2008年1月29日火曜日

初不動供養会で護摩を焚く

  28日本尊供養会で、久しぶりに護摩を焚いた。当初、護摩を焚くことは考えていなかったが、ひとりでに護摩を焚く所作をしていた。この日は初不動であった。
  護摩の炎は、いったん勢いよく燃え上がった後、息をつくように小さくなり、その後、さらに大きくなる。この形を数回繰り返しながら燃え尽きた。
  この燃え盛る護摩の炎は、不動明王の火焔。そして、立ち込める煙を身に受けた人たちは、不動明王の手にする剣や縄、そしてこの火焔により降魔を退散させ、息災を得る力(霊力)をいただく。参拝者のなかに風邪で咳をし続けていた人がいたが、この煙を身に浴びた途端に咳が止まった。 この日、各種事情で参加できなかった人たちも、ご先祖を敬う供養心があればこの霊力は及ぶ。 また、今、苦しんでいる人たちも、この日を境にして希望の光が射し込み、その苦しみが和らいでいく方法、方向性を見出すことができる。
  供養会の後、深夜、1人で自分と、かかわりのある人たちの元気回復と息災を祈り再度護摩を焚いた。このときは、立ち上がる炎が全ての煩悩を焼き尽くすように、ゆっくりと燃えていった。合掌。

2008年1月28日月曜日

こども日本舞踊発表会

  昨日、小学生の孫が習っている日本舞踊の発表会があった。メイキャップをした顔立ちは雛形あきこによく似ている。松田聖子がデザインした赤紫地に桜をちりばめた振袖を着て、県立大ホールの舞台で「さくらさくら」と「藤の花」の2曲を踊った。
  昨年9月から月2回の割りで花柳流の師匠に習いに行っただけで、まだ半年も経っていないのに、いきなりの発表会出場。大丈夫なのかと心配をしていたが、見ていると手つきもしなやかに踊りぬき、会場の客から万雷の拍手を浴びた。
  こんなに短期間で、よくもここまで上達したものだと感嘆したが、昨年12月20日のブログ「宝塚ミュージカル長崎しぐれ坂を見て」に書いていたことを思い出し、やはりそうだったのかととうなずいた。
  そのブログには「この孫には、どこか故養母の仕草と似たところがあるので、その見えない養母の手ほどきがあればかなり上達するのではないかと思っている」と書いていた。故養母は、舞踊や調方の三弦、筝などの芸ごとを一通り修めた人だった。この孫は、故養母の祥月命日にあわせるように生まれており、本当に手ほどきがあったのかも知れない。

2008年1月17日木曜日

見かけの良い人は悪い人か(心で感じる)

  NHK大河ドラマで篤姫が始まりました。予告編で篤姫の母が篤姫に対して、『考えるのを止めるのです。(心で)感じるのです』と言う場面がありました。どういう状況の中での発言かはわかりませんが、この言葉は、そのまま神仏を信心するときの基本ともいえると思います。自分本位で物事を考えていると、自意識が過剰になり、判断があまくなったりして失敗することがあります。それは、内面から語りかけてくれている守護神の指示・誘導を見落としているからです。
  今日は、この言葉を、縁あって出会った人が良い人か悪い人かの見分け方に応用してみましょう。まず、一見見かけの良い人は悪い人ではないかと思ってみてください。すると、冷静に相手を眺めることができます。その人が良い人か悪い人か、表面的な見せかけだけを見て、考えるのではなく、心で感じる訓練をしてください。まじめな人は、見せ掛けの良い人にだまされやすいので、だまされて泣きをみないためには、常にこの思いを持っていてください。
  悪い人は、多くの嘘を隠して、虚言を弄して、ことさら自分を良い人に見せようとします。そんな人を良い人と思って付き合っていると、必ず騙されます。商売関係のみならず男女関係でもそうです。騙されると金銭的浪費と精神的負担で泣く羽目になりますので、多くの会話を交わすなかで、相手を冷静に見ることができる心の感性を養って行きましょう。
  「篤姫」では、第1回と第2回に悪家老といわれた調所(平幹二郎)が出てきますが、本当は命賭けで藩政改革を行い、藩を救った恩人だったのです。篤姫の言葉に素直に耳を貸し、努力する実直で素直な人だった。本当に良い人は、自分を良く見せようとしないので理解されないことが多い。
  今日は、素直な心で信心する人に人を疑えと言っているみたいですが、素直な心で相手に接していれば、いちいち考えなくても、必ず相手の虚言を見逃すことのない冷静な目、そして心で感じる力が培われてくるはずです。皆さんは、今、自分のそばにいる人を、表面だけ見て、とても良い人と思ったり、言ったりしていないでしょうね。(本稿は、1月7日初権現供養会で話した抜粋)

2008年1月11日金曜日

人情たっぷりアメリカ人のラーメン

  元旦のTVで「人情たっぷりアメリカ人のラーメン」が紹介された。
  ラーメン店の主人は、ニューヨーク出身のアイバン・オーキンさん(44歳)で、東京の住宅街の片隅にある今はさびれつつある昔ながらの商店街に出店したアイバン・ラーメン店では、開店時間になると、どこから現れたのか人の列ができて、毎日150食を売り上げるという。彼の並々ならぬ味へのこだわりが、自家製のスープと麺の味を生み出した。
  そればかりではなく、「商店街のみんなが一緒に商売している気持ちが欲しかった」といい、仕込みの合間をぬって商店街の人たちと軽口をたたきながら心のふれあいを大事にしている。
  レポーターが、「ここでラーメン店を開業しようと思った理由は何か」と問うと、彼はすかさず「たんぽぽです」と答えた。その意味の説明がなかったので、そのときは何のことかよくわからず、心の片隅に疑問として残っていた。
  「たんぽぽ」は私の好きな花、それなのにどうしてわからないのかと自問自答しているうちに、ふと伊丹十三監督の映画「たんぽぽ」に出てくる下町人情とラーメンに対するこだわりの場面を思い出した。
  伊丹十三記念館の中庭には、彼が好きだった「たんぽぽ」の花が植えられているというが、彼は、自分の好きな花の名を題名にして、下町人情とラーメンを題材にした映画を作っていたのだ。この映画に影響されたアメリカ人がいて、それを地で行くようなことをされている。改めて何とすばらしいことかと思った。
  薄れ行く近所付き合いや人情が今も生きている、うれしいですね。人の寿命は、偉くなろうとなるまいと知れている(決まっている)のですから、殺伐と摩擦ししのぎあって生きるのもよいが、そんななかでも人情ある人と人とのふれあいや支えあいが多くある人の人生の方がよいと思う。

「デット・ゾーン」の一つから

  5日に見たTV「デット・ゾーンseason2」でのことだが、サイキックのスミスが、ボクサーのダニーと握手したとき、ダニーが次のボクシンングの試合中、最終ラウンドにリング上で死ぬ光景を見てしまったことからドラマが展開する。
  スミスは、何とかこの試合をやめさせようと行動するが、その行動がかえって誤解を生み、事態は悪化し行き詰まってしまう。そんなとき、友人から「希望を現実にするには信じることだ」と言われる。
  この言葉を聞いてスミスは、発想の転換を図り、今度はダニーに「君は死なないで勝つ」と今までと反対のことを言い出す。そのように自分が思い込むことで、先に見た光景を打ち消そうと思ったのである。
  果たして試合は、最初に見た光景のとおりに展開し、ダニーはリング上で昏倒する。しかし、カウントアウトになる前に起き上がり、今度は見違えるように相手を攻撃しロープに追い詰めるが、試合終了のゴングが鳴る。判定の結果、ダニーは試合に負けたが、死ななかった。
  試合後、友人から「どこが(生死の)分かれ目だったと思う」と尋ねられ、「小さな変化によって全てが変わるんだ。変化したのは君のお陰かも。信じたいと願うものを信じるんだ」と答える。友人は「信じることが別の誰かを動かしたんだからね」と言って立ち去る。
  その後、ダニーと次のような会話を交わす。「言っとくけど俺は負けたよ、でも俺は死ななかったし」「相手はゴングに救われたようだった」「そうかもしれない、だけど、どうだろう、サイキックとしてはまずいんじゃないの」「そうだな、悲劇だよ、本当に」。
  このTVを見ていて凄いドラマだと思った。確かにサイキックが予言したことが予言どおりにならないとサイキックとしては失格かというと、そうとばかりは言い切れない。それが悪い予言であったら、それを聞いた人は、そうなってはいけないと強く自分の意思に言い聞かせて、それを信じることにより、悪い予言を好転させることができるからです。
  しかし、これを自分たちに置き換えてみると、なかなか自分の意思を強く持つとは至難なところがあります。そんなときは、ご先祖やご先祖に関係のある神仏に懸命にお願いし、すがることです。いわゆる苦しいときの神だのみですが、これが大事だと思う。
  苦しいときの神頼みが、自分の信心に対する「小さな変化」であった考え、それによって救われることができたら、きっと「別の誰か」、つまり目に見えない先祖や神仏が動き、その働きがあったと信じることができるようになるかも知れないからです。
  ただ、このサイキックをまねて、自分たちが売っている物を信心しなければ死ぬなどと言って恐怖感をあおる嘘の霊能者による霊感商法が横行していることには強い憤りを感じます。

