に囲まれているためか暗い。「柘植の木」が見当たらない。探しているうちに、やっと社の左にある樹木がそれであると気づいた。幹が以前より高く伸び、枝が開きすぎて、傘の形とはいえなくなっていたので、すぐにそれとは気づかなかった。さらに、こんなに位置に立っていただろうかと首をかしげた。また道路から見えなかったのは、道際にある杉が、「柘植の木」の前に覆いかぶさるように立っているため、その陰に隠れてしまっていたからであった。
  「社」は、道路側を向いて、人が立って拝める高さに建てられているが、この「社」を見ていて一気に疑問が噴出した。この地に「社」を建てる必要があったのか、また、とどうしてこの位置に「社」を建てたのか。この下に、銅剣が埋まっていたのであろうか。「社」のなかに手で持てるくらい石が数個置かれているが、この石は何なのか。この「社」があるために神聖さが失われているような感じを抱いた。お神酒を社の周りにまいているとき、「社」の後方に、丸みのある自然石を並べた墓場があるのに気づいた。以前の私の記憶にはない。あまりの変わりように驚かされるだばかりであった。
  しかし、お神酒をまき終え、この場を後にしだしたとき、一瞬いずこからともしれず神の霊気を感じたが、そのまま立去ったため、後で何か割り切れないような気持ちが残った。照見行脚、正見行脚の機会が再度訪れることを祈る。

2007年9月16日日曜日

ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観劇(博多座)

平成19年9月11日のこと
  昼(13:00~)の公演を観劇した。「レ・ミゼラブル」の舞台は、フランンス革命前夜の頃(1815~1832年)となっている。
  主役ジャンバル・ジャン(別所哲也)が仮釈放されるときの牢獄での暗い情景で幕開けする。暗い照明の中で劇場全体に立体音響で響き渡る歌唱力のすばらしさ。しかし、舞台の光景はどこまでも暗い。教会で金の食器を盗むが、司教は金の燭台も持って行けと渡す。この司教が行動で示した基督教の愛と救い、この教えが物語の全編を構成しているのだと思う。
  8年後の場面は、仮釈放の身で逃走しマドレーヌと名前を変え、市長となったジャンバル・ジャンが経営する工場で働いていたファンテーヌ(渚あき)の演技を中心に進行する。工場を追われた彼女は、娼婦となり病に倒れて、ジャンバル・ジャンに救われるが、病状は悪化し一人娘コゼットの養育をジャンバル・ジャンに頼み息絶える。なお、ジャンバル・ジャンを追うジャベール警部(岡幸二郎)の追跡は最後の場面まで続く。 ジャンバル・ジャンは、意地悪な宿屋のテナルディ(徳井優)とその妻(瀬戸内美八)の元で囲われていたコゼットを、夫妻に金を払って引き取り、男手ひとつで育てる。夫妻の娘エポニーヌもコゼットをいじめていた。
  それから9年後、成長したエポニーヌ(笹本玲奈)とコゼット(菊地美香)がともに慕う革命派の学生マリウス(藤岡正明)を巡って物語が展開する。マリウスに対する恋心を抑えてマリウスとコゼットの恋の橋渡をし銃弾に倒れ命を落とすエポニーヌの演技がこの章の最大の見せ場となる。その後、ジャンバル・ジャンは、同じく銃弾を受け重症となったマリウスを助け、コゼットとマリウスが結ばれるのを見届け、二人の愛につつまれたなかで逃走の人生の幕を閉じる。
  このミュージカルの展開については、子供のときに翻訳小説「ああ無情」を読んでいたので違和感はなかったものの、「レ・ミゼラブル(惨めな々)」という題名のとおり、全編に亘り、夜、牢獄、窃盗、逃走、秘密、女の争い、娼婦、病気、失業者、ぼろ着、窃盗、革命戦闘、死などを交えて、惨めな人々の姿、生き様を描いており、どこまでも暗かった。物語の暗さにあわせるように舞台照明も暗く、イキイキわくわくというような夢、希望、感動を求めることはできなかった。確かに、この物語のテーマは、愛と希望であるが、それは悲劇や惨めさの裏返しにあるものだと言われているように思えた。たが、全編台詞は歌唱のみで、それぞれの配役の歌唱力のすばらしさには感動した。
  毎回の配役はダブルキャストだが、今回出演者のプロフィルは次のとおり。別所哲也(42歳)は、司会、声優、俳優などジャンルが広い。渚あき(38歳)は、かつての宝塚星組の娘役トップスター (2001~2003.3)、細身の体つきの、か弱い感じが、ファンテーヌ役に似合っていた。岡幸二郎(40歳)は、福岡県出身で劇団四季の主要メンバー、背が高く人気がある。徳井優(48歳)は、引越しのサカイのひょうきんなCMであまりにも有名である。悪辣な宿屋の主人、そして没落した窃盗犯を面白おかしく演じて舞台を大いに盛り上げていた。瀬戸内美八(60歳)は、往年の宝塚ファンなら知っている昭和54年代の宝塚星組男役のトップスターで、60歳とは思えぬ若さと美貌と活力を今も有している。笹本玲奈(22歳)は、1998~2002年の5代目ピーターパン。菊地美香(23歳)は、2000年公演のミュージカルアニーのジャネット役でデビュー。藤岡正明(24歳)は、ミュージシャン。
  なお、新妻聖子(26歳、愛知県稲沢市、上智大学出身、ミュージカルのシンデデラといわれる)、知念里奈(26歳、沖縄出身)と笹本玲奈が交代で演じているエポニーヌ役は、この回は笹本玲奈だったが、実は、かねがね私は、新妻聖子の演じるエポニーヌ役を見たいと思っていたので、少し残念だった。こういったことはタイミングの問題である。でも、入手したいと思っていた新妻聖子の2枚のCDを、ここで購入することができたので満足だった。
  この新妻聖子の2枚のCD(各1,260円)を紹介する。①「新妻聖子夢の翼」(NHK「純情きらり」挿入歌)。01. 夢の翼、02.どこまでも青空、03. 夢の翼(Instrumental) 、04. どこまでも青空(Instrumental)。②「愛をとめないで~Always Loving You」(NHK「陽炎の辻~居眠り 磐音江戸双紙~」主題歌)。01. 愛をとめないで~Always Loving You~、02.ガラスのうさぎunplugged~、03. 愛をとめないで~Always Loving You~(Instrumental) 、04. ガラスのうさぎ~unplugged~(Instrumental)。

