2007年6月5日火曜日

工芸社長の祥月命日に消息を知る

平成19年6月3日のこと
 理容店で整髪中、突然眠気に襲われた。うつらうつらしながら顔毛をそってもらっているとき、ふとこの近くに住んでいた工芸社長のことが思い浮かんできた。どうしても気になって仕方がなかったので、店主にに聞いてみた。
 店主は、突然なぜ彼のことを聞きだしたのかと怪訝な顔をされたが、「今年の1月3日に亡くなったよ」と言われた。深酒のしすぎによる急死だという。その数日前に、普段あまり話をしたことのない彼が珍しく理髪店主の奥様に声をかけ世間話をしていたらしい。やはり、先ほど突然眠気に襲われ彼のことが脳裏に浮かんだのは、彼がお別れに来ていたからだった。
 きしくも今日は3日で、6か月目の祥月命日に当たる日に、その逝去の話を聞くことになったのも不思議である。「かつて縁のあった人なので線香を立ててあげよ」というお知らせでもあった。少なくとも20年以上は会っておらず、私より2歳年上だったが、私の脳裏に浮かんできた彼の姿は若いときのままであった。
 なお、彼の弟とは修験道の同門ではあったが、今から10年以上前に豊後竹田市で行われた管長導師による第2回岡城跡採灯大護摩供(豊後竹田市)のときに同宿して以後会っていない。同門との照見行脚・正見行脚の修行も断ち切り、かつての記憶も遠くなっている。この10年近く神ごとに対して、迅速に動けないる自分がいる。神は、はやる自分を、まだその時期にあらずとして抑えられたのであろうか。これもまた苦しい修行である。
 整髪を終え、道場で彼の供養のために香を立てた。ご冥福を祈る。

立ち枯れモミジの身代わり

平成19年6月3日
 一昨年秋、南庭の中央部分にある背の高いモミジの紅葉が終わった後、幹の各所にかなり虫食いの跡があるのに気づいた。それても昨年春にはたくさん葉をつけた。しかし、秋になって、葉はきれいに紅葉しないままちじれるように枯れ、しかもその枯葉も自力で飛び散ることもできなかったので、松葉箒で落とした。
 今春、新緑の季節を迎えても一向に新葉が出る様子がなかった。もう枯れ木になってしまったかと思っていたとき、4月14日、二股になっていた幹のうち、居間から見て左側の幹に新葉が出たのでホッとした。だが右側の幹からは出ず、その枝の一部が赤くなり枯れだしたので、5月4日幹の中途で伐採した。
 しかし、6月に入り瞬く間に、せっかく出ていた左側の新葉が全部枯れてしまった。枯葉は、やはり自力で飛び散ることができず、枯葉をつけたまま立ち枯れの樹木となり、何とも無残な姿を呈していたので、お神酒と神塩をまきかけて樹霊に祈り、根ごと引き抜いた。今年、幹の虫食いに必至に耐えて新葉を出したのであろうが、新葉を出すことで精魂使い果たしたのであろう。
 神は「身代わり」と言われた。一昨年、私は落胆の激しい年であったが、最近やっとその状態から何とか立ち直りつつある。きっとこのモミジが家の中心となる者が枯れたり腐ったりして倒れることのないようにと、自らの姿をもってその無残さを教え身代わりになってくれたものと思っている。当道場では、庭の樹木に至るまでがその身に代えてでも照見行脚・正見行脚の修行成就を支えているのであろうか。そういえば身代わりの「身」は照見・正見の「見」と同音である。

あるF大準教授の退職挨拶状

平成19年5月25日のこと
 かつて縁のあったF大学準教授が今年3月31日に退職されたことは知ってはいたが、まだ定年前の61歳でどうして教授昇格も断念して退職されたのだろうかと思っていた。
 挨拶状には、「40年の永きにわたりF大は学生時代を含めまさに私の人生そのものでしたが、これからはやりたいことが多々あります」と記されていた。今後の方向についての具体的な記述は何も書かれてなかったが、何か目的があってのことだと思う。
 最初の奥様を亡くされた頃、頼まれて数回、ご自宅に伺い地所祓いとご供養を行ったことがあり、またこちらの供養会にも、当時ともに小学生だった娘さんと息子さんを連れて来られたこともあった。しかし、奥様の一周忌の後、「これから先は檀家寺に頼むので」と言われて以後、供養ごとで関わったことはない。ただ私としては、ここの供養ごとを「未完のまま」中途で打ち切らねばならなかったことに対する心痛はあった。あれからもう20年以上経っている。
 氏はその後すぐに再婚されたが、短期間で離婚、以後今日まで独身を通されている。今は娘さんも東京に嫁ぎ子供が二人おり、息子さんも東京で独立されているという。かつて縁あった氏の今後の活動を祈りたい。

脳裏の毘沙門堂に導かれる

平成19年5月20日のこと
 「七重塔礎石」を見学に行ったとき、その右奥方向に建っている物置小屋のような建物が視界に入った。最近、どういうわけか何度もこの建物が脳裏に思い浮かんでいたが、どこにあったものか思い出せないでいた。だから、遠目にこの建物が見えたとき、すぐに脳裏にある同じ建物であるとわかった。 この建物は「毘沙門堂」である。
 ここに行ったのは随分と以前のことで、奉に「お参りしておきなさい」と言った記憶がある。毘沙門天は、奉の御守護神ではないかと思っている。
 錠前がかかっている扉の隙間から堂内の様子を覗いた。中はきれいにしてあるが、毘沙門天像までは見えなかった。
 この日この地に行ったのは別の目的があったからで、この毘沙門堂を探しに行ったわけではなかった。しかし、別の目的の方はまったく達成できず、結果的には、どこにあったものか思い出せないでいた毘沙門堂に行き着くことになった。何かしら脳裏にあった疑問が解けたような感じで安堵感につつまれた。 意味あって神の導きがあってのことだと思う。
 この日は、ここで軽く挨拶した程度で立ち去ったが、いつかちゃんとした形で挨拶する機会がくるのかもしれない。神は、ここも照見行脚若しくは正見行脚の修行の道筋のひとつとして示され、ここに導かれたものと思う。奉が一緒に行ければ好ましいことではあるが、縁があればである。
 このお堂の左にある樫の大樹の下に石祠があるが、その前の叢に割りと大きな礎石が一つあった。何の礎石なのか、もともとここに毘沙門堂があったものなのか、毘沙門堂の由緒等もわからない。
 「七重塔礎石」のある場所に戻ると、足元に綿帽子をつけたタンポポがたくさん生えているのに気づいた。先ほどは、全く気がつかなかったので不思議な気がした。脳裏にあった毘沙門堂に行き着いたお祝いに好みのタンポポを見せてもらえたのだろう。
 ※画像は、筑前国分寺七重塔礎石、http://ameblo.jp/giotto/entry-10044060073.html