2008年1月5日土曜日

新年の観音堂等参拝で教えられたこと

  家族で、観音堂、権現祠、八幡宮に新年の参拝に出かけた。久しぶりの晴天で、山里の空気も澄んですがすがしかった。
  観音堂で、以前、ご寄進した4個の灯明立て(鋳物)の配置が変わっているのに気づいたので元に戻そうと移動しているうちに、このうち2個だけが同じ大きさであることに気づいた。
  そこで改めてお伺いをして、この2個を中央の観音像の前に配置したら、不思議と全体の配置が安定して気持ちよく参拝できた。こんなことで気持ちまで安定するとは、一つの気付きを教えられた。おそらく地元の人がお堂内を清掃されたときに動かされたものと思うが、こういう形をとって観音様が配置変えを教えられたのかと思った。
  また、昨年暮れにRがお供したお神酒がそのまま残っていたので、本日の参拝でお供したお神酒と一緒に、参拝後、お堂の回りにまいた。お神酒の香りが漂い、この香りが微風に乗って辺りを清める。私たちの心身も清められたと思う。
  権現祠では、以前置いていた灯明立て(陶器)がいつの日かになくなっていたので、本日、灯明立て(鋳物)を持ってきて祠内に置いた。と同時に娘が、祠の横にある樹木の根元を指差して、「あれじゃない?」と言った。確かになくなっていたと思っていた灯明立てが落ち葉のなかに転がっていた。
  こんなに近くに落ちていたのに、どうしてこれまで気がつかなかったのだろう。冬になり、覆いかぶっさっていた落ち葉が飛んだのでわかったのだろうか。でも誰が、突風なのか、それとも動物か、夜行性の猪は、夜になると餌を求めてこの権現祠のある山裾や山里を徘徊しているのかも知れない。
  あまり汚れていなかったので、指でなで拭き祠内に置いた。結局、本日持ってきた灯明立ては持ち帰ることになった。しかし、なくなっていたと思っていた灯明立てが出てきたので、なんだかうれしく、それを権現様が娘に教えてくださったのだと思い感謝した。
  ここは山裾の崖上の林のなかにあり、今日も結構な風が吹いていたが、この灯明立てに立てた明かりは、勤行が終わっても燃え続けていた。この明かりは、権現様の喜びであり、それだけの力があることを示してあるのだと思った。自分の心身を空にしてこの力をいただけるようにしなければならない。灯明立てを手で持って火を消して崖を下った。
  八幡宮拝殿に昇り、久しぶりに参拝した。拝殿の壁に、昨年秋の改修寄進者名簿が掲げてあるのに気づいた。拝殿横の崖崩れの補修工事が行われたようだ。こういった改修工事に地元各地区の氏子が費用を寄進される姿がうれしい。
  境内の広瀬宮で参拝している間、その後方の杜で数羽の鳥のさえずる声がずっと聞こえていた。自然の中に立って参拝している自然な姿、この呼吸こそが自らの体内に気が入ってくる瞬間であるのに、日々多忙にして心身が疲れきっているとこの感覚を忘れそうになる。
  ここは、かつて私が、この神社を初めて訪れたときに山の神の気を体得した場所である。きっと神は、その呼吸を思い出せと、鳥のさえずりをもって教えられたのだと思う。

