2008年12月23日火曜日

プログ移転

  このところ、下記ブログと同じことばかり書いているので、重複して恐縮することしきり。したがって、当分の間、下記にまとめたいと思いますので、登録を下記アドレスに変えてください。
  お願いします。
  ブログ名は、同じ 「正見行脚」 としています。
    http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/

2008年12月19日金曜日

吉野山に前登志夫さんの歌碑が建立された

  12月7日に、たまたま目にしたブログ「短歌と英語大好きのおばさんの日々」に「前さんの歌碑が、吉野山の金峯山寺の境内の南朝皇居跡公園に立てられたという記事があった。刻まれた歌は、さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり  歌集「青童子」より  ご自身がわかりやすい歌をと、生前に選ばれたものだという。05年のころから歌碑建立の話があり、碑の文字も自筆の色紙から採ったものとのこと」と書かれていたのを見て、すばらしいことだと思っていた。(http://blogs.yahoo.co.jp/fumanband/45849064.html)
  前さんと直接を言葉を交わしたことはないが、昭和60(1985)年10月14日金峯山寺蔵王堂前で「蔵王讃歌」の大合唱が披露されたときお見かけしたことがあり、以来、お名前は、作詞された「蔵王讃歌」とともに忘れたことはなかった(4月8日記載ブログ参照)。
  最近(10月8日)では、ブログsomething like that で、次のような文を見て、私も読んでみたいと思っていたほどである。それは、「前さんと駿台」というテーマで「10月5日に行われた駿台予備校の全国模試をちらちらみていたら、国語の問題に、前登志夫さんの「存在の秋」の一節が引用されていた。吉野の桜の話、ビルマで戦死されたお兄さんのしてくれた楠正行の話などであった。」(http://pinecones.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-ebc9.html)
  そんな折、金峯山寺から届いた「金峯山時報(12月10日発行)」で「前登志夫氏の歌碑 有志により建立する」の記事を見た。
  記事を見ると、建立除幕式は11月25日に執行され、その場所は妙法殿前辺りのようだ。そういえば、そこに「南朝皇居跡」の石碑が建っていたような記憶がある。ここを南朝皇居跡公園というのだろう。昭和56年から27年間、毎年、「金峯山時報」新年号に掲載されてきた前氏の新春短歌集を金峯山寺にて編集発刊したとのこと。また遺弟の集い「山繭の会」の萩岡良博氏が歌碑の詩を披講されたという。「山繭」は「やままゆ」と読むのだろうか。
  この後で、金峯山寺・田中利典宗務総長のブログ「山人のあるがままに」を読んだ。「吉野のサクラをこよなく愛し、また自分自身が吉野の山林に定住して、山川草木の深い慟哭を聴き続けて来たことでしられる歌人」で、「今年新年号の最後の歌が「一基だに われの歌碑なき吉野山 雪ふみくだる いさぎよかりき」であった。この歌をいただいたとき、えーー、先生の歌碑はたくさん建っているのに吉野山にはなかったのだとはじめて気づき、ま、督促していただいたようなものだと悟って、早速建立話を寺内ですすめるところとなった。先生の意向もお聞きして「さくら咲く ゆふべの空のみづいろの くらくなるまで人をおもへり」という自筆の歌を刻むことを指示いただいたが、生前中の建立はかなわず、昨日ようやく建立をみて、4月に亡くなった先生の遺影にささげたのであった。」とあり、ようやく歌碑建立の経緯が分かった。
  また、金峯山寺に寄稿された歌は、昭和45年以来の分を含めると99首もあるそうだ。
  前登志夫さんは、山深い山中の集落(自宅/下市町広橋)で生育され、林業に携わる傍らで、吉野山の自然をこよなく愛し讃える短歌を詠み続けられ、土俗の前衛的歌人とも称されていたが、本年4月5日吉野の山桜の咲く季節に82歳で亡くなられた。
  死後にはなったものの念願の歌碑が吉野山、しかも吉野櫻に包まれた修験道の総本山金峯山寺境内に建ち、きっと霊界で喜んでおられることだろう。この歌碑は前さんの菩提碑と言ってもよく、すばらしい供養碑となることだろう。今度帰山したときは、必ず見学し合掌を捧げたいと思っている。
 ※画像は、「山人のあるがままに」http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2de.htmlからお借りしました。

