2008年7月31日木曜日

英語でしゃべらナイト英検合格!若村麻由美

  「英語でしゃべらナイト」で、「バツグン英検from篤姫」(7/25NHK放送)という企画があり、大河ドラマ「篤姫」に徳川慶喜役に扮している平岳太(ブラウン大で学ぶ)を中心にして英語談義が展開していた。その他、この英検検定を受けた人たちは、それぞれ「篤姫」出演時の衣装を着ていた。
  なかでも、稲森いずみ(大奥総取り締まり滝山役)の英語力はすばらしく、その発音を聞いていた高畑淳子(徳川家定の母・本寿院役)が「綺麗なのは顔だけかと思っていたが、(英語も綺麗ですばらしい)」とささやいたほどだった。
  だが、私の目を引いたのは、やはり若村麻由美だ。その若村麻由美に出された英検は・・・。
  「A long, loose robe with very wide sleeves, traditionally worn by the Japanese.」
  これに対して若村麻由美は、「Oh, this?」と言った後、マジック・インクで解答用紙に「KIMONO」と書き、「キモオノ」と答えた。
  「正解。しかもキモオノと英語発音になっていましたね」
  「Yes」
  「本当は、英語うまいんじゃない(の)ですか」
  「no. I don’t like English!」
   (嫌よ嫌よも好きのうち?)。
  お見事。そういえば、若村麻由美が初めて出たNHKホームドラマ「はっさい先生」(1987)で演じた早乙女翠先生は英語教師だったかな?
  もちろん英検受験中の若村麻由美も「篤姫」出演時の衣装を着ていたので、その番組収録の合間に受験したのかもしれない。いずれにしろ、もうすぐ「篤姫」での出番が近づいているということだ。その役は、皇女和宮(堀北真希)の実母・観行院で、和宮とともに江戸城大奥に入城し、篤姫(宮崎あおい)と対立する。私としては、英検合格もさることながら何よりも観行院(若村麻由美)の出番を楽しみにしている。
 ※画像は、若村麻由美、http://dir.livedoor.com/talent/profile?t=2000047355

2008年7月30日水曜日

今宵ゴージャス!・新妻聖子グー!

  昨夜は、「今宵ゴージャス!」(NHK総合TV)を見逃さず観た。
  エンタメハイツ「はじめとメグミ」の部屋で暮す「はじめ(小堺一機)」が、ミュージカル・エッセーを書こうとして行き詰まっていた。そこに、突然、窓から閃光が差し込み、ヘリコプターのプロペラ音が、そして、その旋風が吹き込んでくる。あっ、「ミス・サイゴン」の開幕を告げるヘリコプターだと思った。
  そのとき、「ミュージカルのことなら僕に聞いてよ」と朱色のジャケットを着た市村正親が現れる。抜群の演出効果だった。Vol.1は市村正親「アメリカンドリーム」、今宵ゴージャスを彩るアンサンブルの皆様の踊り、そして、ピンクのキャデラックまで登場した。
  次は、新妻聖子だと思い、その出番を待った。新妻聖子(キム)、井上芳雄(クリス)による「世界が終わる夜のように」、期待どおりのすばらしい声量によるミュージカルを堪能させてもらった。ベトナムの女性らしいメイキャップと衣装も素敵だった。ただ、TVでは、接吻シーンをカットしてほしかった。
  新妻聖子は、20日のブログに、NHKスタジオに本番さながらに再現された「ベッドは本物よりちょっと低めで可愛かったです(笑)」と書いていた。
  TV観賞後、本当に「今宵ゴージャス!」な気分にさせてもらい満足、ますます来春の博多座での「ミス・サイゴン」公演が楽しみとなった。
 ※画像は、NHKスタジオのセットでの新妻聖子、井上芳雄の記念撮影とか、http://www.seikoniizuma.com/blog.html

2008年7月29日火曜日

「今宵ゴージャス!」に「ミス・サイゴン」登場

  博多座メールマガジンに、7月29日(火)午後10 時~10時45分NHK総合TV番組「今宵ゴージャス!」のなかで「ミス・サイゴン」が取り上げられたとある。
  新妻聖子、井上芳雄による「世界が終る夜のように」、市村正親とアンサンブルの皆様による「アメリカンドリーム」などが放送されるそうです。本番の衣裳で、そして番組の名前のとおりゴージャスな雰囲気を醸すセットのなかで、テレビ撮影用の演出で披露されるという。
  新妻聖子のファンとして「ミス・サイゴン」の公演を期待している者としてはぜひ見たい。

