2007年10月26日金曜日

緒方1・・・緒方町への誘導

平成19年10月14日のこと
  念願であった大分県豊後大野市緒方町に日帰りで行った。直入から先は、地図に載っていない山間道路をどこをどう通ったかわからないまま車を走らせた。やがて「左神角寺、右朝倉文夫記念館」の表示のある三つ角に出て右に曲がった。
  神角寺は、機会があれば訪れたい真言宗の寺院で、現在、大友氏が建立した宝形屋根の本堂(国指定文化財)が残っている。
  1196年豊後守護職大友能直の入国に反抗した豊後大神姓大野泰基は、豊後武士団棟梁の同姓緒方三郎惟栄を失った後、残された武士団を結集して神角寺に立て篭もり奮戦したが、大友一族の古庄四郎亘能(重吉)に討たれた。豊後武士団は、源平の戦いで源氏方に味方して平氏滅亡への功績をあげたが、鎌倉幕府成立後は、源氏の大友氏入国に反抗しその多くが壊滅した。大友能直は、その武士団の怨霊を鎮めるために、後に緒方二の宮八幡社に緒方三郎惟栄と大野泰基の霊を祀ったという伝説がある。
  当初、朝地町志賀から緒方町志賀に入るつもりにしていたが、もうこの先は地図を見ずに神任せで運転しようと思ったら、気分が楽になり、予定していた以外の道を通って緒方町に入った。

緒方2・・・緒方三の宮鎮座神の気を享受

  山道を抜け、緒方盆地の視界が開けたところにある交差点で、「原尻の滝⇒」の看板が目に入り右折した。ところが、数秒走ったところで自分でもわからないままに急に減速し停車した。
  不思議な力が働いたと思い、運転席の窓から右を向いたら鳥居があり、その扁額に刻銘された「三の宮八幡社」の文字が目に入った。さらに「緒方三郎惟栄造営」と書かれた立て札もあり、ここに誘導されたのだと直感した。
  鳥居をくぐると正面に真っ直ぐ登る高い石段があった。この日の正見行脚は、石段登りから始まった。最後の石段を登り終えたとき、左足の靴が脱げ、右によろけて転んだ。左側にいたPがびっくりして思わず右手を差し出したが、私は、右手を地につけてゆっくり体を起こした。そのとき、転んだすぐ右に注連縄を張った小岩があるのに気づいた。この岩は依(憑)代で、そちらに引き寄せられるように転んでいたのだ。
  転んだ私の体は、鎮座神の懐に優しく抱かれていたようで、どこも怪我はなかった。Pの手にはオーラが出ていた。 このとき、境内には鎮座の神々の気が満ちており、同時にその気を享受していたのだった。

緒方3・・・緒方三の宮拝殿の芳名

  Pさんに、拝殿に置いてある参拝者芳名帳に、「今日の日付と名前を書くように」と言った。Pさんは、先祖とかかわりのある神霊の在する神社にその名前を残すことで、鎮座神に見守って頂ける。
  拝殿内に掲示してある寄付者名簿を見ると、緒方姓の人は宮崎県在住の1人のみであった。緒方三郎惟栄滅後の緒方氏は、豊後守護大友氏のもとで衰退し、地元ではその名籍が隠れたのかもしれない。だが、「三代」という姓に目が留まった。緒方氏三代目の子孫から出た姓か、又は三は緒方三郎惟栄のことで、その神霊を崇める依代となるという意味からつけた姓か。あるいは緒方三郎惟栄造営の三の宮の神の依代を守るとしてついた姓だろうか。いろいろ想像していると ロマンは尽きない。
  緒方氏とその同族大神姓各氏の多くは、鎌倉時代に入る前後に消えたとはいえ、時代を経て今に緒方町ほかの地名を残している。また、姓を変えてもその血脈は連綿とし継がれていると考えてもよさそうだ。なお、同名簿で、拝殿等の屋根瓦を葺いた業者がM姓であったことがわかり、当一族とも縁のある地だと思った。
  拝殿前でお賽銭を上げ、型どおりの参拝を済ませ、登ってきた石段を下りた。神社前に停めていた車に乗ったとき、どなたかが複数、一緒に乗り込まれたような気がしたが、よくわからないまま、この山裾の「緒方井路上線」沿いの通称「水車通り」を原尻の滝に向かって走行した。なお、この下方の田の中を走る水路が緒方井路下線で、田植え期にはこれら上下水路で水車が回り明媚な風景が出現するのではないかと思う。

