2008年11月30日日曜日

「魅惑のスタンダード・ポップス」…ポップスの上手な知人に昨日℡

  ポップスの上手な女性がいた。福岡でリサイタルをし、多くのファンがいた。CDも出した。彼女の歌は、いつも青春。
  昨日、久しぶりに携帯に電話した。いつも変わらぬ歯切れのよい声が飛び込んできた。「今、主婦しているよ」。幸せそう。でも、そのまま主婦で治まる人なのかなあ。今は、もう福岡にはいない。でも、いつかまた彼女の天から降ってくるような声のポップスが聴けるかもしれないと思っている。そう願っている。「また、電話してもよいですか」と尋ねたら、「もちろんよ」との返事あり、ホッとした。
  ところで、今夜は、テレビに釘付けになっていた。どうしても観たい番組は、1か月ぶり放映の「魅惑のスタンダード・ポップス」。ところが、毎週観ている「ダーウィンが来た」と「篤姫」と時間が重なっているので苦労する。HDDに入れて観ることにした。ところが数日前にテレビ等をデジタルテレビとBlu-ray Discに買い換えたばかりで取り扱い操作がわからず苦労した。「篤姫」の後は、どうしても「SCANDAL」を観てしまうので、結局、スタポーを観たのはその後になってしまった。
  いつも変わらぬ井上順と新妻聖子のさわやかな司会で始まった。今夜のスタートはやはり新妻聖子で、「ロコモーション(The Loco-Motion)」、「さァさァダンスのニュー・モード 誰でも一度で好きになる 小さい子供もOK ABC習うより やさしい Come on, Come on,do the Loco-motion with me お尻をピョンとはね スィングして・・・」、楽しく弾むようなテンポの歌に思わず一緒に口ずさむ。
  そして今夜のmedley10連発のテーマは、「花」・・・魅惑のポップス・ガーデンだった。森口博子とRinaの「Rose Garden(ローズ・ガーデン)」を皮切りに小野正利の「Red Roses For Blue Lady(ブルーレディに赤いバラ)」、清貴の「The Rose」など10曲、そのなかには前田美波里、bless4の「Edelweiss」などの静かな名曲もあった。胸躍る「Corazon De Melon(メロンの季節」(森口博子)も入っていた。
  そして、新妻聖子は、すがすがしい歌声でサンレモ音楽祭で生まれた「花のささやき(in Un Fiore)」を日本語で歌った。新妻聖子のドレスは真っ赤なドレスで胸元に花をあしらったデザイン、きっと今日のテーマにちなんでローズにしたんだね。とても似合っている。
  また上述出演者全員が日本語でコーラスした、同じくサンレモ音楽祭で生まれた「愛の花咲くとき」など、懐かしい。
  ポップスの伝説はロックンローラー山下敬二郎、言わずと知れた「ダイアナ」、ウエスタンの「思い出のグリーン・グラス」、それに「のっぽのサリー」など、凄い、声量はますます増すばかり、聴いていて気持ちが一気に青少年期に戻ってしまった。すばらしい。
  今日のポップス講座は「ブルースハープ」。ハーモニカを小さくした楽器だが、思うように上手に吹ける(吸える)ものではない。今日の講師は、妹尾隆一郎、歌の合間、合間にブルースハープを吹く(吸う)、曲芸を見ているようでもあった。
  スーパースターメドレーはビー・ジーズ(オーストラリアの3兄弟)、大ヒットした「マサチューセッツ」ほかのスタンダードナンバーの数々、そのなかで新妻聖子は「ホリデイ」を歌った。
  次回は、日曜日ではなく、12月27日(土)午後8:00~9:58で、スペシャルという。年末、忘れないようにしておこう。
 ※画像は、花のドレスの新妻聖子。新妻聖子公式ブログからお借りしました。

2008年11月29日土曜日

若い頃の実母は新珠三千代似だった(実母のアルバム②)

  故実母の家に残っていた「小学校出てから50年・ハナハト会」と題したアルバムがある。色あせてあちこちに茶色の染みがついている。
  実母が卒業した篠栗尋常高等小学校同窓会アルバムで、このアルバムを見るまでは、実母が小学校時代篠栗に居住していたなど知る由もなかった。
  実母の口から、その頃のことなど一度も聞いたことがなかった。言いたくない理由があったのかどうか分からないが、私の方からも尋ねたことはなく、関心がなかった。というより、実母は宇美で生まれ宇美で育ったものとばかり思っていたからからだろう。
  実母が篠栗にいた当時、篠栗はまだ炭鉱の採掘が盛んであったので、篠栗炭鉱に関係していたかもしれない。その後、母が父と結婚した当時、父は貝島炭鉱資材課にいたので、炭鉱とのつながりを感じないでもない。
  アルバムの発行日は、昭和60年(1985)11月23日となっているので、そのまま50年遡れば昭和10年(1935)になる。しかし、実母たちが尋常6年生を卒業したのは昭和12年(1937)、高等科卒業は昭和14年(1939)だから少し計算は合わない。
  それはさておき、掲載されている数枚の集合写真を何度も開いては、そのなかに写っているはずの実母の顔を探してみたが、どうも分からない。小学生の頃の実母は、どんな顔をしていたのだろうか。
  私が知っている若い頃の実母の容姿は、女優の新珠三千代(故人)に似ていた。どういうわけか私は、高校の頃、この新珠三千代が好きで、この人の出演している映画をよく見に行っていた。ところが、故養母は、なぜかこの女優を好きではなかった。あれだけ宝塚歌劇の好きだった養母が、どうして宝塚出身の女優を好きでないのか理解できなかった。
  今になって思うに、ひょっとしたら、私は知らず知らずのうちに、幼児期に脳裏に焼きこまれていた実母の面影を新珠三千代に重ねて見ていたのかもしれない。私が、実母と再会するのは、それより後のことだから、高校生当時は、まだ実母の顔は知らなかった。また、養母が彼女を好きでないと言っていたのは、私の実母に似ているが故だったのかもしれないと思うのは考えすぎだろうか。養母には、何かこだわりのようなものがあったように思えてならない。
  大好きだった新珠三千代という女優に、こんな戸惑いながら過ごした青少年期の思い出が残っている。
 ※画像は新珠三千代。http://www.fjmovie.com/tposter/trump/d12.htmからお借りしました。