2008年7月23日水曜日

山口淑子「夜来香愛の花」の色紙は宝物

  「今明かされる―李香蘭、そして激動の時代を生きた女たち―山口淑子本人が告白・李香蘭…70年目の真実…」という長いサブタイトルの付いたTV番組「歴史大河4時間SP・第2部女たちの中国」を観た(7月21日FBS)。
  日中戦争のハザマで激動する時代に翻弄され続け、生死を分けた山口淑子(李香蘭)ほかの女性たち(川島芳子、鄭蘋茹、愛新覚羅浩など)の真実を描いたものであった。
  だが、山口淑子には、テレビでは語られなかった戦後の、たくましく生き抜いた歴史もある。私は、その一時期を短期間ではあったが、山口淑子と行動をともにした思い出がある。
  「夜来香 愛の花 山口淑子」と達筆で書かれた1枚の色紙(印刷)を、当家の拝殿鴨居に掲げているが、これは、山口淑子が1974年(昭和49年)参議院議員選挙(全国区)に立候補する直前に書かれたものである。
  当時、限定で印刷されたものの、ほとんど配布されておらず、現在残っているものとしては、当家にあるこの一枚が唯一のものではないかと思う。
  当時、参院選全国区(現在はない)で選挙戦の指揮ができる人材は限られていたが、その1人として自民党選対本部から声が掛かった。会社を辞めて山口淑子後援会事務所に馳せ参じた。
  選挙期間中には、福岡県船小屋温泉から佐賀県北方町(山口淑子本籍地)方面、また、愛媛県松山市などで山口淑子と同行した記憶がある。当時、山口淑子を見ていて、タレントというよりは7カ国語を流暢に話す外交官夫人で、アラブを始めとする世界に目を向けたスケールの大きい国際人というイメージの方が強かった。
  その当選に向けて主として全国の組織を動かす活動に従事していたものの、選挙に素人の選対幹部の動きには憂慮していた。案の定、選挙戦終了直後に選挙違反の捜査が入り、その混乱に巻き込まれた。
  この混乱は、飛び火して妻との離婚騒動にまで発展し、当時3歳だった長女まで巻き込んでしまった。私にとっては、この選挙戦と選挙違反が政治の世界から大きく身を引くきっかけになった。
  このとき、唯一持ち帰ったものが、上述の一枚の「色紙」であった。離婚騒動は、仏壇で祈った御先祖の不思議な導きにより1年後終息した。後に自宅を建築し御先祖を祀る仏間・神殿を設けたとき、前述の自戒と家内安全を祈念して、この「色紙」を拝殿鴨居に掲げたのであった。
  TV映像で見た山口淑子は、お元気そうで、きちんと真実の話をされ、88歳という歳を感じさせない美貌も健在であった。陰ながら息災を祈りつつ、私は、改めて若き時代に政治に夢を馳せ挫折し、御先祖供養の大切さに目覚めて立ち直った日のことを思い出した。お陰で今日の家族の平和を得ることができたと思っている。それ故、私の人生で、一つの区切りとなった時代に手にした、この一枚の山口淑子の色紙は、私にとっては大切な「宝物」なのである。
  ※画像は、参議院議員時代の山口淑子、 http://www.awa.or.jp/home/kyonankk/rikouran.htmからお借りしました。