2007年9月11日火曜日

「花鳥花瓶」1対の水漏れの意味

  今夏は、猛暑で、仏壇に置いている「花鳥五具足」のうちの、二つの花鳥花瓶に活けた生花が長持ちしないので、水を入れずにドライフラワーを活けたりすることもあった。
  9月9日朝は、菊の生花を活けた。そして、香が日常勤行をしたとき、花瓶を置いている下壇の引き出しに敷いている金襴耐火板が水びたしになっていることに気づいた。さらに、溢れた水は、その下壇に置いている過去帳の表紙をも濡らしていた。
  あわてて花瓶をひいて調べたところ、対の花瓶の二つとも水漏れを起こしていた。肉眼ではどこに穴が開いているかはわからないが、水を入れずに使用したりしていたので、花瓶の底の溶接部分が腐食し、ちょっと見たくらいでは分からないくらいの隙間ができているのではないかと思う。急いでこの花鳥花瓶と同じ大きさのものを1対注文した。納品されるまでの間、またドライフラワーを入れておくことにした。
  翌日、知人から電話があり、「会社を退職しました、11月に先生を郷里に招待しますと言ってましたが延期させてください」と言われた。昨日花瓶の水漏れがあったとき、なぜか、この人のことが脳裏に浮かんでいた。11という数字の形は1対を表しており、この水漏れの意味は「今、脳裏に浮かんだ人と交わした11月の予定は水に流れる」というお知らせだった。また、花瓶の底抜けは、この人が会社から抜け落ちたというお知らせだが、新しい花瓶を買い替えると、すぐに新しい会社に転職、活路が開けるということのお知らせでもあった。
  私は、この人は今の会社で最後にとても価値のある仕事されたのではないかと思い、その仕事のマニュアルを大事にしておくようにと言った。その意味をすぐに理解されたようで、「よい仕事をさせてもらいました、その仕事をしてた得たノウハウが先生の役にも立つようでしたら役立てたい」と言われた。11月の旅は延期されたものの、この人からそれに代わる新知識を頂くのかも知れない。

