2008年11月26日水曜日

ジュリアン子孫の先祖探索記事を読み、思い出したこと

  昨日の毎日新聞に、11月24日、日本で初めて長崎市で開かれた列福式に、天正遣欧少年使節の1人中浦ジュリアン(1568?~1633年)の子孫が列席されたとの記事が載っていた。
  中浦ジュリアンは、キリシタン大名大村純忠の命により、1585年ローマ法王グレゴリオ13世に謁見したものの、基督教禁教令の渦中に帰国し1633年殉教した。「聖人」といわれてもよい人ではないかとは思っていたが、これまで聖人に次ぐ「福者」にすら列せられていなかったのか。今回、この「福者」の意味を知り、不思議に思えた。
  そして、この中浦ジュリアンの命脈につながる子孫が現存しておられたとは…、すごく驚かされた。
  その人は、小佐々学さん(68歳、さいたま市見沼区居住)で、亡父が亡くなる前年に語った「昔、南蛮に行った祖先がいる。代々、世間には口外しなかった」の言葉を聞き、「それは誰なのか」という思いにかられ先祖のルーツ捜しの旅に出たらしい。
  イエズス会の資料や各地の小佐々家を訪ねたりして、長崎市北部海域を領有した小佐々水軍の有力者の子息が中浦ジュリアン(生涯独身)で、その叔父から14代目の子孫が自分であることが分かったそうだ。中浦ジュリアンが重罪人だったので口外することをはばかってきたのだろう。それにしても自宅に、途中途切れているとはいえヒントとなる先祖代々の家系図が残っていたことはすごい、そして、この探究心には敬服させられた。
  私も、若いとき自分の先祖に関心を持ったことがある。家系図は存在していたらしいが、関心を持った頃にはすべて焼き捨てられていた。その家系図には、菊池一族とあったらしいが、そのすべてが正しかったかどうかは分からない。
  戸籍を遡り一族を調べまわり、養母に「お前は何をしているのか、そんな探索などするな!」と怒られたことがあった。なぜ養母が怒るのかが分からなかったが、後になってその意味が分かった。
  つまり、養母が怒ったのは、先祖探しの順番が間違っている、それを気付けということだった。戸籍上にある親族を訪ねても何も分からず、菊池一族という伝承にも、菊池地方に私と同姓の神社が存在すること以外には何の手がかりもなかった。
  行き詰まり、霊山や滝での修行、霊地やお堂での瞑想等を繰り返すなかで、「近くの先祖を捜して遡るのではなく、まず大先祖を探してから上から下れ」という霊示を悟った。
  そして、修行中に脳裏に浮かんだ地名を頼りに、数年の間、各地を駆け巡った。そうしているうちに、いつか大先祖の霊地へと導かれて行った。大先祖が、そこへと引っ張って行かれたのだと思う。そして、当時、その姓名、生没年、家族構成などもすべて脳裏にあった。
  上述の小佐々家は、小佐々水軍の子孫ということであるが、私の先祖を下ると同じく長崎県に君臨した松浦水軍の一翼(田平方面)を担っていた一族がいたようだ。親戚に大村市出身者もおり、小佐々水軍とはどこか共通するところがあり、ひょっとしたら先祖同士の間では接点があったかもしれない。
  中浦ジュリアンの子孫という小佐々学さんの列福式列席の新聞記事を読み、かつて私自身も先祖のルーツ捜しの旅をしていたことを思い出した。
※画像は、中浦ジュリアン。さいかいシティ.ねっと、http://kankou.saikaicity.net/history/saikai.html掲載画像をお借りしました。

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