2008年12月23日火曜日

プログ移転

  このところ、下記ブログと同じことばかり書いているので、重複して恐縮することしきり。したがって、当分の間、下記にまとめたいと思いますので、登録を下記アドレスに変えてください。
  お願いします。
  ブログ名は、同じ 「正見行脚」 としています。
    http://blog.livedoor.jp/keitokuchin/

2008年12月19日金曜日

吉野山に前登志夫さんの歌碑が建立された

  12月7日に、たまたま目にしたブログ「短歌と英語大好きのおばさんの日々」に「前さんの歌碑が、吉野山の金峯山寺の境内の南朝皇居跡公園に立てられたという記事があった。刻まれた歌は、さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり  歌集「青童子」より  ご自身がわかりやすい歌をと、生前に選ばれたものだという。05年のころから歌碑建立の話があり、碑の文字も自筆の色紙から採ったものとのこと」と書かれていたのを見て、すばらしいことだと思っていた。(http://blogs.yahoo.co.jp/fumanband/45849064.html)
  前さんと直接を言葉を交わしたことはないが、昭和60(1985)年10月14日金峯山寺蔵王堂前で「蔵王讃歌」の大合唱が披露されたときお見かけしたことがあり、以来、お名前は、作詞された「蔵王讃歌」とともに忘れたことはなかった(4月8日記載ブログ参照)。
  最近(10月8日)では、ブログsomething like that で、次のような文を見て、私も読んでみたいと思っていたほどである。それは、「前さんと駿台」というテーマで「10月5日に行われた駿台予備校の全国模試をちらちらみていたら、国語の問題に、前登志夫さんの「存在の秋」の一節が引用されていた。吉野の桜の話、ビルマで戦死されたお兄さんのしてくれた楠正行の話などであった。」(http://pinecones.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-ebc9.html)
  そんな折、金峯山寺から届いた「金峯山時報(12月10日発行)」で「前登志夫氏の歌碑 有志により建立する」の記事を見た。
  記事を見ると、建立除幕式は11月25日に執行され、その場所は妙法殿前辺りのようだ。そういえば、そこに「南朝皇居跡」の石碑が建っていたような記憶がある。ここを南朝皇居跡公園というのだろう。昭和56年から27年間、毎年、「金峯山時報」新年号に掲載されてきた前氏の新春短歌集を金峯山寺にて編集発刊したとのこと。また遺弟の集い「山繭の会」の萩岡良博氏が歌碑の詩を披講されたという。「山繭」は「やままゆ」と読むのだろうか。
  この後で、金峯山寺・田中利典宗務総長のブログ「山人のあるがままに」を読んだ。「吉野のサクラをこよなく愛し、また自分自身が吉野の山林に定住して、山川草木の深い慟哭を聴き続けて来たことでしられる歌人」で、「今年新年号の最後の歌が「一基だに われの歌碑なき吉野山 雪ふみくだる いさぎよかりき」であった。この歌をいただいたとき、えーー、先生の歌碑はたくさん建っているのに吉野山にはなかったのだとはじめて気づき、ま、督促していただいたようなものだと悟って、早速建立話を寺内ですすめるところとなった。先生の意向もお聞きして「さくら咲く ゆふべの空のみづいろの くらくなるまで人をおもへり」という自筆の歌を刻むことを指示いただいたが、生前中の建立はかなわず、昨日ようやく建立をみて、4月に亡くなった先生の遺影にささげたのであった。」とあり、ようやく歌碑建立の経緯が分かった。
  また、金峯山寺に寄稿された歌は、昭和45年以来の分を含めると99首もあるそうだ。
  前登志夫さんは、山深い山中の集落(自宅/下市町広橋)で生育され、林業に携わる傍らで、吉野山の自然をこよなく愛し讃える短歌を詠み続けられ、土俗の前衛的歌人とも称されていたが、本年4月5日吉野の山桜の咲く季節に82歳で亡くなられた。
  死後にはなったものの念願の歌碑が吉野山、しかも吉野櫻に包まれた修験道の総本山金峯山寺境内に建ち、きっと霊界で喜んでおられることだろう。この歌碑は前さんの菩提碑と言ってもよく、すばらしい供養碑となることだろう。今度帰山したときは、必ず見学し合掌を捧げたいと思っている。
 ※画像は、「山人のあるがままに」http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2de.htmlからお借りしました。