緒方4・・・原尻の滝と緒方三社

  東洋のナイヤガラとも称される「原尻の滝」に至る。緒方川の段差を流れ落ちる滝で、水量も多く壮観で、幅120m、高さ20mあるという。観光客も多かった。歩くたびに揺れる「滝見の吊り橋」を渡ってみたり、滝下の川原にも行った。またここにあったパンフレットに原尻の滝ぐるりイラストマップが載っていたので、周辺の地形概要がわかった。
  原尻の滝のすぐ上の川のなかに八幡神を表す「朱色大鳥居」が立っていたので、ここが、三の宮(神功皇后)の神輿が二の宮(応神天皇)に御神幸するときに渡る「緒方三社川越祭り」の場所だと思った。その日は一の宮(仲哀天皇)の神輿も二の宮に集う。この川越祭りは、旧暦10月15日に近い土、日曜日に行われるので、今年は11月24、25日の夜に行われるのだろう。対岸の山際で鳥居が見えている所が二の宮であろう。
  なお、この緒方三社はすべて八幡社で、緒方三郎惟栄創建当時、緒方荘は宇佐八幡宮の荘園だったので、その造営に当たってこの八幡信仰の影響を強く受けていたと思う。

緒方5・・・緒方二の宮・一の宮へ

  先ほど「三の宮」前でどなたかが車に乗り込まれたような気がしていたが、再び車に戻ったとき、2体の神霊を感得し身震いした。とっさに、二の宮と一の宮の神霊ではないかという思いが脳裏を走り、同時に対岸にある二の宮と一の宮に行かねばならないと思った。
  対岸に行く道を思案する間もなく、気付いたら上流に見えていた趣ある5連アーチの石橋、「原尻橋」に向かっていた。文化財的なこの石橋を車で渡れるのかという心配をしていたが、幅の狭い橋上では対向車もなく難なく渡れた。どんどんと同乗の神霊に引っ張って行かれている感じだった。
  山際の集落に入りすぐの交差路を左へ、「二の宮八幡社」前で停車した。先ほど見えていた鳥居のある場所だった。車窓から、石段上にある立派な社殿を垣間見上げたが、下車せずUターンした。
  登拝しなかったのは、車を下りられた神霊から「当所下乗及ばず再来あれば参内されよ」という神示を承ったからであった。三の宮から、車が神輿となり二の宮の神霊を送り届けたということだった。お陰で車内がきれいに修祓されていた。
  先ほど三の宮に行ったとき、一の宮と二の宮の神霊もそこにおられたから、境内に神々の気が充満していたのか。そうとも知らず、何のお供え物も用意せずに訪れ申し訳ないことをしたものだ。
  先ほどの交差路を左に登ると隋道があり、その手前に左に登る道が見え、一瞬この先に「一の宮八幡社」があるのではないのかと思ったが、直進した。この先の三つ角を左折すると、道路の右に大きな赤鳥居があり、そのそばにある「←一の宮、幸福神社」と書かれた小さな木札が目に留まった。左に行くには、徒歩で家と家の間の小さな路地を抜け、山道を登らねばならない。幸福神社は、山寄り左側の民家の庭先にある稲荷社だった。
  一の宮の神霊は、「機会あれば再訪」と告げられ、一直線に山手に去られた。これ以上ここいる必要はないと感じ、次の機会があることを願いつつ車に戻った。