2008年7月21日月曜日

松尾大社夏越大祓「茅の輪」を玄関に設置

  6月晦日に京都・松尾大社夏越「大祓の神事」で無病息災の祈祷をされた小「茅の輪」をいただき、しばらく御神殿に置いていたが、今朝、玄関ドアの上の欄間に設置した。
  昨年は、設置の仕方が甘く、台風4号通過前に風で「茅の輪」を飛ばしてしまった。だが、その直後、何かが気になり玄関のドアを開け、玄関ポーチの横に落ちている「茅の輪」に気付き、運よく雨で濡れる前に拾い上げることができた。台風通過後、風で飛ばないような工夫をして設置しなおした。この経験があったので、今回は、最初から「茅の輪」を結んでいる紐の上部をしっかりと欄間の留め金に固定した。
  夏越大祓の神事は、古来より毎年6月晦日に宮中や全国の神社で斉行されている儀式です。夏越大祓で祈祷され、神の霊力が宿ると信じられている茅の輪をくぐると、私たちが知ってか知らずに犯した罪穢れが祓い清められるといわれています。
  今年前半、良いことが多くあったと思う人は、後半もその喜びが倍加するように祈念し、また前半、心労多く、あまり良いことがなかったと思う人は、後半その分、運気が好転するようにと祈念して、このブログを見ながら合掌してみましょう。日々自己反省し精進する人にはきっと光明がさすと信じます。

2008年7月20日日曜日

福岡打ち水大作戦2008が開幕

  19日から夏の土用入り、いよいよ本格的な真夏の暑さのシーズンを迎えた。福岡では、博多山笠が終わり山笠の打ち水に変わり、18日「福岡打ち水大作戦2008」が始まった。
  福岡天神イズム前で浴衣姿の若い女性たちが笑顔を振りまきながら、手にした檜の丸桶に汲んだ水を素手で床にまく打ち水PR作戦のデモストレーションを行った。水桶と女性の浴衣姿は似合っていてすがすがしい。
  このイベントは2004年から福岡打ち水大作戦本部が実施しており、今年で5回目を迎え、2005年に登場したキャラクター「打ち水スルゾウくん」が復活したという。
  「打ち水」とは、「清め」の水を、夏、地面にまくことだが、まいた水は蒸発するとき地面の熱をうばい気温を下げる効果があるので地球温暖化防止の一助にもなるという。
  現在、福岡市は、打ち水では、水道水は使わず、お風呂の残り湯、エアコンの室外機にたまった水、雨水などの二次利用水の使用を勧めている。当家でも仕事の休みの日などには、二次利用水での打ち水をしたい。
 ※画像は、マックス市政ニュースhttp://www.data-max.co.jp/2008/07/20080718.htmlからお借りしました。

2008年7月19日土曜日

帰ってきた「闇猫のお吉(若村麻由美)」

  金曜時代劇で「刺客請負人2」が始まった。松葉刑部(村上弘明)との闘いに破れ江戸を離れた「闇猫のお吉(若村麻由美)」も帰ってきた。
  若村麻由美のフアンとしては、この「闇猫のお吉」が出る場面は絶対に見逃せない。
  最初、芝居小屋の黒子といういでたちで「闇猫のお吉」が登場したときは、意外で度肝を抜かれた。男装で登場する場面も多く、妖美さとは違った魅力も出している。
  そして、籐の笠をかぶり妖美な衣装で松葉刑部の前に現れる、この姿は、まさに「闇猫のお吉」のトレードマークでもあり、「闇猫のお吉」の復活を強く印象付ける。また、川舟に乗って現れる場面も独特である。
  江戸を捨てたものと思っていた「闇猫のお吉」が突然目の前に現れて、なぜ江戸に舞い戻ったのかと戸惑う松葉刑部に対し、お吉は「およしなさいよ、私の命を助けたなどと思って説教なんて」と言い放ち、早くも今後の再度の対決を予測させる。
  今夏見逃せない番組が始まり、この「闇猫のお吉」の活躍、松葉刑部との対決に心が躍る。
 ※画像は男装の「闇猫のお吉(若村麻由美)」。若村麻由美公式ブログhttp://syunca.at.webry.info/200807/article_2.htmlからお借りしました。