2007年9月9日日曜日

蒙古塚供養塔再建の記事を見て29年前を思い出す

  毎日新聞の「雑記帳」蘭に「蒙古塚供養塔再建」の記事が載っていた。その記事には「鎌倉時代の元寇で戦死した元軍の兵士を慰霊する福岡市・志賀島の蒙古塚で8日、05年の福岡沖玄海地震で倒壊した供養塔が約2年ぶりに再建された。かつての供養塔は1927年、政財界と宗教界の協力で建立。今回は塔を管理する同市中央区の勝立寺(坂本勝成住職)が檀家約300人の募金で再建した。安全面から塔を移動させ、硬い地下岩盤にしっかり固定させた。神風に地震と元寇の霊も災難続きだが、これで当分は大丈夫と関係者は安堵の表情?竹花周」と書かれていた。
  この記事を読んでいて、かつて一度だけ当地に行ったときのことを思い出した。それは、1978(昭和53)年5月28日のことで、29年も前のことだが、なぜか鮮明に覚えている。その日、妻と小学1年生になったばかりの長女を連れて、志賀島の万葉歌碑巡りをした。確か同島の西南端の海岸近くに置かれた横長の大岩に筑紫豊氏の筆で刻まれた第6号歌碑「志賀のあまの塩焼く煙風をいたみ立ちは昇らず山にたなびく」を見学したついでに、その上方にある蒙古塚の丘を登り、頂上に建っている蒙古軍供養塔(石碑)を見た。上記の記事にある「かつての供養塔」のことである。この供養塔が2年前の地震で倒壊していたとは知らなかった。小さな五輪塔も数個あったと思う。
  その日は、快晴で、春陽の照りつけるすごく暖かい日だったが、当地に着いた途端、なぜかわからないが、ここにはおれないと思って、あわてて登ってきた坂道を引き返した。その後、急に元気だった長女の顔色が青ざめて発熱した。熱冷ましを飲ませる等の応急処置を施したら治まったものの、当時何が起きたのか原因がわからなかった。このような状況を起こした原因が憑依霊によるものではなかったのかと思ったのは、随分後になってのこと。同島出身の人たちに、この話をしたとき、「親から、あそこは怖いところだから近づいたらいけないと言われていた」「地元の人は怖がって誰も行かない」「夜になると火の玉が飛ぶ」などと言われたのを聞いてであった。以来、今日まで一度も当地に足を運んだことはなく、当地の現状は知らない。
  それにしても、この「元寇の霊」というのが、1281年の第2回元寇「弘安の役」のものであったら、726年も前の霊ということになり、このように長い年月を経ても浮かばれないでいるということになる。上記の記事を読んでいて、その苦しみ、望郷の念を断ち切る成仏供養が現在も勝立寺とその檀家の人たちの間で続けられているのではないかということが想像でき畏敬に思う。当地に足を運ぶことすら止めた私にはとてもできないことだ。