2008年12月11日木曜日

朝日新聞Miss Saigonメッセージに新妻聖子

  12月1日から朝日新聞西部本社版朝刊に、来春1月5日から博多座で公演されるMiss Saigonのプリンシパル24人のメッセージ広告が掲載されています。枠は小さいがカラーで載っているので、すぐに目に付く。毎日、楽しみに見ているが、今日は、新妻聖子だったので嬉しかった。メッセージを次に転記します。
  「新妻聖子が博多座で「ミス・サイゴン」キム役を演じるのは、もしかしたら一生に一度かもしれません。あなたに、観ていただきたいです!! 2月18日まで博多の街に滞在しながら、心を込めて日々の舞台を勤めます。是非、この感動を目撃しにいらしてください!!」
 ※画像は新妻聖子公式ブログ(8/31、スタボー出演時のもの)からお借りしました(朝日新聞掲載ミス・サイゴンの画像ではありません)。

生涯かけて正見行脚(実母のアルバム⑪)

  母は、別の意味で、私に「何度も裏切られた」と言ったことがあった。思い当たることは多々ある。
  私は、幼少のときから養母の元で育ち、養母に対する想いは人一倍強く、また恩義も強く感じていた。この心がいつもブレーキとなって、実の母には、接近しては離れる、を繰り返し、心底から気持ちを通じ合えないジレンマがあった。その狭間で、産んだだけの母とは縁を切ろうなどと思ったこともあったが、結局は切れなかった。血のつながった実の親子とはそんなものなのだろう。私の、時として決断を鈍らせる優柔不断な性格も、こういった背景のもとで形成されたのかもしれない。
  それでも最後は、心から母を想い、自分なりに尽くすことができた。一度は延命護摩をたき、死の淵から生還させることができたが、二度目はできなかった。というより、もう少し生きていると思っていたのである。
  私には、寝たきり状態で明日の行方が見えなくなっている母をこれ以上苦しませたくないという思いもあったが、母は、まだ生きようとする気持ちが強いと思っていたので、もう少しは大丈夫と踏んでいたのであった。しかし、後で考えてみれば、どこか安堵していたような面もあったので、死期を悟りふっと息を抜いたのだろう。
  母は、死の前夜、自ら強く望んで久しぶりに入浴し、身を小奇麗にしたようで、霊界への旅立ちの準備をしていたのか。翌朝、容態が急変し、長く苦しむこともなく、あっけなく逝った。
  母の死後、私は、自ら修験道の作法に従い仏式で母の魂の引導渡しを行った。喪主を兼ねて葬儀一切の導師を務めた。もともと、私が僧籍を得たのは、母の導きで金峯山寺に行き得度をしたことがその発端であり、今、考えてみれば、母の葬式をするために得度をして、修行を重ねて大阿闍梨になったような気がする。 かといって私自身が悟りを得ているわけではない。
  当然、母の法名も、母が私より1年早く得度したときに頂いた法名をそのまま使った。母は、私の行う葬儀修法に満足し納得して、現世での一切の憂いを断ち切り黄泉の国、来世へと旅立ち極楽往生した。このことを幸いと思いたい。
  その後、たまたま残っていた母が出たS尋常高等小学校の同窓会アルバムを見たとき、母が生まれ育った時代背景が見えてきた。若い時代は、戦争という背景を抜きにして生きられなかった。その中での結婚、出産、別離があった。戦争を挟んだ苦しい時代を、必至に生きてきた。
  青春の時代に戦争がなければ、母も私ももっと違った人生があったのかも知れないが、人は避けて通れない宿命に翻弄されて生きている。その道筋をもがきながら生きて、自分の人生を形作って行くしかないのだろう。母は母なりに、正しい仏陀の教え道理を見るべく生涯かけて正見行脚したのだろう。そして、最後に悟りの境地に至り、生涯を閉じたと思う。
※画像は「クリップアートファクトリー」
http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/07_character/clipart2.htmlからお借りしました。

2008年12月10日水曜日

「けじめ」をつける(実母のアルバム⑩)

  母の身内に心から母のことを慕い、心配してくれた人がいたのだろうか。母が残した書類の中に、CやDの金銭借用書があった。母が常々「お金を貸したが返してくれない。あげてもいいと思ってはいるが、貸してくれと言って借りたのだから、いったんは返すのが筋。それがけじめ」と言っていたが、その話は事実だったようだ。
  母の死後、Cは、私に「お母さんが亡くなっても絶対に返します」と口にしたが、母に督促されても返さなかったものを私に返すはずがない。Dは「お母さんが、そのお金は返さないでよいといっていた」と言った。
  母は、1人で生計を立てていただけに、お金のことはシビアであった。世話になった人にはきちんとお礼をし、お小遣いをあげたりする人だったが、貸してくれと言って貸した人にお金を返さないで良いと言うような人ではなかった。母が貸したお金を返してもらおうとは思っていないが、けじめのわからない人たちを悲しく思う。C、Dとも母の遺品を運び出した後は何の連絡もない。
  なお、母の遺品に群がった人たちがTVアンテナやトイレマット、トイレットペーパーなど、まさかと思えるような品々までも運び出したのには驚いた。
  生前、母は、私に「お前は、人に借金したりして迷惑をかけるようなことはしないが、私の周りには、私からお金や金目のものを取ろうとしている人が多い」と嘆いいたことがあり、当時、私は母の妄想と思っていた。しかし、今は母の嘆きの意味を理解できる。
 [死者に合掌せず]
  もう一つ残念なことがあった。母に、子供ときから育ててもらった人が、新興宗教Eに入信し、母の死に際して合掌一つしなかったことである。自分たちの実父の死のときもそうだったという。本人たちは基督教と言っていたが、本当にキリストはそんな教えを説いたのだろうか。
  ところで、母が入院中に「いつも親切にしてもらっている」と言っていた看護師(男性)がいた。母がこの看護師に好きなのは何かと尋ねたら「焼酎が好き」と言った。母が私に「彼に焼酎をあげたい」と言った。そのことを知った婿が鹿児島に出張したときに買った焼酎をくれた。この焼酎を彼にあげたらすごく喜んでいた。
  母が死んだ朝、出勤してきた彼と廊下出会った。早朝に私が病院にいるので不思議に思い「どうかされましたか」と声をかけてきた。母の死を知った彼は看護服に着替えた後、「お別れをさせてください」と霊安室で合掌した。その看護師の姿を見た看護長が「早く持ち場に戻りなさい」と注意した。
  焼酎2本を貰っただけなのに恩義を感じ、持ち場を離れてまでも霊安室に行き合掌を捧げた看護師がいるのに、どうして上述の人たちは合掌一つできないのだろう。
  身近な人の死を悼み合掌して気持を捧げるのは自然の姿である。自然の流れに逆らうような教えに染まってしまった人たちなのだろう。
  葬儀の流れの中で最初から一切顔を出さないのならまだしも、食事時には大挙して押しかけてくるのが不思議だった。たとえば通夜には出席せず、その後、故人とのお別れを惜しむ飲食時には出席する、さらに翌朝告別式前のおときに来て食事をし、告別式が始まるといない。火葬場に行くバスに大挙して乗車、そのため大型バスを手配しなければならなかったが、火葬している間の待合室での飲食に参加したが、遺骨は拾わない。料亭での法要の間は誰も姿を見せず、精進あげが始まるとどっと入室する。当然、御霊前は包まない、線香は立てない、焼香はしない、合掌はしない。
  そして、「私たちは生きている人には尽くすが、死んだ人を悼むことはしないという教えに忠実に従っているだけです」と主張する。道理に反する教えは無意味である。世話になった人に対する感謝の気持が伝わってこない。死者を悼むことはしないが、死者が残した遺品はいただく。母は、この人らを、どんな育て方をしたのだろう。
 [けじめ]
  当初は、母の家を売って分けようと考えていた。しかし、それは、母の本意ではないことを悟った。母が残した遺品のすべてを与えたことで、私との関わりも終わった。人としての道理や人情が通じない親戚は要らない。これが、霊界に赴く母が下した最後の「けじめ」であった。ただ、亡母の供養をしてくれる人には別に考えている。  母は、自由闊達に生きた人と思っていたが、本当は、身内の多くに頼られ裏切られていた寂しい人だったのかもしれない。

2008年12月9日火曜日

自らの信奉との決別(実母のアルバム⑨)

  母の某社信奉は、その死の1か月ほど前まで続いた。しかし、死を意識していたのか、会員継続を「もうしないでよい」と口にして更新せず自然脱会した。折もおり所属していた支部が、本部から離脱し別会社を設立したことも決断を促す一因になった。
  最後は、実子の私にすべてを託し来世への引導を渡してもらうしかないと思ったようで、そのためにも死ぬ前に、私が関係していないこの社への信奉を整理しておこうと考えたのではないかと思う。その頃には、自分が死んだ後、S霊園に遺骨を納骨できることが分かり安堵するなど、死を意識していたことは確かであった。
  私が仕事などで帰りが遅くなったり、疲労で休んだりして病院に顔を出せない日があると、翌日必ず病床から携帯電話をかけてきた。それほど気が弱くなっていたのだろうが、やはり最後に面倒をかけ頼ることのできる人は、私しかいなかったのである。
  母が死に、母とは姓が違ってはいたが、葬儀の喪主になる人は私以外にはいなかった。まず病院の霊安室での供養から始まる葬儀一切を、私が導師となり仏式で行うことにした。病院から葬儀車で死体を母の自宅に運んだ。
  居間に敷いた布団に寝かせようとしたとき、布団に大きな同上社のロゴの入ったシーツが敷いてあったので、すぐに取り除いた。「誰がこの毛布を敷いたのですか」と尋ねたら、Bの妻(同社会員)が「姉さんをこの毛布の上に寝かせた方が喜ぶと思ったので」と言った。
  母は、生前、常々同社は宗教ではないと言っていたので、供養法まで口をはさむことはない。だが、その会員が喪主に断りもなしに、自分の考えで勝手なことをしてはいけない。私は、「母は、死ぬ前にそこをやめています」と言った。
  余談だが、母は、生前、私や私の家族の健康を願いゴールド会員にして、ゴールド会費を払ってくれていた。数回、母を私の車で所属支部まで送迎したこともあった。母は、同社の健康食品(サプリメント)を販売する指導員になっていた時期があり、この商品仕入れ等に相当の金銭を使っていたようである。
  葬儀が済んで数日後、同社に詳しいBが合鍵を使って母の留守宅に入り、大量に買い置きしてあった健康食品(仕入れ伝票、領収書、電話早見表を含む)のすべてを持ち出した。1か月後、Bを追求したところ、「K町の会員に全部あげたら喜ばれた」「伝票類は燃やした」「早見表はちょっと連絡したいところがあったので」と答えたが、健康食品の量は1人の人にあげて喜ばれるような半端な量ではない。それらを売りさばくために伝票、早見表も必要だったと考える方が妥当である。仕入れゼロで販売すれば売り上げのすべてが儲けになる。母は一体誰のために、これらを大量に買っていたのかと思う。母は生前、Aが健康食品も狙っていると言っていたが、実際に狙っていたのは母が信用していたBだったということになる。母の周りには信じるに足るような人はいたのだろうかと思う。
  ただ、同社会員の中にも親友といえる心の友、高齢のUさんがいた。晩年の母にとっては救いであった。何かと電話やハガキで励ましあっていたようで、人生の最後にこのような人にめぐりあえたことは幸せだった。そのUさんとは、私も数度、電話でお話したこともあり、今でも感謝している。
 ※画像は「クリップアートファクトリー」http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/02_woman/clipart1.htmlからお借りしました。

2008年12月7日日曜日

絶縁10年を経て母と再会(実母のアルバム⑧)

  実母との交際を絶って10年後、母から「主人が死んで丁度10年経ったからもう会ってくれもいいでしょう、相談があるから来てほしい」と電話があった。
  縁を切っていたはずだが、母の方から「相談がある」と言われると、そこにはどうしても説明の付かない気持ちの動きがあった。そして、母の家を訪れた。
  会うと、親子の10年の溝は一瞬のうちに埋まってしまったかのようであった。相談とは、母が所有していた中古アパートに関することで、「A君が、アパートを壊して、1ルームマンションを建てる計画を勧めているが、どうしたらよいか」ということであった。
  その後、母の家で、AとAが連れてきた不動産屋さんにあった。不動産屋さんは、「満室になれば収益が出ます」「お母さまは年老いておられるが、商売をして銀行の信用があるA氏が保証人になれば銀行ローンが組めます。A氏が保証人になった後、もしもお母様に何かあったときは、お母様名義のものはすべてA氏が受け取り引き継ぎます。そのために、お母様と付き合っておられない実子のあなたに遺産放棄をしてもらいたい」と言った。
  黙って聞いていたが、許されないという思いが湧いてきていた。聞き終わったと同時に私の口が開き、次のようなことを言った。
  「ワンルームマンションの需要が長期に続くとは思わないし、現在設定した家賃の額をいつまでも維持できるとは限らない」 。
  「この計画では、満室になっても収益が少ない上に、満室にならないと赤字になる。この計画を実行すると、途端に母の生活が困窮するのが目に見えている。このような採算の取れない計画には絶対に賛同できない」 。
  「母と付き合っていないというが、母には今のアパートがあり、生活は困らないという背景があり、安心感があったから付き合わなくても平気でいられたのだ。そのことを他人にとやかく言われる覚えはない」 。
  「だいたいA(呼び捨て)は母の何なのか。銀行が信用しても私は信用していない。そんな人に保証人になってもらう必要はない。他人のあんたに遺産放棄しろと言われて、はい、そうですかと答える義理はない」。
  これに対して怒った不動産屋さんは、「私の店舗に来て親分と会って話をしてくれ」と意味不明の話をしだしたので、「いつでも会うよ」と応じたら、母が「喧嘩はしないでくれ」と言った。
  後日、この不動産屋さんの店舗に赴き、ここには書けないやり取りがあったが、結果的にこの計画は消滅した。
  計画を壊した私に対して、母は、意外とさばさばとしていた。迷っていた気持ちが吹っ切れたようだった。
  その後、私は、母にI不動産を紹介して次のことを実行に移させた。①アパートの管理一切をI不動産に変更し、I不動産に手数料5%を支払い、その管理一切を委託させる。③アパートの家賃を下げて全室を満室にすること。そのお陰で、家賃集金に関わる心労は減り、逆に母の収入は増えた。
  しかし、年月の経過とともに、入居者が入れ替わるたびに家賃は徐々に下がり、その上、台風や地震などによる被害で建物のあちこちに傷みが生じ、その補修費がかさむようになった。また荷物を置いたまま行方知れずとなる人がいたりして、その廃品撤去にも費用がかかるといった状況も出だした。次第に母はアパートに手をかけることを止め、空き室が出ると新しい人を入居させることもしなくなった。母の死後、築35年になるこの古アパートを相続したが、現在、その取り扱いに苦慮している。
  しかし、もし母が当時Aの計画に乗っていたら、確実にマンション経営に行き詰まり、その後の人生は暗礁に乗り上げていたはずである。だが、この一件がなかったら、本当に一生、母と再会する機会がなかったかも知れない。私を再び母に近づかせるために、Aは悪役を演じさせられたことになる。これが神仏の見えない力である。母にとっても私にとっても、あの時点で完全に親子の縁を断ち切ることは許されなかったのだろう。
  しかし、以後10数年間、母が入院するまでは、是々非々の付き合い方をしてきた。あまり親身になりすぎると、1人暮らしが長い母にいろんな疑念を抱かせてしまうことになりかねないと思っていたからである。
  そして、今回再び私の前に立ちはだかったAは、今度は完全に信用を失い、母が死を迎える前に除外された。せっかく母の面倒を見てきた好意が、心がけの間違いで悪意であったことが露見したからではあったが、結果的には、Aは、私に母に対する最後の孝行をさせる機会を与え、母の葬儀を執行させるための役割を演じたことになる。
  これらのすべては、神仏の見えない力や導きによるもので、神仏は、「必要なときに必要な人にいろいろな役割を演じさせられる」のである。
※画像は、http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/02_woman/clipart1.htmlからお借りしました。