2008年12月2日火曜日

実母の転院と不審な出来事(母のアルバム④)

  先日、S校同窓会名簿の49人(母を除く)に喪中ハガキを送った。10枚が「宛所に尋ねあたらない」として返送された。地番が明確な人たちが多かった。返信のあった1人を除き、生存の可否は不明。
  S町内居住者は18人、その多くは地番が書かれていなかったが、その多くは配達された模様。S町の郵便局は、名前だけを見て配達できる昔ながらの温かさが残っているのだろう。ほほえましい限りである。
  ところで、なぜか母は、母校があったS町に建つW病院に入院したことを快く思っていなかった。ここは、終末期医療の病院のように見えるので、入院した後、まだ死にたくないと思ったのだろう。確かに、毎日、見舞いに行き、周りの入院患者さんの姿を目にするたびに、何か救いのないような寂しさが漂っていた。その死を迎えるまで、たびたび病室を替えられていたが、そのつど誰かが亡くなっていたのだろうか。
  転院前のK町の救急病院では、看護師さんに車椅子を押してもらいトイレに行っていた。私が見舞いに行ったときは、私が車椅子を押してトイレに連れて行くのが日課だった。トイレの中まで運び、パンツを下ろしてやると、「もう、そこまででいいから、外に行きなさい。外で待っとかないかんよ」と言う。「うん、分かっちょる」。終わったら、また病室まで押して戻る。自分ながら、よくこんなことができるものだと思っていた。
  しかし、転院してからは、排便排尿はすべてオムツで、決まった時間に作業療法士がオムツを取り替えに来る。これでは本当に寝たきり老人になってしまう。
  リハビリ室に頼んで、極力体を動かしてもらうようにはしていたが、だんだん自分で身動きができなくなってしまったことが多分つらかっただろう。私も病室に行くたびに、母に命令されて、その足を持ち上げて擦ったり、クリームを塗ってあげたり、体を持ち上げて寝返りを打たせたりもした。しかし、その持ち上げ方の要領がわからず苦労した。自らの力で動かすことができなくなった母の体は非常に重く感じた。
  入院した後で、この病院の終末期医療の性格が分かり「転院したい」と言い出したのかも知れないが、それにしても、なぜ、W病院に転院したのか、私はまったく知らなかった。母に付きまとっていたAが、突然、転院さ、その直後に私に電話で知らせた。何度もK町の病院に足を運んでいた私が知らない間に、転院先が決まっていたなど、長男として恥ずかしい限りであった。
  以後、Aと顔を合わせたのは次の一度だけである。母が一時危篤から立ち直った後、私がAの会社に行き、Aが持ち出していた母の現金と貯金通帳、印鑑等を返還してもらったときである。返還額は、母が言っていた額の10分の1に過ぎなかった。
  そればかりではない。仕事が終わって、K町より遠いこの病院に着くのは、どんなに急いでも面会時間の終わる午後7時前後頃、それ以後に着くことの方が多かった。毎日、その前後頃に見舞いに来ては、面会時間を越えて帰る私の姿を看護師さんらが目にしていた。ある日、担当看護師さんが母に「あの方はどなたですか」と尋ねた。母が「息子です」と答えたため、病院中が大騒ぎになったらしい。
  Aは、母を転院させ、手続き書類にサインをしたとき、「おばさんには子供はいない」と言っていたというのである。そのため私の存在を知った担当看護師は、ビックリして「お子さんはいないと聞いていたが、いらしたんだ」と、大騒ぎになったというである。当然、事務室にもナースセンターにも、私の連絡先を教えていなかった。Aは、母の面倒を見る振りをして、どこまでも私だけではなく周りの人たちまでも騙し続けていたのである。
  そのことを知った私は、病院に「以後、一切Aに連絡する必要はない」と告げた。入院時にAは「一切の延命治療をしないでよい」という書類にもサインしていた。このことは、母が息を引き取る間際に担当看護師さんに知らされて知った。Aは、一刻も早く母が死を迎えることを待ち望んで病院を選んでいたのだろうか。不可解かつ不愉快な行動であった。

0 件のコメント: