2007年8月19日日曜日

朝青龍の謹慎処分と横綱の品位について話す

平成19年8月7日のこと
  蔵王権現供養会で、連日報道されている朝青龍の処分について私見を話した。
  朝青龍が肘の疲労骨折を理由に、相撲協会に相撲巡業欠席届を出し、親方に黙って母国モンゴルに行き、持ち前のサービス精神を発揮し少年サッカー競技に参加してサッカーに興じている映像がマスコミに流れ、日本相撲協会から「2場所休場、自宅謹慎、給与30%カット、高砂親方も給与30%カット」等の処分を受けた。朝青龍は、その後、自宅に引きこもり、うつ的症状に陥っているという。
  私は、この処分に関して、当初から相撲協会の処分の仕方に対して疑問を感じている。まず相撲協会は朝青龍に対して、これまで横綱としてのあるべき姿、品格の指導をしてきたのか、今回の処分を発するにあたっても朝青龍に対してその理由を十分に理解できるように説明をしたのか。彼が横綱としての品格を保っていないのであれば、その指導をしてこなかった相撲協会にも責任がある。仮にしてきたとしても横綱がそれを理解していなかったから今回の事態が発生したのであり、その責任は、親方だけではなく、協会にもある。北の湖理事長以下の全理事は、横綱に対する指導力不足に対して、自らをも処分の対象とすべきではないのか。
  今まで1人横綱として勝ち続けるために踏ん張ってきた朝青龍にとっては、白鵬という横綱ができたので、品格のないお前はもういらないと言われているようなもので、憤懣やるかたないと思う。今回の処分は横綱の生命を奪ってしまうようなものである。処分とは、本来本人の反省を促し、今後同じような過ちをしないように誓わせるべきものだと思う。これでは、これまで相撲に貢献してきたと思っている横綱にとっては屈辱感を味あわせるだけで耐え難いと思う。要するに本人に反省する機会を与えず、いきなり重い処分をしすぎており、処分を下した協会に、何ら自らの反省の姿が見えてこないということなのである。
  では、なぜ横綱には、品格が必要なのか。それは横綱がつけるまわしに意味がある。もともとは、相撲の最高位は大関であり、その中で横綱のまわしをつけられる者は限られていたという。その選定には、相撲が強い(力量)だけではなく、品格が必要であった。それは、横綱のまわしは、神様の神域を表す注連縄であり、その注連縄をつける者は当然神様でなければならないからである。神様である以上は、人に崇められる神様としての品格は必要である。
  ついでにいうと相撲は、日本の神様に奉納するものであり、神社の境内に土俵が作られるのはそのことを表している。その意味で国技であり、国技であるが故に天覧相撲として天皇がご覧になられる席が国技館には設けられているのであり、本来相撲は、外国人がとるものではなかったと思う。風習の違う外国人を横綱にするのであれば、このことを十分に納得させておくべきである。日本の神を崇敬できない横綱などあり得ないことだと思う。土俵が、地表より一段高く作られるのは、人がいる地表より上に神はおられるからである。つまり「上」は「かみ」で「神」である。土俵の周りに敷く縄は、これもまた神の結界を現す注連縄であり、、土俵の中は神の世界であることを示していると思う。したがって、土俵に上がって相撲を取るとき、神の世界を汚してはいけないので塩をまいて土俵上に邪気が入らないように祓い、清めているのだと思う。力士が四股(しこ)を踏むのも、地表の醜(しこ)を踏みつけているということで、かつては力士に四股を踏んでもらい地鎮祭をしていた例もあるという。この意味では、相撲を取る力士はすべて神に恥じない品格は必要である。ましてや、神であることを示す横綱の注連縄をつけ、自らが神として土俵上に上がってくる横綱には、神として崇敬されるだけの品位、品格が必要である。
  前々から朝青龍は強いだけで横綱としての品位、品格がないといわれていたが、20代そこそこの若者を横綱とした後、横綱としての品格、行動がいかにあるべきかを十分に理解させるための指導を怠ってきた協会に問題があると思う。協会は自らを裁き、襟を律すべきである。伝統、格式を重んじつつも、現代の若者の世相に対応できる柔軟な指導方針を確立してほしい。襟を正し、これからの相撲界がいかにあるべきかを今、真剣に検討していないと、閉鎖的な相撲界にあっては、これからも不祥事が続出すると思う。
  私たち修行者は、人を好き嫌いだけで判断するのではなく、非は非、是は是としながら、公平に物事を見ていく精神を育まねばならない。人を裁けば、自らも同じ裁きを受ける覚悟が必要である。

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