2008年7月16日水曜日

新妻聖子「MUSICAL MOMENTS」(CD)を購入


  予約していた新妻聖子のミュージカル・アルバムCDが本日発売され早速購入した。
  このCDを手にして、新妻聖子の顔写真を見たとき、別人を見ているような感じがした。メイクアップでこんなに変わるものかと思えるほどである(画像)。
  珠玉の10曲のうち、6曲までが英語版、日本語の曲は4曲である。2006年に東宝ミュージカル「マリー・アントワネット」で、王妃と同じイニシャルを持つ貧困層の少女マルグリッド・アルノー役で初演したときに彼女が「心の声」として歌った「THE VOICE IN MY HEART」(英語版)が圧巻。「And what’s the use living? If give up hope.」何のために生きればいいの? 希望さえも捨ててしまったら…。
  また、ロンドンミュージカル「ミス・サイゴン」でキム役を演じ歌った「命をあげよう」(1989年初演、日本語版)は、ベトナム戦争の戦火の中での愛の証として出生した子を抱えて命がけで生き抜く様を歌った感動の曲である。「神の心のまま 望むもの選ぶの つかまえなさいチャンス 命もあげるよ」。来春、博多座での「ミス・サイゴン」公演が楽しみである。
  なお、収録10曲の曲名は、本ブログ「2008年6月30日新妻聖子ミュージカル・アルバムCDを予約」をご覧ください。(㈱ポニーキャニオン発売3,150円)。

2008年7月12日土曜日

沖津宮現地大祭参加は一度でも充分(神威)

  宗像大社機関紙「宗像」7月号に「今年の沖津宮現地大祭(5/27)は晴天に恵まれ約260人の男性参拝者が沖ノ島に渡島」と掲載されていた。そのなかには、作家の夢枕獏氏や、漫画家のうえやまとち氏などもいたという。沖ノ島上陸後の禊や沖津宮での参拝風景等の写真も掲載されていた。
  私は、2008年5月31日日本海海戦・・・沖ノ島沖津宮や東郷神社参拝の思い出に掲載したように若いとき一度だけ沖ノ島に渡島し現地大祭に参加したことがあるが、以後、毎年、この季節になると渡島したいと思いつつ、これまで一度も実現しなかった。今では、私を守護される神仏に「一度でも渡島でき、沖津宮の神との神縁ができたことは喜ばしいこと」だと言われているように思っている。
  考えてみると、その一度の渡島時に、沖ノ島の神の神威を全身に浴びている。大祭の最中、私はある場所(具体的には書けない)に目が留まった。どうしても気になって仕方なく、その場所に行き、その場所を覗き込み、神と向き合うことになってしまった。その瞬間、私の視界は一瞬闇に閉ざされ、頭は重石を被ったように重くなり、体全体が地面に叩きつけられる程の衝撃を感じた。
  しばらく頭痛が続き、体が重かったが、それは、私に、この神霊の威力を受け止め、それに耐えうるだけの体力がなかったからだろう。それでも神霊の大きな力をいただいたことには違いない。大勢の参拝者がいたなかで、それを見て感じたのは私だけだったのではないかと思っている。
  当時、沖ノ島に神は厳然として存在していることを知った。これだけの経験をさせてもらっているので、一度の渡島で充分とされたのかもしれない。考えてみれば、私が、これまで私と接触した多くの人たちに、力を貸したり相談相手になったりして感謝されてきたところもあるが、その一部は、この沖の島の神霊の力を得ていたからもしれない。くきりれ
 ※画像は沖津宮現地大祭、http://wadaphoto.jp/japan/kami2.htmからお借りしました。

2008年7月10日木曜日

TR出演のミュージカル歌手「笹本玲奈」

  何気なくTVのチャンネルを回したら、「トップランナー(7/6)」で「ローラ(All For Laura)」を歌っているミュージカル歌手の笹本玲奈の映像が目に飛び込んできた。もちろん私の目は、すばらしい彼女の歌声が流れるテレビに釘付けになった。
  私は、昨年9月16日、ミュージカル「レ・ミゼラブル」を観劇(博多座)したが、笹本玲奈は、裕福な少女時代を経て没落し荒んだ人生を送った成長後のエポニーヌを演じていた。
  自らが恋した革命家マリウスを恋敵のコゼットに添わせる橋渡しをした後、銃弾に倒れ落命する。まさに「レ・ミゼラブル(惨めな人々)」の一翼を担う役柄でもあった。
  彼女は、この惨めな役と歌をみごとに演じて、観客を魅了していた。私は、このミュージカルでは、新妻聖子等とダブルキャストとなっているこのエポニーヌが好きである。
  笹本は、13歳のとき、オーデションで13000人のなかから5代目ピーターパンに選ばれ、負けん気で臨んだ空中宙返りなどで一躍人気を博した。
  その後、高校2年のときに巡りあったのが「レ・ミゼラブル」で、この出会いで自分がミュージカルで生きる決意をしたという。ミージカル好きの両親(母は宝塚出身)の間に産まれ、ミージカル歌手としての恵まれた天性を開花する瞬間であったのだろう。きっと彼女を守護するご先祖の神仏が、ミュージカルという天職に巡りあわせたのだと思う。
  笹本玲奈は、来年、正月に博多座で公演される「ミス・サイゴン」に主役キム役で出演が決まっている。キム役は、2008年6月2日新妻聖子・・・サイゴン始動!!(?)にも掲載したが、新妻聖子、ソニン、知念里奈らとのダブルキャストになっている。私は、今度はファンの新妻聖子が出ているときに観たいと思ってはいるが、余裕があれば笹本玲奈も観たい、気が多くて欲張り。
  それにしても、たまたまチャンネルを回した「トップランナー」に笹本玲奈が出演していたので、ついていると思った。
  なお、「ミス・サイゴン」については、2008年03月15日の本ブログ『博多座で「ミス・サイゴン」を成功させる会に入会』も参照してください。
 ※画像は、笹本玲奈。http://www.horipro.co.jp/talent/PF043/

