2007年11月30日金曜日

「魁皇」カド番脱出に思う

  さる平成19年11月24日の大相撲九州場所14日目に、大関魁皇が琴光喜を下手投げで破り11度目の大関陥落のカド番を脱出した。負け越せば引退と言われていただけに、喜び一塩であったろう。来場所も取り続けると決意を表明した。満身創痍の35歳で、もう横綱への夢は絶たれたが、それでも頑張り続ける姿は、痛々しくもあるけど、フアンとしは勇気付けられる。 のりのり
  今でも、横綱に推されても良い時期に、横綱審議会に要請しなかった北の湖理事長の先見の明のなさを残念に思っている。いろんな業種においてもトップの先見の明のなさが、その後の社運、人心を傾かせることがある。私は、相撲人気の大下降、不祥事の多発、九州場所の不入りの原因のひとつは、この理事長の先見の明のなさにあるのではないかと思っている。
  翌25日の毎日新聞に、10日目に魁皇を破った豊の島は取り組み後、「空気をよめよ」という雰囲気があった、升席から「こういう時は負けるもんだ」との声が飛んだ。という記事が掲載されていたが、勝負の世界に甘えは許されないものの、この「空気を読め」という言葉には、どこかうなずかされる。先見の明には、この空気を読む力も必要なのではないのか。
  なお、私の家族は全員、魁皇ファンなので偏見があるかもしれない。娘は独身時代に魁皇に書いてもらった色紙を今でも大事に家に飾っている。

フタタ志免店の女店員の対応の良さ

  初めて妻とフタタ志免店に行った平成19年11月23日のこと。この店のことは、娘から聞いた。
  店舗内に入り、ハーフコートを探していたら、女性店員が寄ってきて「コートをお探しですか」と声をかけられたので、「はい」と返事したら、すかさず「こちらのはいかがですか」と言われた。「レザーは好きじゃない」と言うと、すぐにその横にあったポリエステル生地を勧められた。店員が私の背格好を見て、手にされたものを試着したら、寸法も丁度で、着心地もよく、即座に見事な見立てだと思った。
  「このコートは、当店の推奨品で、軽くて着心地もよく、中の生地は取り外しができます」「今は、オープンセール中で、お買い得です」などと親切に説明をされた。客扱いの上手な店員だった。もちろん即決で購入した。
  妻が支払いをしている間、玄関付近つるしてあった安いネクタイを手にして見ていたら、妻がその店員と近寄ってきた。実は、その横に吊るしてある靴下を、「今、靴下5足セットを特価で販売していますが、いかがですか」と勧められたためだった。
  さらに、「ネクタイをお探しですか」と言って、すぐにネクタイを手にして「これなどいかがですか」と言われた。こんなに安いネクタイまで選んでもらい恐縮したが、見ると流行色のセンスのよいものを選んでおられた。その販売熱心さもさるものながら、見立ての速さにも感心した。
  ポイントカードも勧められ作成した。考えてみたら、この店員の勧められたものはすべて購入していた。支払いが終わった後、玄関まで買ったものを持ってきてくれた。
  初めてこの店に来たが、この店員のソフトタッチのそつのない対応や、それと感じさせない販売意欲は、この人の持ち味なのだろうと思った。妻も、ほんの少し予定外の買い物をしたけど、この店員の対応には「感じの良い人」と言って満足していた。社員教育をしっかりされ、よい店員を雇われている店だと思った。
  私は、この店員を見ていて、昨年、順次、私の許を巣立っていった4人の女子社員のことが思い浮かんだ。この4人も、この店員と同じくらいすばらしい天性と個性の持ち主で、感じがよく、多くの客から好かれ、評判の高い人たちだった。
  この日、わずかな買い物ではあったが、フタタ志免店で買い物してよかったと思った。