2007年9月3日月曜日

ゴーヤー雌花13輪開花と赤蜻蛉の飛来

平成19年9月2日のこと
  6月3日に、北庭畑に植えた1本の「ゴーヤー(ツルベイシ・ニガウリ)の苗が成長し、6月29日から開花が始まった。しかし、その後1か月近くたっても、そのすべてが雄花だったので、今年は雌花は咲かないのではないのかと思っていた。
  しかるに、7月27日に至り、あきらめかけていた雌花の第1輪が開花、同時に第2輪も開花していたので小躍りして喜んだ。この2輪の実は、成長して8月16日に採取した。続いて8月2日第3輪、8月5日第4輪が開花。8月26日採取、これで今夏の雌花開花は終わったと思っていた。
  ところが、8月28日第5・6輪が咲き、続いて9月2日、雷雨のなかで第7~13輪が一斉開花した。現在開花中の雌花はこの9輪であるが、これまでの開花は合わせて13輪である。残暑の厳しさの中で、このうち何個の実が成長するのかが楽しみである。
  嬉しかったのは、今夏の猛暑のなかで、13仏に通じる13輪の雌花が咲いたことである。その上を、雷雨の合間をかいくぐって飛んできた赤蜻蛉(とんぼ)が二匹舞っていた。まるで13仏の心の宿る13輪の雌花開花をめでているように思えた。北庭では、赤蜻蛉は、毎年盂蘭盆前後に舞うが、9月に入っての飛来は珍しい。
  この赤蜻蛉は、北庭から東正面に眺望できる神霊山「若杉山」から神の霊気を身につけて山を下り、折からの激しい雷雨の降るなかをめげずに、13仏供養のために飛来したのではないのか。この2匹の蜻蛉は、それぞれ、北庭で開花している黄色コスモスの茎にとまって夜を明かした。
  なお、戦国時代、武士が武具に蜻蛉文様を多く用いたというが、目的地に向かって霊山を飛び立つ、この蜻蛉の霊力の強さを当時の武士が敏感に感じ取っていたのではないのか。

2007年9月2日日曜日

「陽炎の辻」主題歌の歌手は新妻聖子

  平成19年8月30日のこと 。毎週木曜、NHK総合テレビ第1で午後8時放映の木曜時代劇「陽炎の辻~居眠り磐音江戸双紙~」<山本隆史(坂崎磐音役)主演、中越典子(おこん役)助演>を見ているが、主題歌「愛をとめない~Always Loving You~」(作詞岩里祐徳、作曲佐藤直紀)のメロディが流れると、そのメロディと歌詞がシックで聴くたびに心が癒されていた。
  また、その哀愁を誘うような素敵な歌声にも聴き惚れていたが、この歌手が誰かとまでは考えていなかった。そして、この日、思わず「あっ!」と叫んだ。いつものようにこの歌を聴いていて、歌っている歌手が新妻聖子であることに気づいたからだった。まったく新妻聖子の隠れたファンだと自負しておりながら何たる失態かと思った。

金峯山寺で32年ぶりの八千枚護摩修法

平成19年8月30日のこと
  金峯山寺から届いた「八千枚護摩供修行・祈願者勧募」の案内を読んでいて少なからず驚愕しました。大峯千日回峰行を達成した大行満大阿闍梨・柳澤眞悟金峯山寺副住職(成就院住職)が、「八千枚護摩」を発願され、既に8月27日から前行に入られているいうことです。
  この「八千枚護摩」を修法するには、まず自らの心身を精進潔斎するために100日間に亘る「前行」を修しなければなりません。この前行では、塩と五穀(米・麦・大豆・小豆・芥子又は胡麻)を断ち、その間毎日、三座、つまり夕(初夜<そや>)、早朝(後夜<ごや>)、昼(日中)に「不動明王立印供(りゅういんく)」を修法する三百座修法を行います。まさに死を向かい合わせの命がけの「捨身の行」が、この前行の段階から始まります。この苦行は、護摩木に願いごとを書いて祈願する人たち(衆生)に代わって修法者が苦しみを受けるという意味もあり、「代受苦(だいじゅく)行」とも謂れます。
  前行が終わった後、引き続き12月4日午後1時から5日午前10時間での一昼夜、断食、断水をした状態のなかで、世界平和と護摩木祈願者の願いごと成就を祈念して、八千枚を超える祈願護摩木を梵焼し続けることになります。
  この行は、昭和51年五條順教管長が達成され、私は、誰にでもできるような行ではない行を達成されたことに対し畏敬と感動を覚えたものでした。この感動は、それから31年経った現在も私の心の中では生き続け、昨日のことのように覚えています。なぜなら、この感動こそが、私が修験の行者としての道を選ぶべく金峯山寺で得度(昭和55年1月)をするきっかけとなったことだったからです。このときの管長の心境は、「修験道の心(朱鷺書房)昭和58年3月刊」に著されてありますが、それ以来、誰もが行じたこのなかったこの「八千枚護摩」を、今、柳澤眞悟師が発願、実修されていることを知り驚きに耐えません。
  得度の年の7月、まだ若かった私が初めて新客として大峯山蓮華奉献峰入りに参加したとき、丁度、柳澤師は千日回峯行の最中で、早朝、ほぼ同時に蔵王堂を出発したのに、一瞬のうちに師の姿が参道の闇の彼方に消え去ったのを目にしました。また私たちがやっとの思いで西の覗きを目指して登っているとき、その遥か手前で、山上蔵王堂参拝を終え下山されている師とすれ違いました。私たちの先頭にいる奉行が「行者さんが下りてこられる、道を開けろー」と叫ばれた声を耳にし、柳澤師の下山進路を阻まないようにと山縁に身を寄せた瞬間、師が疾風のように目前を駆け下りて行かれた。何という速さ、一瞬これが忍者というものかと思ったほどの速さでした。当時、私は山歩きは早いと自負していましたが、とても私の及ぶところではありませんでした。
  金峯山寺で千日回峯行を行満された行者は、この柳澤眞悟師のほかには塩沼亮潤師(仙台大伽藍)だけしかおらず、それだけでも大変な未踏の行の達成者であったのに、今また、ここにきて柳澤師はさらなる苦行に挑戦されたのです。柳澤師の成就を祈り、9月の権現供養会で陰ながら八千枚護摩成就の祈念をさせていたきます。
  この「八千枚護摩」は、古来より密教秘伝の「不動明王立印供深秘(りゅういんくじんぴ)」の秘法とされ、また、この「八千枚護摩」の「八」の文字は、その形からして「末広がり」で、開運を象徴する吉祥、吉数の意味が付加されています。なかなかこういう有り得ない縁に巡り合えるということ自体が、まさに有り難く幸せなことです。この有り難い縁を授かる護摩木の勧募に応じましょう。
 ※画像は、八千枚護摩修法中の柳澤眞吾師、http://www.kinpusen.or.jp/event/8000/8000.htm