2008年7月8日火曜日

大峰山「西の覗」での不思議を思い出す

  HDDに録画していた火曜ゴールデン「にっほん名山紀行(6月18日放映)」を見ていたら、そのなかに奈良大峰山(世界遺産)が入っていた。
  俳優田中健が洞川温泉(天川村)から山上ヶ岳(大峯山・1719m)に登り、途中「西の覗」の行場で「いやー怖いわー」と言いながらも、その修行を成就していた。
  そして山上ヶ岳に着いたとき、「疲れましたけどね、凄く元気になりました。登るにしたがってだんだん元気になっていくことを感じられる(山の神仏の気を感じ生かされていることを感じる)」と感想を述べていた。
  その様子を見ていて、私が初めて吉野山の金峯山寺蔵王堂から山上ヶ岳に登り、新客として「西の覗」の修行に挑戦したときのことを思い出した。それは、昭和56年7月の蓮華奉献のときだった。
  その日、「西の覗」付近は霧に覆われていた。そのため、参加した人たちは、命綱のロープを肩にかけ、絶壁の上から逆さに吊るされ身を乗り出し組み手合掌をしたとき、霧でまったく視界のきかない空中に顔を突き出しているといった感じであった。
  私もそうなるはずだったのに、私の場合は、それだけでは終わらなかった。  つまり、霧の中に頭を突っ込み、絶壁の下を見下ろしたとき、不思議なことに、その霧の中に、私の肩幅ほどの丸くて長い穴が開いたのである。
  その穴は、あっという間に上から下へスルスルと開いていった。その部分だけ霧が消えたのである。ちょうど井戸の中に頭を突っ込み、井戸の底を覗き込んでいるような状態になった。
  しかも、その穴の底が見えた。底の色は緑色、絨毯を敷き詰めたような感じだったが、樹木の葉か草が見えたのだろうか。この現象が偶然にして起こったとは、とても思えなかった。
  つまり、このような自然の超常現象ともいえるものを見たとき、これが神のなせる業、若しくは仏のなせる業なのであり、このようなときに、神仏の姿を目で見ることはできないけれど、神仏の存在を確信するのである。
  宙吊りになっていた私の体が、ロープで引き上げられるとき、霧の中に開いていた一筋の穴は、一瞬のうちに消え去り、再びすべてが霧に覆われた。共にこの修行に参加した人たちに、このことを話したら、信じられない様子ではあったが、否定する人は誰もいなかった。
  これまで神仏のなせる業であろうという超常現象を何度も見てきた。神仏は必要なときに、その現象を見せ、そこに神仏が居ることを示される。
  ここ10年間、修験の修行を横に置いて、某社の発展に全身全霊をかけて尽力してきたが、今は満足感もなく、さらに加齢とともに身体の柔軟性も損なわれてきていることを痛感し進退を見極めようと思いつつある。
  もう「西の覗」のような山岳修験道の過酷な修行は出来ないかも知れないが、少しでも気力、体力のあるうちに歳相応の修行を再開しなければならないと思っている。
 ※画像は西の覗のイラスト。http://www.kajisho.jp/tozan09.html

