2008年6月17日火曜日

筑紫舞との出会い(5)

  公演プログラムを見ていて、筑紫舞本部稽古場が香椎地区の下原(当時)にあることを知った。
  古田武彦氏は、「日本書紀の景行天皇の九州大遠征の説話は、筑前の王者『前つ君』の九州一円平定譚で九州王朝の発展史である」と指摘されているが、私は、以前からこの『前つ君』は大歳尊(天照国照彦天火明希甕玉饒速日尊)ではないかとイメージしていた。このイメージで小論「饒速日尊」を書いたこともあるが、下原にも、この大歳尊(饒速日尊)を祀る下原大歳宮がある。下原に本部稽古場を開かれたということは、目に見えぬ縁があったのかと思った。なお、現在、本部稽古場は香住ヶ丘に移っている。
  この後、8月、久しぶりに朝闇神社を訪ねたら、周辺がきれいに整備され、猿沢の池の後ろには筑紫舞の小道なども作られていたのでびっくりした。ガマ蛙が鳴いていた猿沢の池は、水草が浮く池に変身していた。
  古田武彦氏の著書に、宗家の言葉として、筑紫舞の大切な舞の一つ「早舟」の詞に「猿沢の池の…身の上は篠竹の越の竹の」という一節がある、この池には、この詞に合わせて舞うふりと同じ姿で、「竹や柳などの木の枝が横に伸びて垂れさがっていた」と目ざとく娘の光寿(当時若翠)が指摘した、と述べられているが、それは、整備前に見た風景であった。
  朝闇神社の絵馬(天保4年奉納)は、全体がすっかり赤茶色に色褪せて、見る影もなくなっていたが、その模写が筑紫舞の小道にある一枚の陶板レリーフにされていた。しかし、この模写図は、省略部分が多い。さらに、このほかのレリーフは筑紫舞とは直接関係なく、自然を変えてまで造る価値があったのだろうかと思った。
  初めて筑紫舞と出会った頃のことを思い出しながら本稿を草した。 いっそうの筑紫舞の発展を祈念します。
※画像は、筑紫舞の小道の壁面に填め込まれていた1枚の陶板レリーフを見ながら描いた「ルソン足」の線画。

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