2007/10/01西日本新聞朝刊で『茶道「南坊流」中興の祖立花実山300回忌で法要 墓所の東林寺南坊会理事長が「供茶」』と題した次の記事を見た。
「茶道の流派の1つ「南坊流」の中興の祖として知られる立花実山(1655‐1708)の300回忌法要が30日、福岡市博多区博多駅前3丁目の東林寺(梅田泰隆住職)であった。実山は福岡藩の家臣で、茶道や書画、和歌に精通していた。法要は同寺の開山に尽力し、墓所もある実山を供養するもの。南坊流を継承する福岡の南坊会の関係者や、同寺の檀家など約100人が参列した。法要では同会理事長、櫛田神社(同区上川端町)阿部憲之介宮司(54)が供養のお茶をたてる儀式「供茶(くちゃ)」を披露。また、同寺とゆかりのある大乗寺(石川県金沢市)の東隆真老師(71)らの読経に合わせて参列者が焼香し、実山の霊を慰めた。檀家らでつくる同寺婦人会の柴田敏子会長(82)=同市早良区=は「市美術館の記念展を見て実山の興した茶道の奥深さを感じた。今日は立派な法要でした」と話した。同市中央区大濠公園の市美術館では、立花実山300回忌を記念した「南方録と茶の心」展が開かれている。21日まで。」
私は、47年前、高校3年(1960年)のときに研究発表した「野村隼人正裕直の墓」(嘉穂高校機関誌「龍陵3号」掲載)のなかで「立花実山」について触れた部分がある。上記の新聞記事を見て、それを思い出して、掲載誌を書斎から取り出して読み直した。若き時代、郷土史に関心を持っていた自分に改めて思いを馳せた。
ここにその「立花実山」について触れた部分を転載しておこうと思った。何しろ当時高校生だった私が書いた文章なので誤記もあると思う。たとえば「南坊流」のことを「南法流」と記したりしているが、間違いは間違いとして原文のまま転載する。
「六、立花実山横死の地 茶道には一般的な表千家、裏千家流等その他数流派数えられるが、その一つに南法流という流派もある。現在博多に五百人程の人を持っており、毎年一回福岡市中人参町東林寺に於いて盛大な茶会がその人達によって開かれている。この会は実山会といわれ南法流の創始者立花実山の名をとってこう呼ばれるのである。立花実山とは福岡藩黒田光之時代の二千石取りの重臣である。実山は有名な書籍収集家で、時たま偶然にして千利休実筆の茶道秘伝書を手に入れ、その書を読むに当世の茶道の精神が利休の精神を遠のいている事に痛感して南法流を起こしたといわれる。果たして現在の南法流がこれまた実山の精神をそのまま受け継いでいるかと言えば疑問であるが、この実山会を見学すると夫々各人好みの派手な着物に身をかためた若い人達の姿が目を引き、豪勢そのものという感じがする。別に南法流を宣伝している訳ではないが、さてこの立花実山は鯰田に横死している。どうしてであろうか。
当時、黒田藩財政上の収入の一つとして密貿易の利益があったが、この密貿易に対して立花実山は忠告をしている。しかしこの事は藩公の気にさわり、あわや上意打ちとなるところを鯰田野村家お預けの身となった。妻を野田家から迎えている関係上、野村家に顔を立てるという面目もあった事であろう。所が藩主の反感は強く刺客をはなちついに実山を遠賀川畔に呼び寄せて妻子もろとも殺害している。これは秘史とされていた様である。実山の死体は川のシガラミ(柵)にかかり火葬されて東林寺に埋葬されている。妻子の遺体は晴雲寺に埋葬され小さな石碑を建てその横に観音堂を建てたといわれている。立花家は二千石取りの家柄でありながら実山鯰田横死により代は絶えてしまっているが、実山の人間性は茶道南法流として残っている。
東林寺も(晴雲寺と同じ)曹洞宗で実山の開基である。これら実山や野村家との関係については東林寺現住職梅田信隆氏が詳しい。」
家が絶え、代が絶えても、実を残し、今日に至るまで、その功績を偲ぶ人たちによって供養が続けられているということは、何とすばらしいことだろうと思う。今日、成功をおさめた人たちの中で、その死後も多くの人に慕われ、多くの人から代々にわたって供養を続けられるような人が果たしてどれほどいるのだろうか。
私の手元にある上記の掲載誌に、当時東林寺住職であった梅田信隆師から頂いた手紙や当時の野村家当主の野村宗秀氏から頂いた手紙などが挟んで保存されていたので、本当に懐かしい想いがした。それと気付かないままに年月は過ぎ去り、人々も過ぎ去る。
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