2008年7月5日土曜日

難解な病院内職員寮での神仏供養

  信徒の1人が住み慣れた賃貸マンションを引き払って、勤め先の特殊入院病棟を持つ病院(医療法人)の敷地内にある職員寮に引っ越すことになった。
  ところが、それまでマンション室内に祀っていた神仏の移動と寮内での供養に関して厄介な問題が発生した。つまり、「寮内で神仏の供養はまかりならぬ」というのである。本人は、病院上層部との粘り強い交渉を続けた結果、やっと「(アパートなどで祀る)小さな仏壇なら置いてよい」ことになった。
  しかし、特殊入院病棟を持つ病院の性格上、入院患者にいらぬ不安を与えることになるので、「仏壇で線香を焚いてはいけない」「勤行をしてはいけない」「坊さんを呼んではいけない」というのである。そればかりか親兄弟親戚、友人をも寮の敷地内に入れることは禁止という。
  困り抜いて「引越しをやめようか」と相談があった。それに対して、「引越しはやめなくてよい」と答え、仏壇での先祖供養法については、灯明、線香、鐘などの取り扱い方と勤行の方法、及び御縁日供養法等の秘伝を教えた。また、台所に祀ってあったお荒神様については、そのお社とお神札を引き下げ納札して、「寮ではネズミモチの枝葉を立てるだけでもよい」と言って、その方法を教示した。
  「これで安心して引越しができる」と喜んでいたが、やはり、特殊入院病棟を持つ病院内にある職員寮での神仏供養についてはかなり気を使うものだと改めて知らされた思いだった。
 ☆画像はネズミモチ。http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/nezumimoti.html

2008年7月3日木曜日

宝満山大護摩供発起の思い出

 「宝満山登頂2000回」の記事を朝日新聞(6/30)と毎日新聞(7/1)で見た。6月29日、明太子メーカーふくやの川原健(たけし)会長(64歳)が75年から33年間かけて宝満山(標高829メートル、太宰府市、筑紫野市)登頂2千回を達成されたという。実にすばらしい記録で、心から祝福を贈りたい。
  私にとっても宝満山は、思い出深い山ではあるが、登頂回数となると、初めて登った高校生のときから数えても50回に満たないと思う。それも40歳を境にしてまったく登っていない。なかでも一番思い出深いのは、昭和57年5月16日の宝満山心蓮上人1300回遠忌入峰と同30日の採灯大護摩供である。
  もともと宝満山は、明治5年修験道が廃止されるまでは、神仏混淆の修験の山であった。当時、自らの修行として、登頂日を決めると毎回夜明け前に鈴懸を着て1人で竈門神社から登っていた。コースはそのつど変えてはいたものの、どういうわけかその日は必ずと言ってよいほど風雨か風雪に見舞われた。 
  人気のない夜明け前、薄暗い山中で、雨や雪でずぶ濡れになって登っている最中に聞く風のうなり声は不気味で、思わず身震いすることもあった。ある日、このうなり声は、全山供養を私に呼びかけているこの山の御神霊の声ではないのかと感じ、宝満山での大護摩供開催を思い立つことになった。
  発起して約1年、賛同する行者を求め1人で走り回り、宝満山修験会を結成し、竈門神社での100年振りの採灯大護摩供の実現に漕ぎ着けた。その当日、多くの祈願者の護摩木を刀印で切り、護摩壇に投げ入れていた私の眼前に兜巾と梵天袈裟を着けた凛々しい山伏姿の御神霊が立たれ全山供養の成就を見届けられた。その姿を捉えた神霊写真も残っている。
  当初の主催は、天台宗系修験各派の宗派を超えた宝満山修験会ではあったが、その翌年の入峰と大護摩供のときに各派間での不協和音が出た。私は、それを機に、宝満山の御神霊が求められた全山供養の目的は既に前年達成していたので、これ以上惰性で形だけの大護摩供を続ける必要がないことを悟り、会を離れた。
  このとき、私の名は、発起者ではあったが抹消され、宝満山修験会も別の組織に改変された。以後再び単身修行者に戻ったが、同時に宝満山からも遠ざかって行くことになった。再び宝満山の御神霊が修行再開を求められたときは単身修行者として登ろうと思う。
 ※画像は宝満山http://www.y-urc.com/yama/04/0412homan.htmlから転写しました。