2008年11月28日金曜日

10年間拒否していたMRI検査を受けた

  M脳神経外科に行き、初めてMRI検査を受けた。
  実10年前に一度、ペインクリニックの紹介で別の脳神経外科に受けに行ったことがあったが、そのときは検査の直前になって、急に怖くなって止めている。ベッドに仰向けになり、MRI検査装置の穴のなかに上半身がすっぽりと入ったとき、「怖い、怖い」と叫んだので、そのまま検査が中止になった。医師に、「100人に1人くらい、こんな人がいる」と言われた。
  このとき、私は閉所恐怖症なのかと思った。以後、自らを注意して見ていると、やはり閉所に対する恐怖感があることに気付いた。では、どうしてそうなったのだろうと自問自答をしてみたが思い当たるところがなかった。
  ところが、ある日、棺桶の中で「自分は死んでない!」と叫んでいる夢をみた。このとき、養母の葬儀のときのことを思い出した。私が子どもときから成人するまで大事に育ててくれた養母、この養母の告別式のときは、人目もはばからずに泣いた。狭い棺桶に仰向けに入った養母、蓋が閉じられたときの悲しみ、そして、戸惑いながら火葬炉の点火ボタンを押した自分を思い出した。当時の火葬場は、遺族の代表者が点火ボタンを押していた。ひょっとしたら、このときの悲しい思いが深く心の中にずっと残っていて、閉所恐怖症が始まっていたのかもしれない。
  激しい肩こりと首筋の痛み、手がしびれる等の症状がずっと続いていたので、数日前、漢方薬局に鎮痛剤を買い行ったとき、薬局の主人が、「頚椎症が考えられるので、鎮痛剤を飲む前に、MRI検査を受けた方がよい」と言われ、MRIを持っている上記M脳神経外科を教えられた。そして、「自分も閉所恐怖症だが、MRI検査を受けるときは最初から目をつぶっていれば大丈夫」と言われた。
  そこで、今回勇気を奮ってMRI検査に挑戦したのであった。だが、やはりMRI検査機を見たときは、「こんな狭い空間に入るのは怖い」と思った。ベッドの上で検査技師に「右向きがよい」、「いや左向き」とか言って手こずらせたが、結局上向きになり、顔の上に野球でキャッチャーが被るようなマスクを乗せた。狭い空間の中に顔が入る前に目を瞑った。
  約20分間、各種の検査音が鳴り続けていたので、時間が経つのが早く感じた。幸いMRI検査では、脳神経のどこにも異常はなく、その前に受けていた頚椎のレントゲン検査でも骨に異常は見られなかった。心身の疲労と運動不足から肩や首がこり、筋肉痛を起こしているのではないか、冬場は肩辺の冷えに注意するようにと言われ、各種の薬を調合した鎮痛剤を処方された。
  考えてみると、今年は、実母の看護と死、その後の各種の処理事項、職場でも各種騒動が続き、精神的疲労の連続で脳が疲労いている。運動不足もある。
  ただ、今回のMRI検査で閉所恐怖症が解消したわけではないが、10年間尻込みして検査拒否を続けていた一つの恐怖はクリアしたことになりホッとしている。
 ※画像はMRI。http://www7.ocn.ne.jp/~n.brain/mri_mra.htmからお借りしました。

2008年11月27日木曜日

犬走りと排水枡の上を白い玉石で覆う

  強い雨が降っている。以前は、こんな強雨が降ると庭から流れてくる雨水が、犬走り(土間)上にある排水枡に向かって音を立てて流れ込んでいた。ところが、最近、少し様子が違ってきた。
  それは、先月20日に排水枡の蓋の上を、たくさんの白い玉石で覆ったため、排水の流れが見えなくなっているからである。
  犬走りとその一部に設置している排水枡3か所の蓋上に細目の網を敷き、その上に玉石を敷き詰めたのである。 そのため、一見雨水の排水路を遮断しているかのように見えるが、雨水は、玉石の下に吸い込まれ流れが見えなくなっているだけで、確実に排水枡までは届いている。網を敷いたのは、排水を遮断しないで、大量の重い玉石が土中に沈まないようにするためである。
  この玉石は、娘の家の庭から移動した。娘は、草抜きが嫌いで、そのために自分の家の南庭の一部に玉石を敷き詰めていたが、それでも雑草は生えるので、今度はこの玉石を取り除き、草が生えないという化成土(?)に替えたのである。 そこで、不要となったこの玉石を、私の家の庭に運び込んだという次第である。
  最近、町委託の下水道工事業者が敷地内の排水路調査に来た。この地区は、1年後に下水道が通る予定であるという。もし下水道が通れば、せっかく敷いた玉石をいったん取り除いて汚水路新設工事をすることになるだろう。敷地内のこの工事費は各家持ちだという。我が家の壁際の景観はまだ定まらないということか。

2008年11月26日水曜日

ジュリアン子孫の先祖探索記事を読み、思い出したこと

  昨日の毎日新聞に、11月24日、日本で初めて長崎市で開かれた列福式に、天正遣欧少年使節の1人中浦ジュリアン(1568?~1633年)の子孫が列席されたとの記事が載っていた。
  中浦ジュリアンは、キリシタン大名大村純忠の命により、1585年ローマ法王グレゴリオ13世に謁見したものの、基督教禁教令の渦中に帰国し1633年殉教した。「聖人」といわれてもよい人ではないかとは思っていたが、これまで聖人に次ぐ「福者」にすら列せられていなかったのか。今回、この「福者」の意味を知り、不思議に思えた。
  そして、この中浦ジュリアンの命脈につながる子孫が現存しておられたとは…、すごく驚かされた。
  その人は、小佐々学さん(68歳、さいたま市見沼区居住)で、亡父が亡くなる前年に語った「昔、南蛮に行った祖先がいる。代々、世間には口外しなかった」の言葉を聞き、「それは誰なのか」という思いにかられ先祖のルーツ捜しの旅に出たらしい。
  イエズス会の資料や各地の小佐々家を訪ねたりして、長崎市北部海域を領有した小佐々水軍の有力者の子息が中浦ジュリアン(生涯独身)で、その叔父から14代目の子孫が自分であることが分かったそうだ。中浦ジュリアンが重罪人だったので口外することをはばかってきたのだろう。それにしても自宅に、途中途切れているとはいえヒントとなる先祖代々の家系図が残っていたことはすごい、そして、この探究心には敬服させられた。
  私も、若いとき自分の先祖に関心を持ったことがある。家系図は存在していたらしいが、関心を持った頃にはすべて焼き捨てられていた。その家系図には、菊池一族とあったらしいが、そのすべてが正しかったかどうかは分からない。
  戸籍を遡り一族を調べまわり、養母に「お前は何をしているのか、そんな探索などするな!」と怒られたことがあった。なぜ養母が怒るのかが分からなかったが、後になってその意味が分かった。
  つまり、養母が怒ったのは、先祖探しの順番が間違っている、それを気付けということだった。戸籍上にある親族を訪ねても何も分からず、菊池一族という伝承にも、菊池地方に私と同姓の神社が存在すること以外には何の手がかりもなかった。
  行き詰まり、霊山や滝での修行、霊地やお堂での瞑想等を繰り返すなかで、「近くの先祖を捜して遡るのではなく、まず大先祖を探してから上から下れ」という霊示を悟った。
  そして、修行中に脳裏に浮かんだ地名を頼りに、数年の間、各地を駆け巡った。そうしているうちに、いつか大先祖の霊地へと導かれて行った。大先祖が、そこへと引っ張って行かれたのだと思う。そして、当時、その姓名、生没年、家族構成などもすべて脳裏にあった。
  上述の小佐々家は、小佐々水軍の子孫ということであるが、私の先祖を下ると同じく長崎県に君臨した松浦水軍の一翼(田平方面)を担っていた一族がいたようだ。親戚に大村市出身者もおり、小佐々水軍とはどこか共通するところがあり、ひょっとしたら先祖同士の間では接点があったかもしれない。
  中浦ジュリアンの子孫という小佐々学さんの列福式列席の新聞記事を読み、かつて私自身も先祖のルーツ捜しの旅をしていたことを思い出した。
※画像は、中浦ジュリアン。さいかいシティ.ねっと、http://kankou.saikaicity.net/history/saikai.html掲載画像をお借りしました。

2008年11月25日火曜日

高血圧の人にも勧めた錠剤「ルミンA」について

  私は、もともと血圧は低い方であるが、外気が寒くなると、ときどき高くなることもある。
  たとえば、朝、起きたとき「寒い」と思いながら、血圧を測ると上下ともに高くなっているときがある。
  こんなことが続くと、「大丈夫かな」と不安になることもある。だからと言って血圧の薬を飲むのも大げさすぎるし、どうしたものかと思う。
  病院の高血圧の薬を飲みだすと勝手にやめられなくなると聞いたことがある。素人考えではあるが、血流をよくするために血管を風船のように膨らます、それが高血圧の薬で、薬を止める膨らんだ血管が急激にしぼみ、血流の流れが悪くなり危険ということなのだろうか。
  でも、薬を飲み続けて血管を膨らましたままの状態にしていたら、血管そのものの張りがなくなり、薄くなって破れってしまうことってないのだろうか。
  私も、あるとき、某医院で冒頭のようなことを話したら、すぐに高血圧の薬を出されたことがあった。服用すると、そのつど頭がふらふらしだすので止めた。
  その後、某漢方薬局で勧められた漢方薬を服用したところ、すぐに平常値に戻った。効果が早かったので、いつも高血圧の話ばかりして悔やんでいる知人に、その薬を勧めたら、「臭いがくさい」と言ったので、かわりに「ルミンA」の服用を勧めた。
  この「ルミンA」は漢方薬ではないが、同じ漢方薬局で「血圧にも効果のある」と聞いていたからであった。それ以来、その人は血圧の話をまったくしなくなったので効果があったのだろう。
  同じく高血圧で苦しんでいた別の人にも話したら、後日、「お陰で高かった血圧が下がった」と感謝された。この「ルミンAは、即効的に高血圧を下げる効果はないが、漢方薬と同じように徐々に効いてくる」と聞いていた。その人の場合、服用を始めて40日くらいたってから効果が現れてきたという。
  説明によると、この薬の有効成分クリプトシアニンO.A.コンプレックスが組織細胞を復活、生長させ、細網内皮系機能を高め細動脈の血行を旺盛にするらしい。
  この作用で体にできた炎症や症状は元の状態になるように修復されるという。したがって「急性化膿性疾患、末梢神経系疾患、湿疹、創傷、熱傷、凍傷、汗疱性白癬」などに効果があるそうだ。
  そういえば、以前、急性パニック症で不安な日々を送っていた人にも勧めたことを思い出した。その人は、少し時間はかかったが、半年後にはすっかり症状が治まり、元の明るく元気な姿に戻った。
  最近、寒い朝など血圧が上がることがあり、ふと、心身の万能薬のようなこの薬のことを思い出して漢方薬局で買ってきた。この薬は漢方薬ではないので一般の薬局でも売っている。
 ※画像は、錠剤「ルミンA-100γ」の外箱(森田薬品発売、林原生物化学研究所製造、定価9975円)。

2008年11月24日月曜日

村主章枝失速のニュースに一瞬「えっ!?」

  フィギュアスケート・グランプリ(GP)シリーズ第5戦ロシア杯女子SP(11/21)で村主章枝(27歳)が首位に立ったというニュースを見たときは、これで総合2位以内に入ればGPファイナル進出が決まる、「今年はやったね」と思っていた。
  ところが、翌日、女子フリー(11/22)で3位、総合3位に終わったという。このニュースを耳にしたとき、一瞬「えっ!?」、「どうしたのだろう?」と思った。
  TV実況放送はなかったので詳しいことは分からないが、ニュースによると、演技後半に乱れたようで、ジャンプで転倒することはなかったものの、ジャンプで小さなミスを重ねたという。今回もやはり回転不足等に難点のあるジャンプだったのか、「重圧はなかったが…」とのコメントがあったが、残念だっただろうなあ。
  これで2シーズンぶりに目指していたファイナル進出が危ぶまれる状況になったが、行かせてあげたいなあ。でもファイトのある人だから、今後も簡単に諦めることなく、また再起を誓い奮起することだろう。これまで彼女の頑張る姿を見て勇気付けられきた私としては、彼女が頑張り続ける限り今後も変わらぬ応援を続ける。
 ※画像はサンケイスポーツ(ネット) http://www.sanspo.com/sports/photos/081121/spm0811211552000-p1.htmからお借りしました。

2008年11月23日日曜日

「列福式」直前のホテル予約OKは奇跡に近いこと

  長崎で法事があったので、昨夜、長崎のホテルに泊まった。数日前、ホテルを予約するとき、市内のどのホテルも満室で、あちこち探しているうちに、偶然のようにシングル1室のキャンセルが出たところに巡りあわせ、予約をした。
  ホテルに着いた後、長崎の知人とあって食事をした。知人に、「ホテルを取るのに苦労した」ことを話し「連休の間は、長崎はホテルが取れないように観光客が多いのですね」と言ったところ、「いえ、そうではなく、今日、ホテルが取れたのは奇跡に近いことですよ」と言われた。
  「なぜ?」と問うと、「24日に長崎で列福式があり、バチカンを始め世界からカトリック信者が、続々と長崎に集まってきていますから、ホテルは一週間ほど前からどこも満室になっているはずです」と言われた。
  「そうなんですか、だったら運が良かったんですね」とは言うと、「そうですよ」と言われた。この知人は、カトリックの信者なので、この列福式に期待をしているようだった。私が列福式の意味を知っていると思われたのか、それ以上の説明はされなかったが、実は初めて聞く言葉だったので、何のことかよく分からなかった。
  今朝、たまたまホテルに置いてあった読売新聞(11/22付)の「広告のページ」を見ていて、やっとその意味が分かった。そこには次のように書かれていた。
  「江戸時代に殉教した日本人カトリック信者188人を、ローマ教皇庁が正式に「福者」に列する「列福式」が11月24日、わが国では初めて長崎市で行われる。」
  「福者は、カトリック教会において死後その人の徳と聖性が認められたことを証する敬称で、「聖人」に次いで崇敬される。福者の列に加えられることを「列福」といい、これを公式に宣言する式が「列福式」。」
  今朝、法事の会場に向かうタクシーの中でも、運転手さんが同じ話をされ、「長崎市内には、参集するカトリック信者3万人を収容できるだけのホテルの客室が、ファッションホテルを含めてもないので、長崎県下はもちろん、佐賀、福岡のホテルに至るまで予約でいっぱいになっているはずですよ」と言われた。
  このような世界的規模の行事が行われる最中にホテルが取れたということは、まさに「奇跡に近いこと」と言われたことが理解できた。これはきっと神仏の仕組みがあったのだと感謝した。
  次の話は、列福式とは関係ないが、前述のカトリック信者の知人(私と同年齢)が、仏式で亡父50年忌法要をされたことを付記する。
  「父が死んだときは、仏式で葬儀を出しましたが、子どもの私たちがカトリック信者となったため、以後父の供養をする者がおらず仏壇も位牌もすべて焼き捨てました。ところが、最近になってもう父の死から50年経っていることに気付いて、やはり供養は仏式でしてあげねばいけないのではと思いました。もともとの檀家であった寺を訪ねたら、戒名の記録が残っており、その寺で供養してもらいました。今までカトリックの信者としてお寺で合掌をしたり法事をすることなど絶対に許せないことだと思っていましたが、この歳になってやっと亡父はカトリック信者ではなかったのだから仏式でやってあげなければと思うようになれました。そして、それをする自分を許すことができました。こんな気持ちになれるまで、これだけの齢を重ねなければならなかったのです」と言われた。
  確かに、家の宗教と自分の信仰とは別のもので、自分の信仰は一代限りで、家の宗教を変えることは好ましいこととはいえない。仏教徒というか一般的な日本人は宗教に対する肝要さ、言い換えれば「いい加減さ」があるが、カトリック信者となると、そんないい加減さは許せないのかも知れないのだろうと思った。知人は、本当によいことをされたと思う。
 ※画像は、「列福式」で福者となる、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンの像=10月、長崎県西海市。産経ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081115/acd0811151047004-n1.htmからお借りしました。

2008年11月22日土曜日

たまたまチラシで見た青春のアイドル吉沢京子さん

  たまたま手にした「リンクル化粧品」のチラシに女優吉沢京子の顔写真が載っていた。
  現在も女優として各方面で活躍しておられるのだとは思うが、まったくその様子を知らず、私の脳裏には、若い頃の吉沢京子の顔だけが残っていた。そのため、このチラシを見たとき、すぐに吉沢京子だとは分かったが、一瞬、脳裏に残っていた吉沢京子のイメージと違うと思った。
  それもそのはずで、私が、最後に吉沢京子が出演している映画を見たのは31歳の頃のことで、以後、舞台でも雑誌でも見た記憶がないので、そのとき見た吉沢京子の印象が35年間ずっと脳裏に刻まれたままだったのだろう。その映画のタイトルは「涙のあとから微笑みが(1974年作品)」、吉沢京子20歳のときの作品だったと思う。かなり心に響く衝撃的な映画だった。
  チラシの見出しには「デビューから41年」と書いてあり、また「柔道一直線のヒロイン」と注釈のある当時のセーラー服姿の写真も載っていた。この「デビューから41年」というのは、13歳で映画デビューした「燃えろ!太陽(1967年)」を指しているのだと思う。続いて「柔道一直線(1969年、桜木健一主演)」のヒロイン(ミキッペ)を演じたときは15歳で実に可愛かった。
  その後、「さぼてんとマシュマロ(1971年)」や「父ちゃんのポーが聞こえる」などに主演し、同学年の岡崎友紀とともに清純派アイドルと称された。現在の「アイドル」という言葉や概念は、当時、この二人によって確立されたそうだ。
  吉沢京子がデビューし、アイドルとして活躍していた当時、私は既に社会人になっていた。青春の夢の実現に人生を賭けて戦い破れ、方向転換を余儀なくされた時代のなかで、吉沢京子の活躍を横目で見ていた。私にとっても青春のアイドルだった。その吉沢京子も既に54歳(1954年3月生)、つくづく年月は知らない間に経過して行くものと思うが、久しぶりに苦難の時代の青春のアイドルに巡りあえたような気分だ。活躍を祈る。
 ※画像は、若き日の吉沢京子。「京子ファン」http://kyokofan.hp.infoseek.co.jp/からお借りしました。

2008年11月21日金曜日

故実母供養の純白の胡蝶蘭の花びら散る

  昨夜、拝殿に置いていた3連の純白の胡蝶蘭の花びらがすべて散り終わった。9月12日に飯塚市の花屋さんが、「お母様の七日ごとの追善法要にお供えください」と言われ、贈られたものだった。それから数えて、すべての花びらが散るまで実に70日間(母の死から86日)かかったことになる。
  その間に母が残したもろもろの残務処理、相続手続きを完了することができ、花びらが散ったこの日は、丁度、母が卒業した尋常高等小学校の同窓生の人たちに出した喪中ハガキが、届き終わった頃であり、この散花は、これで一区切りがついたという証なのだろう。
  思い返してみると、実母の死後、母の家にあった遺品の数々は、一部の親族が跡形もなく持ち出した。形見分けという類ではなく、持ち出した品の多くは、リサイクルセンターや質店などに持ち込んで換金したと聞く。また、代理店として所有し残っていた大量の健康食品と得意先名簿や領収書を持ち出した人もおり、得意先に売却したものと推定される。これらのことを見聞するにつけ浅ましくも思えた。
  その後、残っていた大量のゴミを出し、廃品を業者に頼んですべて処分した。同時に母が所有していた古アパートの退去者が残していた大量の廃品ゴミも処分してもらった。この廃品処理に要した費用のほかに、これまで支払った費用はかなりの額になる。
  たとえば入院治療費、葬祭費、火葬費、お斎費、仏壇修理費、位牌代、霊園管理料、納骨費、未払いの固定資産税、後期高齢者保険料、介護保険料、所得税、町県民税、死亡所得者確定申告による税金と税理士報酬、電話通信料、電気代、ガス代、下水道代、鍵付け替え代、ゴミ袋代、アパート屎尿処理代、火災保険料、不動産移転登記料と司法書士報酬、相続税にかかわる税理士報酬、香典返し品代、喪中ハガキ印刷発送代、諸手続き(戸籍・改製原戸籍・除籍謄本、住民票、固定資産評価額証明、登記簿謄本、交通費、通信費)、その他雑件。
  これからも不動産を所有する限り付帯して支払わねばならない費用がある。たとえば、家屋修理費、植木の消毒や剪定費、除草処理代、電気代、アパートの屎尿処理費、固定資産税、所得税、町県民税、火災保険料費等等。
  母が残すはずであった現金は、生前、親切に母の面倒を見てくれていたAが持ち出した。追求してやっと返金してくれた額は僅かであった。母が一時呼吸困難に陥った6月初めに、彼は、それを待ちかねていたかのように、金庫を開け、現金、預金通帳、印鑑を持ち出したのであった。銀行では、引き出した事実もあり、印鑑盗難にすることを勧められたが、身内から犯罪者を出したくないという思いから、それはしなかった。しかし、母は死ぬまでAを許してなかった。
  また、健康食品代理店をして、大量の健康食品を仕入れ高額の仕入れ費を支出していた。いつも大量の在庫を抱え、自分でそれらを飲みすぎて肝臓を壊しただけで、採算が取れていたとは思えない。これらのことがあり、現金も預金もさほど残ってはいなかったが、諸々の支払の一部に充てることはできた。
  母にしてみれば、死後の処理のすべてを私に託して逝ったのだと思い、生前、母のためにさほど孝行らしきことをしてあげられなかった私としては、それに応えてあげなければという思いがあり、掛かる費用はすべて支払う覚悟で遺産相続した。
  遺産となった高台にある140坪の敷地上に建つ屋敷(築35年)、ここからの見晴らしは良いが、坂道の奥まったところにある土地で、売却するには面積が広すぎる。さらに不況の時代、売却するにしても貸家にするにしても難航しそうである。
  古アパートもほぼ同時期に建てられたもので空き室も多い。解体費をかけて解体するにしても居住者の立退きが容易ではなく、空き室を低家賃で貸すにしても改修費にかなりの費用がかかる。
  負の財産を相続したようなものだが、今はこの不動産問題を残すのみになっており、一応、諸々の雑件処理は片付いたといってよく、純白の胡蝶蘭は、これを見定めて、残っていた最後の花びらを散らしたのだと思う。
  母は、死後のことをすべて私に託し、それに応えるように次々に処理して行ったのを霊界から見守り満足して極楽往生している。厭離穢土 欣求浄土、南無阿弥陀仏。

2008年11月20日木曜日

実母の死をその戦前同窓生に知らせる・・・(実母の尋常高等小学校時代アルバム①)

  一昨日、故実母が昭和14年に卒業した篠栗尋常高等小学校高等科同窓生49人に喪中ハガキを送った。もちろんこの人たちの誰1人として面識のある人はいないが、それでも8月に病没した母の死を知らせておこうと思った。
  この同窓生名簿に気付いたのは、つい最近のこと。母の死後、書類類を持ち帰り、確定申告や相続手続きに必要な書類を抜き出し、それ以外の書類はそのままにしていたが、その書類の山のなかに同上小学校同窓会アルバムがあり、その中にこの名簿が挟まっていた。
  母の遺品は、すべてその弟妹や後夫の子どもたちにあげたので、私は、書類以外には遺品となるような品は何一つ持ち出していなかった。それだけにこの書類の山の中にこの名簿があることに気付いたとき、これは、きっと母が同窓生の人たちに喪中ハガキを出して、自分が死んだことを知らせてくれと言っているのだと思った。
  この同窓会名簿は、昭和60年作成のアルバム購入者50人の名簿であった。したがって名簿の住所は当時のもので、旧地名や、地番のないものも多い。このままでは郵便物は届かないと思い、各地の電話帳その他で調べたりしながら、徐々に正確な住所に近づいたが、それでも分からない所は名簿のまま書いた。
  ただ、皆さんが後期高齢者であるため、現在、生存されておられるかどうかは分からない。「宛所に尋ねあたらない」として返送されるものもあることを覚悟の上で投函した。
  なお、母が篠栗尋常高等小学校を卒業していたことなどまったく知らなかった。あまり過去のことを話さない人だったが、私も母に過去の人生を尋ねることはなかった。
  考えてみれば、母は、同上小学校を卒業して、3年後に結婚、4年後に出産、5年後に夫戦死…、戦中期の暗い青春時代を経て、戦後は過去を振り返らないように心に決めて、ひたすら前のみを向いて、青春を取り戻すべく生き抜いたのかもしれない。
  次回機会があれば、アルバムを見て感じたことを書き留めたいと思う。

2008年11月15日土曜日

クルーズ世界一周の旅をした主婦(知人)

  知り合いの主婦がくれた雑誌「Priority60」を開いたら、その主婦の顔写真が1ページ大で掲載してあるページがあった。成功までの百マイル!と題したページで、「世界一周の旅・・・夢のような話だが、夢は信じることで叶う」と書いてあった。
  彼女は、この旅を通して「これからの人生における大切な羅針盤を手に入れた」と語っている。この旅は、夢の実現というよりは、子育てが一段落した後の母の介護で、心が圧迫されるような生活からの逃避行だったという。クルーズによる4か月の世界旅行、この間、彼女は主婦業と介護から開放された。
  この旅の間、開放感に浸り、一切家庭のことは忘れることができたという。船の上では、乗り合わせた人たちとニックネームで呼び合うなど童心にかえることができ、裸の自分でおれたような気がしたという。
  この旅を通じて「掴んだチャンスは離さない」「今しかできないことは今やる!」という決断の心を磨くことを学んだという。帰宅してからは、また主婦業や介護などの現実の生活が待っていただろうが、きっとそれまでとは違った前向きの考えや生き方ができるようになられたのではないかと思う。
  私の妻も、この記事を読んで大いに刺激され、「私もクルーズの旅に出る」と言ったので、「行ってらっしゃい」と言ったら、長女や孫から「それだったら船を掃除するおばさんに雇ってもらったらいいんじゃないか」と言われ、まったく信用されていなかった。
 ※画像は、JTBクルーズ(http://www.jtb.co.jp/cruise/)からお借りしました。

2008年11月13日木曜日

磐音(山本耕史)と奈緒(笛木優子)の再会に期待

  土曜時代劇「陽炎の辻2」で流れる主題歌「愛をとめないで」の歌唱力のすばらしさを聞いて、この歌手が新妻聖子だと知る人も多いと聞く。きっと新妻聖子は、この番組で新たなファンを獲得していることだろうと思う。
  私は、いつも車の運転中CDでこの歌を聴いているが、それでもTVで流れる歌には、また別の迫力がある。番組の終わりに流れるキャストの字幕が消えると、また来週も観て、この歌を聴こうと思う。(実は、HDD録画で観ていることが多い)。
  この「陽炎の辻2」も、残念ながらあと2回で完結する。この番組で一番期待していたのは、磐音(山本耕史)と奈緒・花魁白鶴(笛木優子)の再会場面。笛木優子(ユミン)は、花魁姿もよく似合って素敵、着物の着こなしもよく、時代劇にもあう女優だと思っている。
  この笛木優子は、第4回の「白鶴の宴」(9月27日放送)に出ただけである。第4回で、磐音は、吉原一の花魁白鶴(笛木優子)となった奈緒と出会うが、面と向かって顔を合わすこともなかった。磐音は、残された花魁の内掛けを手にして、川面を去っていく深見屋(赤井英和)の舟の上から「誰かは知らねど危うきところをお助けいただきありがとうありんした白鶴のお礼の気持ちの内掛けお納めくださんせ」と礼を述べる白鶴の清らかな声を耳にするだけだった。
  ところが、第12回「夢はるか」(11月15日放送)の予告編を観て、再び奈緒・花魁白鶴(笛木優子)が登場することがわかった。今度は、お互い顔を合わすのだろうか。既におこん(中越典子)と婚約している磐音と、違う世界に住むかつての婚約者奈緒、襖を挟んでの声と声の複雑な思いの再会と別れが待っているのかもしれない。
  そして、いつもドラマの終わり、情緒が揺さぶられる余韻が残っているときに流れる新妻聖子「愛をとめないで」の主題歌がまた情緒を誘うことになるのかもしれない。
 ※画像は、奈緒・花魁白鶴を演じる笛木優子。HP「陽炎の辻2~居眠り磐音江戸双紙」http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/kagerou2/html_kage2_cast.htmlからお借りしました。

2008年11月12日水曜日

町内遊び会の「グラウンドゴルフ」に参加

  先日(11/2)、妻と一緒に町内の遊び会に参加してグラウンドゴルフを楽しんだ。今年は参加者が少なく中高年者ばかりの15人、会場であるホテルグランディア若宮のバスが送迎してくれるギリギリの人数だった。
  グラウンドゴルフのルールは、きわめて簡単、指定のクラブ(重さ600g、長さ86cm以下)でボール(直径6cm)を打ちながら、適当な人数のグループで、外回り4コース、内回り4コースの合計8ホールポストを回り合計点を競うだけのこと。
  1コースでのプレー数は5打で、点数は、たとえばホールポストに3打目に入ったら3点、4打目であれば4点、5打目に入ったときは5点、ゲームオーバーのときも5点と付けていく。もし1打目でホールインワンになったときは、合計打数からホールインワン1回につき3打差し引いて計算する。8ホール終わった時点で合計点の少ない人が勝ちということになる。
  この日は、午前中、3グループに分かれ、2ゲーム楽しんだ。私のグループにいた女性がホールインワンを決め、芝生の上で飛び上がって喜んでいた。この女性、初めて参加してこの快挙、嬉しかったに違いない。トップは、グラウンドゴルフの会に入っている男性、私は5位だった。実は、ゲームの途中で携帯電話が鳴り、それ以後完全に調子を崩してしまった。これは、いいわけ。
  午後、ホテルの天然温泉(かけ流し)に入った。内湯と露天岩風呂などがある。風呂上りに宴会場で飲んだビールの味は、やはり格別だった。食事とカラオケを楽しんだ後、帰路に着いた。途中、久山緑地に立ち寄ったが、買うものはない。若いときは、植木を買っては庭に植えたりもしていたが、今は、なぜかそんな気はない。  1年に一度しか開かれない遊び会で、グラウンドゴルフは昨年に続き2回目、今回もそれなりに楽しかった。これも町内の寄りごとの一つだと思って毎回参加している。
 ※画像は、スポーツキングhttp://www.sports-k.jp/6867/、プレイコースの参考地図はHATACHIhttp://www.hatachi.jp/groundgolf/rule.htmlからお借りしました。

2008年11月11日火曜日

セレブ・金髪の若村麻由美

  「セレブと貧乏太郎」というTV番組を毎週見ているが、何度見ても主役の美田園アリス(上戸彩)がセレブに見えなくて困っている。毎回、ファッションも楽しませてもらうのだが、似合っているとも思えないでいる。これって、年齢的ギャップのなせることっていうのかな。
  ドラマは、漫画的で、それなりに面白いところもあり、笑うことも多いが、仰々しいと思うときもある。まあ、そういう番組なのだろう。そんな番組なのにどうして見だしたかってというと、継母美田園真紀子役を演じている若村麻由美を見たかった、ただそれだけのことだった。
  貧乏太郎って言うのは、バラック小屋のような家に住んでいる佐藤太郎(上地祐輔)のことなのだろうが、太郎とアリスがひょんなことで知り合うところからドラマが展開する。太郎の周りには、おっちょこちょいで人の良い下町商店街の仲間たちがいる。この人たちとアリスの触れ合いを通じて、悲喜こもごもとした進展に結構はらはらもさせられる。
  その商店街の一角にアリスタウンという大商業施設が計画されている。このドラマの設定、考えてみると、私の住んでいる周辺地区にも大型ショッピングモールがある。今は、大型商業施設が次々に住宅地周辺に進出し、大型商業施設同士が覇権を争い、そのなかでかつての地元の商店街の風情は埋没して行く時代になっている。そんな時代を背景に本当の幸福が何を問おうとしている番組なのかもしれない。
  ところで、若村麻由美が演じる真紀子はセレブ、でも金髪似合わないよう。若村麻由美は、金髪に初挑戦したらしく、本当にどんな姿の役でもこなす大女優になったとは思うのだが、ちょっと金髪の鮮やかさが目立ちすぎて、若村麻由美の素敵な顔が金髪の下に埋もれてしまっているように感じている。でも、この金髪、支配欲の強い悪女のシンボルマークかも知れないな。
  それにしても、このドラマ、その展開にあまり期待もせずに見続けているので、我ながら不思議だなあ、と思っている。そんなことってあるのだろう。
 ※画像は、金髪の若村麻由美。若村麻由美公式ブログhttp://syunca.at.webry.info/200809/article_5.htmlからお借りしました。

2008年11月8日土曜日

「ジャッジⅡ」の麗子(戸田菜穂)

  楽しみにしていた「ジャッジⅡ~島の裁判官奮闘記(NHK土曜ドラマ)」が始まった。といっても、もう【第3話「反抗」】だった。完全に開始日を間違えていた。
  楽しみにしていたというのは、もちろん三沢麗子役を演じる戸田菜穂が出演しているからだ。
  今回は、万引きで捕まった摂食障害の少女・由佳(柳生みゆ)の更生に取り組む夫三沢恭介判事補(西島秀俊)を陰で支えながら、南の島での生活にすっかり馴染み夫の転勤で島を離れることに不安がる小学5年生の娘麻衣子(枡岡明)に思い悩む役柄だった。戸田菜穂の、大阪弁と暖かな家族愛あふれる演技がすばらしい。
  あと残り2回は、HDDに入れて絶対見逃さないようにしたい。
 ※画像はHP「ジャッジⅡ」、http://www.nhk.or.jp/judge2/zeele.htmlからお借りしました。

2008年11月5日水曜日

葬儀場からのアンケート依頼

  故実母の葬儀を行った葬儀場からアンケート依頼が届いた。最近、TVのワイドショウで「福岡県は、葬儀場の数が全国一多く、葬儀場の激戦区」「葬儀事前相談所という商売もある」と紹介されたらしい。このアンケートも、この報道と関係があるのかもしれない。
  6月上旬に実母は、一時呼吸困難に陥ったことがあった。「今日・明日が峠になるかもしれない」と思い、あわててある葬儀場に相談に行ったが、その後、持ち直して8月下旬に逝った。このアンケートに回答はしていないが、当時のことを思い出しながら下述する。
  ① 葬儀を行う前に事前相談をしたのは1社のみだった。ここに相談に行ったのは、知人から「サービスがよい上に他社より安価」と勧められ、実母の家から近く交通の便もよいこともあった。友の会に入会したのは、すぐに葬儀になるかもしれないという焦りもあったが、応対してくれた受付の女子社員や担当した男子社員の説明のさわやかさやマナーのよさが気に入って、ここなら安心して葬儀の手配を頼めるのではないかと思ったからだった。
  ② しかし、いざ葬儀となったときは、この男子社員とはイメージの違う男子社員が担当されたので戸惑った。
  a. 実母が死亡した日は、葬儀場が他の人の葬儀で埋まっており、通夜法要は翌日に営むことになった。遺体を病院から実母宅に運んだ後、葬儀費用の見積もりを算出し依頼した。その後、直ちに当方で取引にある生花店に連絡して、会場内に多くの生花が並ぶように手配した。そころが、その翌朝、担当社員が「昨日、言うのを忘れていましたが、友の会員の3万円の金券は生花一対に使いますので、その生花に下げる名札には誰の名前を書きましょうか」と電話で聞いてきたので当惑した。見積りの段階で、そのことを教えてくれれば、生花1対分の費用が浮いていたからである。友の会入会日にその説明があっていたのだと思うが、それから約3か月経過しており、当日の心の動揺もあり、その頃聞いた内容などは思い出せなかった。担当者に、見積もりの時点で、改めて説明してほしかった。
  b. さらに今度は、喪主以外の親族がたくさんいる前で、考えなしに「友の会に入っておられますので金権で準備した生花は、孫一同と書いておきましたから」と口にされた。そのため、居合わせた人たちから「友の会にいつ入ったのですか」「死ぬのを待って準備していたのですか」などと言われ、言い訳をしなければならなくなった。
  c. また、続けて、「皆さん、葬儀の朝のお斎はつき物ですから、できるだけ多くの人たちが故人と最後の食事をされてください、必要人数分手配しますので各家族の人数を申し出てください」と言ったので、それぞれが勝手に人数を増やし、手伝いも何もしない人たちまでが大勢押し寄せることになった。事前に担当者に、「葬儀費用一切を私が出すから他の人たちには費用に関わる話をしないこと」と念押ししていたのに、喪主に相談もなしに口にされたので閉口した。
  d. 葬儀の後のことを聞かれたので、「この家を売却する予定もあり、今後の法事は、この家以外で行うことになるでしょう」と言ったら、「いや、初盆と一周忌は、お母様の思い出の詰まったこの家でしてあげるべきです」と断定的に言われた。良かれと思って言われたのだとは思うが、そこまで他人の家のことに口出しをすべきではない。
  ③ 病院で死体を乗せた車が、実母の家に到着したとき、坂道での回転を誤り、車の後部ボディを門塀にあて、一時、車を動かせなくなった。その間、死体を車から降ろすこともできず、はらはらさせられた。運転技術が未熟な社員に運転させる配車の仕方にも疑問を感じたが、まだ葬儀の始まる前のことだったので、この後の葬儀全体の進行に支障が出る前触れではないのかという不安が心を過ぎった。
  ④ どうも人が死ぬ日や時間帯は決まっているのか、実母が死亡した日時は陰陽道の暦には引き潮の時間帯とあった。このとき死亡した人たちが多かったのか、近くの葬儀場も満杯状態になっていた。この葬儀場も葬儀が重なって会場の余裕がなく、葬儀場のスケジュールに合わせて、時間を這うように仮通夜、本通夜、告別式、火葬、初七日法要をさせられたような感じで、時間に追われあわただしかった。
  ⑤ 通夜法要の後、葬儀場で一泊(仮眠)したが、夜間の葬儀場内の照明は、明るくてよかった。ただ、祭壇に置いてあった焼香用の香が湿気ており、折った線香の上では燃えにくかった。葬儀時間以外は、香入れに蓋をしておく等をしていた方がよいのではないのかと思った。
  ⑥ サービス提供は、支払った料金に対比しどの様に感じたか?…。担当者から「他社に比べて安価」と強調されたので、他社のことはまったく知らないが、そうなのかとは思った。それでも一時に高額の葬儀費用を支払うのだから、担当者によってマナーに差がありすぎるのは感心しない。スタッフの教育には万全を尽くしてほしいと思った。
  ⑦ 親族に某新興宗教の信者が多く、通夜でも告別式でも初七日でも、儀式の最中には会場ロビーにたむろしていても式場内には入らない、線香は立てない、拝まない、火葬場に行っても骨も拾わない。それなのにお斎とか精進揚げとかの食事の時間になると大挙して押しかける。私の常識では理解できない人たちである。実は、こういう事情もあったので、事情のわからない担当者に、皆の前で「お斎にはたくさん参加して」というようなことは言ってほしくなかったのだった。
  ⑧ 事前に友の会に加入したので、会場のスケジュールが詰まっていてもここでしなければならないと、心に枠をはめてしまった。この葬儀場は、平屋で利用しやすかったが会場が少なく(小会場は狭すぎる)、葬儀が重なったときは過密スケジュールを余儀なくさせられる。これからは高層階の会場も必要かも知れない。そのためには、対応できるだけのスタッフも必要となるので、予め教育した臨時社員(高齢者可)等を登録し、必要に応じて召集するというような制度の検討も必要になるのではないかと思った。 

2008年11月4日火曜日

うれしい村主章枝のカナダ復活

  「銀盤のプリマドンナ」と称される村主章枝(27歳)だが、昨年フィギュアスケート・グランプリ(GP)ファイナル出場を逃すなどもあり、ここ2年間不振が続いていた。心配していたが、消えてはいなかった。
  今年6月拠点をアメリカに移しニコライ・モロゾフコーチの指導を受けて、カナダで復活した。環境を変えて「勝ちたい…初めて(この思いを)強く思えるようになった」と話していた。村主章枝のファンとしては嬉しい限りである。
  もちろん、11月2日KBC・TVで、GPシリーズ第2戦(カナダ)に出場した村主章枝の演技を食い入るように見た。前日のショート・プログラム2位に続き、フリーでの復活優勝にかけていたが及ばなかった。後半ルッツジャンプのトリプルフリッツが1回転になる失敗はあったものの、ほかのジャンプは完璧だったので、ジャンプで失敗を重ねていた過去に比べたら抜群の出来だった。きっと環境を変えて、もともと持っていた能力のモチベーションがあがったのだと思う。
  村主章枝の「初めての國際試合ではまあまあだったかと思います」というコメントを聞いていて、私には、これからもっと練習して完全復活を遂げると言っているように聞こえた。この年齢を感じさせない頑張りが頼もしく、ますます村主章枝を応援し続けたいとの思いが強くなった。
  なお、村主章枝は旋律の高低を何度も繰り返しながら最後に確信に迫っていく感じのラフマニノフの「ピアノ協奏曲第二番」をバックミュージックに使うことが多く、この曲は彼女のフイギァスケート人生そのもののようでもあり、今回も少しだけ期待していたが、今回は「映画恋びとたちのアバルトマンより」(ショート)と「秋によせて」(フリー)が選曲されていた。これもまた村主章枝らしい優雅な曲だった。
 ※画像は、GPシリーズ・カナダでフリーを演じる村主章枝。サンスポ掲載画像http://www.sanspo.com/sports/photos/081103/spm0811030349000-p3.htmからお借りしました。