2007年2月8日木曜日

ある先生からの手紙

 「・・・お世話になりました。仕事を通して多くの人とかかわりながら自己成長に役立てて参りました。・・・私の名前はツヨミですが、実はツヨシで男子だったのでしょか?ウフフフ・・・。先生もお身体大切にお過ごしくださいませ。・・・そしてこれからも職場の中心に居てくださいませ。・・・」
 前から「ツヨミ」という名は女性にしては強い名だと思っていたが、「ツヨシ」が実名と知りまたまたびっくりした。「ツヨシ」は育の亡父と同名なので不思議な縁を感じ、忘れられない人となった。 なお、亡父は昨年4月他界し、11月遺族から新仏壇の開眼供養を頼まれ大阿闍梨修験僧として行った。
 実際の私は、職場では何の権限も持たされておらず職場の中心にいるとは思えないが、諸先生にとっては、私をそういう存在と思うことで精神的な支えとされているのではないかと思う。それがまた私の励みとなって、何とかしてあげようと努力してきた。       
 私は全身全霊を現在の職場に捧げて仕事に没頭してきた。そのために、自らの照見行脚の修行が疎かになっていたような気がする。神は、これからは没頭するにしてもほど合いが必要であるとして、今、また照見行脚、若しくは正見行脚の修行再開を求めておられるのだと思う。

2007年2月7日水曜日

祈祷札が霊の通路を迂回

  節分祈祷札が霊の通り道を塞ぎ迂回させる・・・本山から届いた節分祈祷札を申込者の家族ごとに分け権現供養会の後で申込者に配布した。申込者の今年の運気は上昇すると見える。
  某家では、昨年末28日に玄関においていた祈祷札を納めて以後、またもやたくさんの霊が姿を現わして玄関に面している階段を登ったり降りたりして騒いでおり、一日も早く今年の祈祷札が届くのを心待ちにしていたという。
  当初この家のお払(祓)いを頼まれ、お払いをしていて、この家の近くに元大きな墓地があったこと、そして、この家が霊の通り道に建っていることに気づいた。このような場所は、くらお払いをしても払いきれるものではなく、次から次にやってくる霊をどこに払うこともできない。しかる後、玄関の下駄箱の上に祈祷札を置き、その前に塩を上げさせて、祈祷札の神力でもって霊の通り道を塞がせた。つまり、霊の通り道を塞ぐ代わりに、この家の横に霊的な迂回路をつくり霊の通り道を迂回させたのである。
  ところが、祈祷札を納札すると、たちまちこの家が元どおり霊の通り道に返ってしまう。挙句は、枕元まで霊が入ってくる。金縛りになるときもあるという。寝るときも護身の柵を身近に置いて身を守ってもらっているという。
  なお、こういった家では道場で祈祷している抹香をできるだけ多くの量を燃すことも有効である。
 Dパーク開園20年目・・・今年は、昭和63年の開園から数えて20年目の節目にあたるという。開園の年に養母の遺骨を納骨した。当時中学生だった多は、今は小学生児の母。私も老いたね。でも、このまま老いるわけには行かない。今年は、体調を整え照見行脚の修行を再開したい。修行を怠って間を空けていると霊的な勘も鈍る。      

2007年2月6日火曜日

霊的問題解決に順番あり

 今日相談があったことの内容の公表はできないが、「神ごとには順番がある」ということは伝えた。
 家庭内にいろんな問題があるときは、それらの問題がすべて微妙に絡み合っており、すべての元になっている原因が何かを突き止めないと何も解決できないことが多い。解決しようと思えば、まずその問題のどこかに霊的な問題が絡み合っていないかを見極めなければなりません。もし霊的な問題が絡みあっているようでしたら、絡みあった原因(悪因縁)を解く糸口を見つけて、そこから根気よくひとつひとつ解いていくしかない。
 私たち修行者は、その糸口を見つけてあげるのが仕事です。糸口が見つかったら、突破口を開く。それは、印明による払いの場合もあれば、口頭で伝えることもある。
 いずれにしろ、相談者が行うことは、まず最初に言われたことを実行すること。それを実行すれば、また次の糸口が見えてくる。この積み重ねの中で、抱えていた多くの問題の一つ一つが解けていく。目先の現象面だけを見ていると、それと気づかないことが多いが、後になって振り返ってみると、いろんな問題が、解決に向かっていることに気づくはずである。
 多くの人は、この順番を踏まずに先を急ごうとしますが、それでは何一つ好転はしない。まず先にしなければならないことを急いで実行すること。言われたことを実行しないと、また新たな問題が生じてますます糸が絡まることがある。まずすべきことをそっちのけにしたまま、新たな問題の解決方法を相談されても相談に乗れないことがある。

2007年2月4日日曜日

本山節分・雛飾・若杉眺望

 「福は内、鬼も内」の本山節分会・・・
昨日節分で孫が「鬼は外、福は内」と言ってまいた豆が庭に散らばっていた。修験道の総本山金峯山寺では、「福は内、鬼も内」と言う。節分で追い出された全国の鬼が金峯山に集まるという。そういえば修験道の開祖役の行者には前鬼、後鬼がつき従っている。お祓いをするとき、払われるものの行き先を決めて行わないと失敗するが、「鬼も内」は、このことを暗示しているようにも思える。全国で追い払われた鬼の行き先は金峯山と決められているから、各家で鬼を追い払っても、追い出された鬼が帰ってきて災いを起こす心配はない。

 雛飾り・若杉山眺望・・・
旧道場内殿に飾り付けた。年一度の年中行事だが、雛段の組み立て方を思い出すのに時間がかかった。間(期間)があくと勘も鈍る。間と勘は、ともに「かん」と発音。間があいても勘が鈍らないように常に心がけておかねばね。雲ひとつない晴天に恵まれ、旧道場の窓から「若杉山」がきれいに眺望できた。若杉山は頂上の太祖宮を中心に、北谷は建正寺観音堂や伝教大師堂(坐像安置)を中心とした天台宗の霊場、南谷は真言宗の霊場があった。南谷には大正年間に篠栗八十八か所も開かれた。なかなか近くにあっても登らない。