2007年9月1日土曜日

「金峯山寺」の本を小学館と朝日新聞社が発刊

平成19年8月29日のこと
 某様から次の文面の手紙が届いた。
 「古寺を巡る金峯山寺の本を読みました。この本を求めるために本屋に行ったとき、朝日新聞社からも同じような金峯山寺の本が出版されていたので思わず購入してしまいました。これらの本を読んであらためてありがたい気持ちになりました。護身乃柵を持っているTさんにも見せたら同じようなことを言ってました。子供がもう少し大きくなったら桜や紅葉の季節に吉野山に行ってみたいと思っています。」
  この「古寺を巡る金峯山寺」という本は、「小学館ウィークリーブック・週刊古寺を巡る21・金峯山寺」のことである。日本の古寺を50冊の本で紹介したなかの一冊で、教えや美術品、歴史等を豊富な写真を挿入して説明してある。表紙には、秘仏「蔵王権現」の上半身の写真が掲載され、そのいかめしくも慈悲に溢れるお顔がひときわ目を引く。全山が御神木である桜で覆われる修験道の聖地吉野山、そして熊野までの大峯奥駈修行の路等わかりやすく紹介されている。
  また「朝日新聞社からも」と書いておられる本は、「朝日ビジュアルシリーズ・週刊仏教新発見06・金峯山寺」のことである。日本にある七万五千以上あるお寺の中から有名寺院30寺院を選び紹介したなかの一冊で、伽藍などの建造物や仏像、仏画、風景、歴史、行事などの謎と不思議を豊富な写真とともに新発見として紹介されている。表紙には、ほぼ全身に近い秘仏蔵王権現の写真が掲載されており、合掌せずにはとても手にすることができないほどのものである。確かに某様が「桜や紅葉の季節に吉野山に行ってみたい」といわれるように、桜、そして紅葉の中に埋もれるように聳え立つ金峯山寺の本堂蔵王堂の写真はすばらしい。五條順教の一言法話もある。
  この二冊をそろえると、修験道と山伏、修験の聖地吉野山、総本山金峯山・本堂蔵王堂と本尊蔵王権現、開祖役小角、大峯奥駈、大峰山の護持院等の概要がわかる。