2007年11月24日土曜日

「花いくさ~京都祇園伝説の芸妓・岩崎峰子」を観る

  昨日、フジTV(TNC)で、京都祇園甲部の芸妓岩崎峰子の波乱の半生を描いたドラマを見た。 はし
  4歳で置屋「岩崎」の門をくぐり、一見華やかに見える祇園の、その裏に潜む生々しい女のいくさの世界のなかで力強く育っていった彼女の生き方には、前々から敬服し、以前、彼女が書いた本「祇園の教訓」を買って持ち歩き何度も読んでいたことがあった。彼女は、岩崎家の跡取りとして、1965年舞妓となり、その翌年から6年間売り上げナンバーワンを記録した伝説的な人である。
  このドラマでは、恋に翻弄される女たちの姿を中心に描かれていた。峰子も俳優高宮(仲村トオル)に恋をするが、やがてその恋を自ら断つ。この峰子役を井上真央が演じていたが、どこか若い頃の峰子の写真に似ていると思った。実際の峰子も、この役のように感性が強く毅然とした人であったのだと思う。
  そして、憎まれ役の姉を戸田菜穂が演じ、ドラマを盛り上げた。私は、戸田菜穂が出ているテレビは目ざとく見ており、彼女のことになると少し贔屓目になってしまうので、ここでは述べない。
  ところで、私が岩崎峰子のことを知ったのは、2005年に読んだ「生命の暗号(樹門幸宰著)」だった。彼女は、岩崎家の養女になる前から数えて4回名前を変えて、現在は「岩崎究香」の名で著述業などで活躍中という。「究香」と書いて「みねこ」と読ませるのだが、彼女は「香りを究(きわ)める」という名前で随分と気に入っているという。
  なお、この本が述べている名前の解読法は、すっかり忘れてしまったが、「名前は魂と結びついている」「姓名には魂の暗号が仕組まれている」「満ちれば欠ける、欠ければ満ちる家三代の興亡の法則」等の内容にはうなずけることが多々あった。
  (追伸) 私の知人に同じ字で峰子という人がいる。女性では珍しく御守護霊に男神がつかれている。そのための辛苦を舐められてはいるが、徳を積みそれを乗り越えるだけの精神力も身に付けられている。正義を貫く心情の持ち主ではあるが、情も深く、私にはとても真似ができない強い人生観を持っておられる。その生き方を見ているといつも励まされている。同じ名前から受けるイメージはよく似ていると思う。
 ☆画像は、井上真央と戸田菜穂、http://www.fujitv.co.jp/hanaikusa/story.htmlからお借りしました。

英彦山麓大混雑で登山断念

  昨日、久しぶりに車を飛ばして英彦山に行った。前回行ったのは平成8(1996)年11月だから、今月は丁度11年ぶりになると張り切っていた。当時なかった新道(車道)ができているので、銅の鳥居まで快適に登って行けることを想像して運転していた。しかし、新・旧道の分岐点付近から渋滞して、のろのろ運転になった。ここで約1時間かかり、やっとの思いで「しゃくなげ荘」に着いた。これではいつ銅の鳥居に到着するかわからないと思い、ここで登山を断念した。
  多分、この多くは「紅葉狩り」に来られている人たちではないかとは思うが、英彦山は、今や銅の鳥居から奉幣殿まではケーブルカーも開通して、信仰や登山者の山から観光の山への比重が大きくなっているのかも知れない。今後、休日に登山するときは、夜が明ける前に到着するような計画を立てて出かけねばならないと思った。
  英彦山の紅葉といえば、若い頃、山中の岩壁に如来の梵字が刻み込まれている「梵字岩」を登拝したとき、その前で見た紅葉の鮮やかさが今も脳裏に残っている。以後、どこで紅葉を見ても、これを超えるものはないと思っている。
  「しゃくなげ荘」にはレストラン、天然温泉があったので、温泉に浸かっていくことにした。露天風呂でゆったりした気分になったとき、ここが、すっぽりと山の神の霊気に包まれていることに気づいた。考えてみると、英彦山神宮の一の鳥居は麓の谷川沿いにあったので、そこから既に神域に入っていたのである。そうすると、渋滞でのろのろ運転をしていた間もずっと山の神の霊気をいただいていたことになる。
  やはり英彦山は、修験の山で、山全体が神の霊気に包まれているようだ。このことを改めて気づき、同時にこの山の神の恵みをいただいたことが分かった。登山は断念したものの気分爽快となり、ありがたい気持ちで帰路につくことができた。これも正見行脚だった。   