2008年12月11日木曜日

朝日新聞Miss Saigonメッセージに新妻聖子

  12月1日から朝日新聞西部本社版朝刊に、来春1月5日から博多座で公演されるMiss Saigonのプリンシパル24人のメッセージ広告が掲載されています。枠は小さいがカラーで載っているので、すぐに目に付く。毎日、楽しみに見ているが、今日は、新妻聖子だったので嬉しかった。メッセージを次に転記します。
  「新妻聖子が博多座で「ミス・サイゴン」キム役を演じるのは、もしかしたら一生に一度かもしれません。あなたに、観ていただきたいです!! 2月18日まで博多の街に滞在しながら、心を込めて日々の舞台を勤めます。是非、この感動を目撃しにいらしてください!!」
 ※画像は新妻聖子公式ブログ(8/31、スタボー出演時のもの)からお借りしました(朝日新聞掲載ミス・サイゴンの画像ではありません)。

生涯かけて正見行脚(実母のアルバム⑪)

  母は、別の意味で、私に「何度も裏切られた」と言ったことがあった。思い当たることは多々ある。
  私は、幼少のときから養母の元で育ち、養母に対する想いは人一倍強く、また恩義も強く感じていた。この心がいつもブレーキとなって、実の母には、接近しては離れる、を繰り返し、心底から気持ちを通じ合えないジレンマがあった。その狭間で、産んだだけの母とは縁を切ろうなどと思ったこともあったが、結局は切れなかった。血のつながった実の親子とはそんなものなのだろう。私の、時として決断を鈍らせる優柔不断な性格も、こういった背景のもとで形成されたのかもしれない。
  それでも最後は、心から母を想い、自分なりに尽くすことができた。一度は延命護摩をたき、死の淵から生還させることができたが、二度目はできなかった。というより、もう少し生きていると思っていたのである。
  私には、寝たきり状態で明日の行方が見えなくなっている母をこれ以上苦しませたくないという思いもあったが、母は、まだ生きようとする気持ちが強いと思っていたので、もう少しは大丈夫と踏んでいたのであった。しかし、後で考えてみれば、どこか安堵していたような面もあったので、死期を悟りふっと息を抜いたのだろう。
  母は、死の前夜、自ら強く望んで久しぶりに入浴し、身を小奇麗にしたようで、霊界への旅立ちの準備をしていたのか。翌朝、容態が急変し、長く苦しむこともなく、あっけなく逝った。
  母の死後、私は、自ら修験道の作法に従い仏式で母の魂の引導渡しを行った。喪主を兼ねて葬儀一切の導師を務めた。もともと、私が僧籍を得たのは、母の導きで金峯山寺に行き得度をしたことがその発端であり、今、考えてみれば、母の葬式をするために得度をして、修行を重ねて大阿闍梨になったような気がする。 かといって私自身が悟りを得ているわけではない。
  当然、母の法名も、母が私より1年早く得度したときに頂いた法名をそのまま使った。母は、私の行う葬儀修法に満足し納得して、現世での一切の憂いを断ち切り黄泉の国、来世へと旅立ち極楽往生した。このことを幸いと思いたい。
  その後、たまたま残っていた母が出たS尋常高等小学校の同窓会アルバムを見たとき、母が生まれ育った時代背景が見えてきた。若い時代は、戦争という背景を抜きにして生きられなかった。その中での結婚、出産、別離があった。戦争を挟んだ苦しい時代を、必至に生きてきた。
  青春の時代に戦争がなければ、母も私ももっと違った人生があったのかも知れないが、人は避けて通れない宿命に翻弄されて生きている。その道筋をもがきながら生きて、自分の人生を形作って行くしかないのだろう。母は母なりに、正しい仏陀の教え道理を見るべく生涯かけて正見行脚したのだろう。そして、最後に悟りの境地に至り、生涯を閉じたと思う。
※画像は「クリップアートファクトリー」
http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/07_character/clipart2.htmlからお借りしました。