緒方6・・・緒方宮迫西・東石仏と緒方三郎惟栄

   「国指定史跡・緒方宮迫西石仏」の看板が目に入ったので車を停め、石段道を歩いて登った。入口付近に一対の常夜灯があり、登り詰めたところにある岩窟には、彩色を施した立派な三体(薬師、釈迦、阿弥陀如来)の磨崖仏が鎮座していた。
  また、この東、約200mの岩窟にも「緒方宮迫東石仏」(大日如来、不動明王、不明2体、多聞天、仁王像、宝塔2基等)が鎮座していた。この参道にも一対の常夜灯があった。
  この2箇所の石仏は信仰形態としては一連のものと思う。12世紀(平安時代)の造営で、造営の目的は不明だが、宇佐神宮や真言密教の影響を受けている。平安末期、緒方荘庄司緒方三郎惟栄は、これらの石仏の庇護をしたといわれている。
  緒方三郎惟栄は、豊後大神姓の姓祖大神惟基の5代孫で、同姓氏族衆から発展した豊後武士団の棟梁であった。「豊後国誌」によると、その大神氏の祖は、京都の朝廷から豊後に下向し、この地にとどまった豊後介大神朝臣良臣で、その子が惟基だという。大神氏は、大分川や大野川流域に根を下ろし、やがて強固な武士団として勢力を伸ばした。この大神姓氏族には、緒方氏を筆頭に臼杵、佐賀、戸次、大野、直入、朽網(くたみ)、稙田(わさだ)、佐伯、高田、阿南氏など37氏がいた。
  緒方荘は、宇佐神宮の荘園で、その庄司であった緒方三郎惟栄は、平重盛の御家人として宇佐神宮とは深いつながりがあったが、平重盛没後、後白河上皇から平氏追討の院宣を得て源氏に寝返り、1183年同族の臼杵惟隆、日田永秀らとともに大宰府に拠った平氏を襲撃した。
  また、1184年7月には宇佐神宮(宇佐八幡宮弥勒寺)を焼き打ちした。宇佐神宮が平氏一辺倒だったからだというが、その前に荘園の上分米を巡って宇佐神宮大宮司公道との確執があったからだという。同年11月周防にいた源範頼に兵船82艘を献上して、1185年3月壇ノ浦の戦いでの源氏勝利の魁となったが、先の宇佐神宮社寺の焼き討ちでの社殿、本堂、仏像破壊や虐殺による神罰を受けたのか、その後、急速に滅亡への道を突き進んで行った。
  同年11月、後白河院の命を受け大物浦(だいもつうら/尼崎市)で源義経を迎え豊後に向け船出したが、大風(シケ)で船団は壊滅し、沼田荘(群馬県沼田市)に配流された。源氏や後白河院に利用され、翻弄され続けた地方武士の悲哀をなめて鎌倉幕府成立前に歴史の舞台から消えていった。その後残された豊後武士団を統括した棟梁格の大野泰基も、鎌倉幕府軍によりあえなく滅亡した。
  豊後大神姓一族の繁栄は、緒方の里で築かれたというが、今回初めて緒方町に行って、緒方盆地の中央を流れる水量豊富な緒方川、緒方井路を通りその周辺に広がる水田に運ばれる水、これらの風景を目にしたとき、当時とどれほどの変化もないだろうと思った。この肥沃な土地を背景に繁栄の基盤を確立していったのだとうなずけた。さらに一族は、大野、直入、九住山麓の草原地帯で戦馬を育て、瀬戸内海周防灘に面する臼杵、佐伯港等にあった海部水軍を配下におさめ水陸に跨る豊後武士団を成立させた。

緒方7・・・緒方三郎惟栄館跡の五輪塔

  緒方町の田園の中を走る502号線沿いに大きな石塔が建つ杜と広場があった。ここが「緒方三郎惟栄館跡」だという。この石塔の後ろに緒方三郎惟栄を祀る小祠と鳥居があり、その傍らに五輪塔等の供養塔があった。 きき
  Pに「この五輪塔の空輪に手を当てて、その手で自分の頭をなでてください」といった。先祖に関わる神霊供養塔の守護をいただける。
  私は、以前Pに「行って何があるか分からないが、行くだけでも行ってみよう、それだけでも力をもらえる」と口にしていたが、行って見たら、その守護霊に導かれ数分の無駄もなく次々に必要な霊地を巡り、最後にこの地に導かれた。
  平成11年に景行天皇豊後霊地を巡拝した当時、緒方町に入れず、長い間心残りとなっていた。平成15年頃、Pと出会い、4年たって、その先祖の神霊地訪問に同行する形で実現し心残りを埋めることができた。
   

緒方8・・・緒方三郎惟栄に対する想い

  考えてみると、緒方三郎惟栄に対する私の想いは、かなり古い。
 ① 我が家の古い先祖の発祥伝承地の一つに熊本県菊鹿町松尾(松尾神社あり)があるが、この地を菊池氏が統治した時代に、菊鹿町にある相良観音(天台宗相良寺)で修行をされた先祖がいる。この相良寺は、平安時代初期に建立され、山上山麓に諸堂宇を整えた大寺院であったが、平安末期、緒方三郎惟栄に攻められ兵火で焼けた。その後、焼け残った千手観音坐像を山上から山麓に下ろし、菊地武光が寺院を再建、近世熊本藩主細川氏の庇護を受けたという。
  私は、昭和62年5月17日以降数回この相良観音参拝に行き、山上旧地には守護神に導かれ2度登り、旧本堂下壇跡や霊窟で礼拝をしたこともあるが、初めて行ったときに、この緒方三郎惟栄の名前を記憶したのであった。
 ② 緒方町に隣接している竹田市岡城跡で行われた金峯山寺五條順教管長導師による大護摩供に2度参加し、一度目のときに管長旗旗手を勤めたが、この岡城は、鎌倉時代初期、緒方三郎惟栄が、源頼朝と対立した義経を迎え入れるために築城したとの伝承がある。
 ③ 緒方三郎惟栄は、惟義とも書き、源平の戦いで松浦党の水軍を味方にしたと聞いたが、私の家の家紋は松浦党の丸に三星である。惟義の一字義は私の俗名と同じである。
 ④ 松尾大社と大和大神神社とは関係があるが、豊後大神姓緒方三郎惟栄の五代前の姓祖大神惟基の父良臣は大和大神神社から出た大神氏ではないかと思う。 
  私の正見行脚の修行で度々緒方三郎惟栄に行き当たり、いつしかこの名前に言い知れない想いが出来ていた。本日の緒方町の霊地行脚により、緒方三郎惟栄の輪郭の一部がやっと見えてきた感じがした。

緒方9・・・緒方荘志賀へのこだわり

  Pさんは、当初の予想を超える先祖の霊地を訪問できたことに満足されたようで、この後、立ち寄ったところはなかった。
  私としては、予定していた志賀地区に行っておらず、今から行けるものかどうかを探るべく緒方駅周辺の町並みに入ったが、導きを頂けないまま町並みを通り抜けてしまった。
  つまり、神々は、緒方町~朝地町にまたがる志賀地区を訪れる時期は「今日ではない」とされたのだろう。私は緒方氏発祥の地はこの志賀地区ではないかと思うところがあり、このこだわりが災いしていたのかもしれない。
  この志賀の地に対する私のこだわりは、次のようなものだった。
 ① かつて私の知人に尾形智矩(苅田町)という衆議院議員がいたが、この「尾形」は「緒方」と同じ発祥で、古代の海人族で「体に蛇の尾の形の入れ墨をした」ことから起こった姓である。
  緒方氏が海部(あまべ)水軍を統率したのは海人族としての血脈があったからではなかったのか。また、緒方氏の姓の由来が海人族の蛇の尾の形を表しているとすれば、海人族の蛇神ともいわれる海神を祀る福岡市志賀島の志賀海神社と結びついてくる。
  事実、「平家物語巻八・緒環」によると緒方三郎惟栄の5代前の始祖大神惟基は、大蛇(姥嶽大明神又は高千穂大明神)の化身を父として生まれたとあり、伝承ではその母が大蛇と会ったところが「宇田姫神社(清川村)」であるという蛇神伝承を伝えている。
  「豊後国志」によると大神惟基の父は大神朝臣良臣だと記してあり、良臣は大和三輪の大神神社の縁故者であると想像されるので、三輪山の蛇神伝説が付会して良臣を蛇神とし、宇田姫神社で出会った娘が産んだ子惟基を蛇神の化身の申し子としたのではないのか。なお、この三輪山の元は福岡県筑前市(旧朝倉郡三輪町)弥永の三輪山であると思っている。
 ② 緒方氏が領有した緒方郷(荘)志賀の地には、かつて志賀島の志賀海神社と同一神を祀る「志我神社」があったという。緒方郷(荘)、緒方氏は、志賀の海神を信奉した海人族であったところから出た地名、氏名ではなかったのかと思う。この志我神社は、朝地町志賀にある「若宮八幡宮」ではないかという。緒方荘は宇佐八幡の荘園だったので志我(志賀)神が八幡神に衣替えしてしまったのかも知れない。「大分県の歴史散歩」には何故か「志加若神宮社」とある。その場所については、私の手持ちの地図には載っていない。
  緒方三郎惟栄の後、岡城を整備した大友能直庶子家の志賀氏(八郎能郷)の出自が、この志賀の地だとしたら、多分この地の地頭職となって地名を氏としたものではないのか。
 ③ 私が、この志賀に特にこだわったのは、今も尊敬してやまない故藤井綏子さんから頂いた「古代幻想・豊後ノート」の中にあった次の指摘が頭に残っていたからである。
  つまり、「豊後風土記」の「大野郡網磯野(あみしの)」の項にある、「景行天皇が征定に来たとき「小竹鹿奥(しのかおき)、小竹鹿臣(しのかおみ)」の二人の土蜘蛛が天皇に食事を供した」という記事に注目され、福岡市の志賀海神社には「鹿の角」が保管されており、「鹿」という名が志賀(志我)に通じる、また景行天皇長征軍が戦闘に際して祀った三神のひとつ志我神に通じるという指摘である。ほかのニ神とは、直入中臣神(庄内町直入中臣神社)と直入物部神(直入町鶴田籾山八幡社)で、以前参拝した。
  私は、この指摘を読んで、この「鹿」という名を持つ土蜘蛛(土地神)の名から志賀という地名ができた。志賀神(蛇神)をいただくこの地区に起居する人々が、古代蛇神信仰者の名のひとつである緒方氏を名乗ったのではないのかと思ったのである。もとより何の根拠もない。
  多分、これらのこだわりが災いして、本日いきなり志賀の地に行くことを止められたかもしれない。神聖な霊地を正見行脚するとき、事前に強いこだわりを持っていると、それが先入観となって真実が見えなくなることがあるからである。後日、出直す機会があると信じている。
  蛇足だが福岡県新吉富村大字緒方に、緒方観音、若八幡宮があり、宇佐神宮の影響は考えられないか。中世、黒田如水に滅ぼされた宇都宮氏の臣緒方帯刀、刑部が居城する緒方城があった。豊後緒方氏の末裔ではないのかと思う。
  緒方の神霊に御礼を申し上げ、緒方町を後にした。同行したPさん、そして誘導されたその守護霊に感謝します。
 ※画像は、『平家物語』 第八巻 「緒環(おだまき)」に描かれた嫗岳の主という巨大な大蛇(高千穂大明神)、http://www.coara.or.jp/~shuya/saburou/kenkyushitu/saburoken2.htm

2007年10月17日水曜日

旧伊藤伝右衛門邸見学

  10月7日、幸袋工作所跡に駐車し徒歩数分、遠賀川に向かう旧町並みの一角に旧伊藤邸があった。大寺院を思わせるような長屋門の右柱に「旧伊藤伝右衛門邸」と書かれた真新しい門札が掲げてあった。麻生太郎衆議院議員の達筆の揮毫である。石炭最盛期、麻生太郎議員の祖父太吉氏と伊藤伝右衛門とは深交があった。
  柳原白蓮(燁子<あきこ>)が起居した北棟奥の二階の部屋はニ間続きで、広大な回遊式日本庭園のすべてを見渡せ、かつては遠賀川の川面も見えていたという。白蓮はこの部屋で約10年間、何不自由のない生活をしていたのだろうが、恋の歌を作る以外には楽しみもなく孤独だったのかもしれない。それが、後に別府の別邸あかがね御殿で宮崎龍介との不倫事件を起こすきっかけとなったのだろうか。それにしても若き日の白蓮の顔写真を見ていると、妻の亡祖母の若き日の顔立ちとあまりにも似ているので驚いた。
  庭園は、泉水に掛かる小さな太鼓橋を左に見ながら、その中央部分にある茅葺の東屋まで遊歩できる。庭園の周囲を覆っている樹齢300年と言われる天蓋松は見事、また大小合わせて19基ある石灯篭にも目を見張るばかりであった。この石灯籠のなかには、白蓮が結婚時に持参したものもあると聞いた。時間があれば、この石灯籠の一つ一つをじっくり観賞するだけでも味わいある。庭園から見上げる邸宅も風情がある。
  旧伊藤邸を飯塚市に買収させるために旧伊藤伝右衛門邸の保存を願う会を組織し奔走されたの深町純亮<ふかまちじゅんすけ>氏は、嘉穂高校郷土部の大先輩で麻生炭鉱史を編纂された。私は同部OB会に出席したとき、氏の講演で旧伊藤邸の話を聞いて以来、行ってみたいと思っていた。図らずも飯塚市の自宅跡の草抜きに行き、その帰路訪れることができた。邸内は、観光客であふれ大混雑、白蓮の部屋にいたっては、40人ごとの順番待ちという有様で、ゆっくり味わって観賞するというような雰囲気ではなかったが、これだけ多くの人々が訪れる邸宅を保存されたことには感嘆の極みであった。きっと伊藤伝右衛門の霊が、深町氏に乗り移って、この熱烈な行動を指揮されたのではないかとすら思えた。

2007年10月2日火曜日

立花実山の記事を見て「実山横死の地」研究を思い出す

  2007/10/01西日本新聞朝刊で『茶道「南坊流」中興の祖立花実山300回忌で法要 墓所の東林寺南坊会理事長が「供茶」』と題した次の記事を見た。
  「茶道の流派の1つ「南坊流」の中興の祖として知られる立花実山(1655‐1708)の300回忌法要が30日、福岡市博多区博多駅前3丁目の東林寺(梅田泰隆住職)であった。実山は福岡藩の家臣で、茶道や書画、和歌に精通していた。法要は同寺の開山に尽力し、墓所もある実山を供養するもの。南坊流を継承する福岡の南坊会の関係者や、同寺の檀家など約100人が参列した。法要では同会理事長、櫛田神社(同区上川端町)阿部憲之介宮司(54)が供養のお茶をたてる儀式「供茶(くちゃ)」を披露。また、同寺とゆかりのある大乗寺(石川県金沢市)の東隆真老師(71)らの読経に合わせて参列者が焼香し、実山の霊を慰めた。檀家らでつくる同寺婦人会の柴田敏子会長(82)=同市早良区=は「市美術館の記念展を見て実山の興した茶道の奥深さを感じた。今日は立派な法要でした」と話した。同市中央区大濠公園の市美術館では、立花実山300回忌を記念した「南方録と茶の心」展が開かれている。21日まで。」
  私は、47年前、高校3年(1960年)のときに研究発表した「野村隼人正裕直の墓」(嘉穂高校機関誌「龍陵3号」掲載)のなかで「立花実山」について触れた部分がある。上記の新聞記事を見て、それを思い出して、掲載誌を書斎から取り出して読み直した。若き時代、郷土史に関心を持っていた自分に改めて思いを馳せた。
  ここにその「立花実山」について触れた部分を転載しておこうと思った。何しろ当時高校生だった私が書いた文章なので誤記もあると思う。たとえば「南坊流」のことを「南法流」と記したりしているが、間違いは間違いとして原文のまま転載する。
  「六、立花実山横死の地 茶道には一般的な表千家、裏千家流等その他数流派数えられるが、その一つに南法流という流派もある。現在博多に五百人程の人を持っており、毎年一回福岡市中人参町東林寺に於いて盛大な茶会がその人達によって開かれている。この会は実山会といわれ南法流の創始者立花実山の名をとってこう呼ばれるのである。立花実山とは福岡藩黒田光之時代の二千石取りの重臣である。実山は有名な書籍収集家で、時たま偶然にして千利休実筆の茶道秘伝書を手に入れ、その書を読むに当世の茶道の精神が利休の精神を遠のいている事に痛感して南法流を起こしたといわれる。果たして現在の南法流がこれまた実山の精神をそのまま受け継いでいるかと言えば疑問であるが、この実山会を見学すると夫々各人好みの派手な着物に身をかためた若い人達の姿が目を引き、豪勢そのものという感じがする。別に南法流を宣伝している訳ではないが、さてこの立花実山は鯰田に横死している。どうしてであろうか。
  当時、黒田藩財政上の収入の一つとして密貿易の利益があったが、この密貿易に対して立花実山は忠告をしている。しかしこの事は藩公の気にさわり、あわや上意打ちとなるところを鯰田野村家お預けの身となった。妻を野田家から迎えている関係上、野村家に顔を立てるという面目もあった事であろう。所が藩主の反感は強く刺客をはなちついに実山を遠賀川畔に呼び寄せて妻子もろとも殺害している。これは秘史とされていた様である。実山の死体は川のシガラミ(柵)にかかり火葬されて東林寺に埋葬されている。妻子の遺体は晴雲寺に埋葬され小さな石碑を建てその横に観音堂を建てたといわれている。立花家は二千石取りの家柄でありながら実山鯰田横死により代は絶えてしまっているが、実山の人間性は茶道南法流として残っている。
  東林寺も(晴雲寺と同じ)曹洞宗で実山の開基である。これら実山や野村家との関係については東林寺現住職梅田信隆氏が詳しい。」
  家が絶え、代が絶えても、実を残し、今日に至るまで、その功績を偲ぶ人たちによって供養が続けられているということは、何とすばらしいことだろうと思う。今日、成功をおさめた人たちの中で、その死後も多くの人に慕われ、多くの人から代々にわたって供養を続けられるような人が果たしてどれほどいるのだろうか。
  私の手元にある上記の掲載誌に、当時東林寺住職であった梅田信隆師から頂いた手紙や当時の野村家当主の野村宗秀氏から頂いた手紙などが挟んで保存されていたので、本当に懐かしい想いがした。それと気付かないままに年月は過ぎ去り、人々も過ぎ去る。