2007年11月19日月曜日

高島先輩の「地を這いて光を掘る」を読んでいて思い出したこと

  西日本新聞の「聞き書きシリーズ」に、現在、佐賀女子短大学長である高島忠平先輩の「地を這いて光を掘る」が連載されている。全国的にその名が知られている国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」の発見と発掘に直接関わった高島先輩が、現在に至るまでの辛苦を思い出風に語られている。読んでいると先輩の心の中の動きまでがありありと分かり興味を引く内容となっている。
  私も、これまで何度か吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあるが、行くたびに周りの様子がめまぐるしく変わっており戸惑いを覚えた。今は、発見当時の様子を偲ぶことができないほど整備されているが、私は吉野ヶ里の吉野という地名に興味を持っていた。金峯山寺のある吉野山の吉野と同じ地名のためではあるが、その地名の由来を尋ねようとして、いつの間にか放置している。探究心の放置は若さの喪失かもしれない。
  さて、私が高名な人を捉えて「高島先輩」と書いたのは、高校時代に入部していた郷土部の3年上の先輩だったからであるが、入学当時、浪人中であった先輩は、たびたび部室を訪れ、熊大に進学された後も熱心に後輩部員の面倒を見られた。私もこともほか可愛がってもらい、郷土史研究の手ほどきを受けたことを今でも大事な思い出にしている。
  シリーズの第26回(11月15日)の文中の「僕は1939(昭和14)年、福岡県飯塚市のうまれ、ただ、おやじとおふくろは佐賀県の三瀬村(佐賀市)出身です。おやじの妹夫婦が…吉野ヶ里にも近い仁比山(神埼市)という集落に暮らしていて」という語りに思わず目が留まった。そして、忘れかけていた次のようなことを思い出した。
  ①高島先輩の御両親の出身地が佐賀県であることをいつ耳にしたかは、はっきりとは覚えていないが、確かお母様のご先祖が私と同族であったような記憶がどこかに残っている。また、ラグビーをされていた長兄の啓介氏は、私の大学の先輩であった(第29回に掲載あり)。
  ②以下の記述は、高島先輩とはまったく関係のないことで、上記の地名(神埼市)を見ていて思い出したことである。
  先祖のルーツを求めて各地を行脚していた頃、佐賀県下にも足を踏み入れた。高速道路もない時代に、それこそ休みのたびに佐賀県下に足を伸ばし走り回っていた。当時どうしたものか、俗に言う「霊を受け被る」状態が続き、その流れのなかで長い間、神社の鳥居をくぐることができなくなっていた。
  ところが、神埼市の櫛田神社の鳥居の前に立ったとき、突然、すっと体が引っ張られ、そのままさっと歩き出して鳥居をくぐって境内に入った。同行していた一教師が、びっくりして思わず「先生!」と叫んで呼び止めたほどだった。そして、思いもしなかった場所にあった櫛田の神の霊地に導かれた。今でいう正見行脚の記念すべき一瞬で、この日を境にいずこの神社でも鳥居をくぐれるようになった。ここは、博多の櫛田神社の元宮のようである。  さらにその後、仁比山の外れにある霊地に導かれて行ったことなど、いろいろ忘れていたことを思い出したのである。
  ③ついでにいうと上記記事の地名からは少し離れるが、当時の佐賀県下での行脚の最後となったのが武雄市の松尾神社であった。この松尾神社の境内に入ったとき、ゲートボールを楽しんでおられた老人が側に寄ってこられて拝殿に案内され、その扉の鍵を開けられて、かしこくも御一緒に参拝されたのである。やむを得ずは白衣を羽織り当時覚えていた祝詞をあげたが、不思議に思い尋ねたら、「あなたが神官だから」と言われた。これと同じようなことが他の地でもあり、その場にいた人には、私にはまったく見えない御守護霊のお姿が見えていたのかも知れない。以後、まったく同神社に行ったことはない。 なお、上述②の博多の櫛田神社境内にも松尾神社がある。
  ④また、脳裏にあった先祖とも関係のある千手観音のある場所を求めて佐賀県下に入ったとき、神仏に導かれるように潮塞観音(福冨町)に行き着いたことがあった。大正3年8月、台風による高潮被害を食い止めたところからその名が付いたという。その後数回参拝に行ったものの、平成6年8月27日を最後に以後訪れた記録がない。
  高島先輩の新聞連載を読んでいて思わぬことを思い出したものだ。そして、私は、忘れかけていたこれらの地区に「再度思いを馳せよ」という知らせを先祖から頂いたのではないかと思った。私の正見行脚の修行は、高年の域に達して「再度振り出しに戻ってやり直せ」といわれているのかも知れない。