2008年12月10日水曜日

「けじめ」をつける(実母のアルバム⑩)

  母の身内に心から母のことを慕い、心配してくれた人がいたのだろうか。母が残した書類の中に、CやDの金銭借用書があった。母が常々「お金を貸したが返してくれない。あげてもいいと思ってはいるが、貸してくれと言って借りたのだから、いったんは返すのが筋。それがけじめ」と言っていたが、その話は事実だったようだ。
  母の死後、Cは、私に「お母さんが亡くなっても絶対に返します」と口にしたが、母に督促されても返さなかったものを私に返すはずがない。Dは「お母さんが、そのお金は返さないでよいといっていた」と言った。
  母は、1人で生計を立てていただけに、お金のことはシビアであった。世話になった人にはきちんとお礼をし、お小遣いをあげたりする人だったが、貸してくれと言って貸した人にお金を返さないで良いと言うような人ではなかった。母が貸したお金を返してもらおうとは思っていないが、けじめのわからない人たちを悲しく思う。C、Dとも母の遺品を運び出した後は何の連絡もない。
  なお、母の遺品に群がった人たちがTVアンテナやトイレマット、トイレットペーパーなど、まさかと思えるような品々までも運び出したのには驚いた。
  生前、母は、私に「お前は、人に借金したりして迷惑をかけるようなことはしないが、私の周りには、私からお金や金目のものを取ろうとしている人が多い」と嘆いいたことがあり、当時、私は母の妄想と思っていた。しかし、今は母の嘆きの意味を理解できる。
 [死者に合掌せず]
  もう一つ残念なことがあった。母に、子供ときから育ててもらった人が、新興宗教Eに入信し、母の死に際して合掌一つしなかったことである。自分たちの実父の死のときもそうだったという。本人たちは基督教と言っていたが、本当にキリストはそんな教えを説いたのだろうか。
  ところで、母が入院中に「いつも親切にしてもらっている」と言っていた看護師(男性)がいた。母がこの看護師に好きなのは何かと尋ねたら「焼酎が好き」と言った。母が私に「彼に焼酎をあげたい」と言った。そのことを知った婿が鹿児島に出張したときに買った焼酎をくれた。この焼酎を彼にあげたらすごく喜んでいた。
  母が死んだ朝、出勤してきた彼と廊下出会った。早朝に私が病院にいるので不思議に思い「どうかされましたか」と声をかけてきた。母の死を知った彼は看護服に着替えた後、「お別れをさせてください」と霊安室で合掌した。その看護師の姿を見た看護長が「早く持ち場に戻りなさい」と注意した。
  焼酎2本を貰っただけなのに恩義を感じ、持ち場を離れてまでも霊安室に行き合掌を捧げた看護師がいるのに、どうして上述の人たちは合掌一つできないのだろう。
  身近な人の死を悼み合掌して気持を捧げるのは自然の姿である。自然の流れに逆らうような教えに染まってしまった人たちなのだろう。
  葬儀の流れの中で最初から一切顔を出さないのならまだしも、食事時には大挙して押しかけてくるのが不思議だった。たとえば通夜には出席せず、その後、故人とのお別れを惜しむ飲食時には出席する、さらに翌朝告別式前のおときに来て食事をし、告別式が始まるといない。火葬場に行くバスに大挙して乗車、そのため大型バスを手配しなければならなかったが、火葬している間の待合室での飲食に参加したが、遺骨は拾わない。料亭での法要の間は誰も姿を見せず、精進あげが始まるとどっと入室する。当然、御霊前は包まない、線香は立てない、焼香はしない、合掌はしない。
  そして、「私たちは生きている人には尽くすが、死んだ人を悼むことはしないという教えに忠実に従っているだけです」と主張する。道理に反する教えは無意味である。世話になった人に対する感謝の気持が伝わってこない。死者を悼むことはしないが、死者が残した遺品はいただく。母は、この人らを、どんな育て方をしたのだろう。
 [けじめ]
  当初は、母の家を売って分けようと考えていた。しかし、それは、母の本意ではないことを悟った。母が残した遺品のすべてを与えたことで、私との関わりも終わった。人としての道理や人情が通じない親戚は要らない。これが、霊界に赴く母が下した最後の「けじめ」であった。ただ、亡母の供養をしてくれる人には別に考えている。  母は、自由闊達に生きた人と思っていたが、本当は、身内の多くに頼られ裏切られていた寂しい人だったのかもしれない。