2008年1月2日水曜日

今和泉様の年賀状に「篤姫」

  鹿児島の今和泉様から戴いた年賀状に「NHK天璋院篤姫。半世紀近く前に、昔…という話が現実になりました。『私の年です』と自己紹介しています。」と記されてあった。
  私の居住地近くには、今泉姓の家はたくさんあるが、今和泉姓はない。それだけに、数年前、今和泉様と知り合ったとき、この人は由緒ある旧薩摩藩今和泉島津家につながる人ではないかと思ったが、立ち入った話はしなかった。この年賀状を見て、実は安堵した。
  この「NHK天璋院篤姫」とは、1月6日にスタートする今年のNHK大河ドラマ「篤姫」のことで、宮尾登美子原作の「天璋院篤姫」を田渕久美子が脚色、篤姫に宮崎あおいが扮する。以前、皇女和宮を秋吉久美子が演じ、篤子役を藤(宮司)純子が演じたドラマが、私の記憶には残っている。
  篤姫は、薩摩藩島津家の分家の一つ今和泉家の当主島津忠剛(ただたけ)の娘(おごじょ)一子(かつこ)[ドラマでは於一(おかつ)]のことで、鹿児島鶴丸城下の今和泉島津家本邸(鹿児島市大竜町に敷地跡あり石垣残存)で出生した。後に藩主島津斉彬の実子として鶴丸城に入り名を篤姫と改め、徳川13代将軍家定の正室(御台所)となり、落日の徳川家を背負い毅然として幕末を乗り切った才女である。天璋院は、家定落命後に落飾して名乗った院号である。一般には、あまり馴染みのない天璋院篤姫がTVを通じて全国に浸透することは喜ばしい。
  篤姫の郷里鹿児島市では、この大河ドラマのTV放映に合わせて、1月6日から約1年間、ドルフィンポート内(鹿児島市本港新町5-4)に篤姫館を設置し観光スポットとするらしい。また、指宿の今和泉周辺には篤姫とゆかりのある今和泉島津家別邸跡や同家墓地などもあり、1月12日から1年間、いぶすき篤姫館(ふれあいプラザなのはな館内)も設置される。
  主演の宮崎あおいは、インタビューで、年老いた養育係菊本(佐々木すみえ)がいう「女の道は、一本道でございます(前へ進むしかない)。引き返すのは恥でございます」というセリフに「ジーンときました。昔の人の方が今の人より生きることに真剣に向き合っていたように思います」と言っていた。この精神と覚悟があったので、篤姫は、婚姻後わずか1年余で家定が没した後、薩摩藩からあった帰国要請を拒否し崩壊する徳川幕府と命運を共にしたのだと思う。現在においては、引き返すことは恥とは思えないが、この言葉は、人生は愚痴を言わず前向きに生きよという諭しなのだと捉えたい。
  今和泉様の年賀状に、今年は『私の年です』と書かれているのを見て、篤姫同様にこれからの人生を前向きに生きて行くといわれているように思えて、薩摩の女性の力強さを感じ嬉しかった。

2008年1月1日火曜日

雲悠々水潺々(くもゆうゆうみずせんせん)

  平成20年(2008)新年にあたり、五條順教管長が現在の心境や今後の生き方について禅語や仏語を引いて表された言葉を「金峯山時報」元旦号に掲載されたが、この言葉は、そのなかにあった禅語です。管長の文章の一部を、そのままここに転載させていただきます。
  「嶺のポッカリと浮かんでいる白雲は、悠々として動かず、閑静な風情である。渓川の水はサラサラと音をたてて流れ、停滞することがない。しかし、雲も水も共に何のとらわれもなく全く自然な姿である。全てに対して一切のこだわりがなく、また一切のとらわれがない、悠々閑々とした、あるがままの境涯を表しています。『雲悠々水潺々』を現在の私の心境というのは、甚だおこがましい境涯であります。私の理想としている境涯といった方がよいでしょう。日々の生活(日々の生活即修行が私の修行観であります)は、それを目指したものでなければなりません。たとえ生涯達成されなくとも、目指し続ける姿勢が尊いのです。私はそのように思っています。」
  この言葉、この内容、思い出した。それは、私が30代の頃、御守護神を求めて、何かに憑かれたように山や滝での行に明け暮れていたとき、ふと教わったことだった。当時、同じ修行者のなかで、少しでも先に抜きん出ようとあせっていた。そして、このように行を競うようなことをしていたのでは、絶対に神の存在を悟ることはできないと気付かせられた言葉であった。修行は、あせらず、競わず、雲や川の水の流れのように自然体で行うことが必要と語りかけられたのであった。私に語りかけられた目に見えない存在こそが守護神であったと思う。あせらなくても守護神は必要なときに必要なことを教えてくださるものだと分かったとき、私は、修行の階段を一歩上った。
  今、また管長からこの言葉を聞くとは、その頃のことを今一度思い起こせとのお諭しであると思った。考えてみると、最近、修行の指針を忘れかけていたような気がする。