2008年12月9日火曜日

自らの信奉との決別(実母のアルバム⑨)

  母の某社信奉は、その死の1か月ほど前まで続いた。しかし、死を意識していたのか、会員継続を「もうしないでよい」と口にして更新せず自然脱会した。折もおり所属していた支部が、本部から離脱し別会社を設立したことも決断を促す一因になった。
  最後は、実子の私にすべてを託し来世への引導を渡してもらうしかないと思ったようで、そのためにも死ぬ前に、私が関係していないこの社への信奉を整理しておこうと考えたのではないかと思う。その頃には、自分が死んだ後、S霊園に遺骨を納骨できることが分かり安堵するなど、死を意識していたことは確かであった。
  私が仕事などで帰りが遅くなったり、疲労で休んだりして病院に顔を出せない日があると、翌日必ず病床から携帯電話をかけてきた。それほど気が弱くなっていたのだろうが、やはり最後に面倒をかけ頼ることのできる人は、私しかいなかったのである。
  母が死に、母とは姓が違ってはいたが、葬儀の喪主になる人は私以外にはいなかった。まず病院の霊安室での供養から始まる葬儀一切を、私が導師となり仏式で行うことにした。病院から葬儀車で死体を母の自宅に運んだ。
  居間に敷いた布団に寝かせようとしたとき、布団に大きな同上社のロゴの入ったシーツが敷いてあったので、すぐに取り除いた。「誰がこの毛布を敷いたのですか」と尋ねたら、Bの妻(同社会員)が「姉さんをこの毛布の上に寝かせた方が喜ぶと思ったので」と言った。
  母は、生前、常々同社は宗教ではないと言っていたので、供養法まで口をはさむことはない。だが、その会員が喪主に断りもなしに、自分の考えで勝手なことをしてはいけない。私は、「母は、死ぬ前にそこをやめています」と言った。
  余談だが、母は、生前、私や私の家族の健康を願いゴールド会員にして、ゴールド会費を払ってくれていた。数回、母を私の車で所属支部まで送迎したこともあった。母は、同社の健康食品(サプリメント)を販売する指導員になっていた時期があり、この商品仕入れ等に相当の金銭を使っていたようである。
  葬儀が済んで数日後、同社に詳しいBが合鍵を使って母の留守宅に入り、大量に買い置きしてあった健康食品(仕入れ伝票、領収書、電話早見表を含む)のすべてを持ち出した。1か月後、Bを追求したところ、「K町の会員に全部あげたら喜ばれた」「伝票類は燃やした」「早見表はちょっと連絡したいところがあったので」と答えたが、健康食品の量は1人の人にあげて喜ばれるような半端な量ではない。それらを売りさばくために伝票、早見表も必要だったと考える方が妥当である。仕入れゼロで販売すれば売り上げのすべてが儲けになる。母は一体誰のために、これらを大量に買っていたのかと思う。母は生前、Aが健康食品も狙っていると言っていたが、実際に狙っていたのは母が信用していたBだったということになる。母の周りには信じるに足るような人はいたのだろうかと思う。
  ただ、同社会員の中にも親友といえる心の友、高齢のUさんがいた。晩年の母にとっては救いであった。何かと電話やハガキで励ましあっていたようで、人生の最後にこのような人にめぐりあえたことは幸せだった。そのUさんとは、私も数度、電話でお話したこともあり、今でも感謝している。
 ※画像は「クリップアートファクトリー」http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/02_woman/clipart1.htmlからお借りしました。

2008年12月7日日曜日

絶縁10年を経て母と再会(実母のアルバム⑧)

  実母との交際を絶って10年後、母から「主人が死んで丁度10年経ったからもう会ってくれもいいでしょう、相談があるから来てほしい」と電話があった。
  縁を切っていたはずだが、母の方から「相談がある」と言われると、そこにはどうしても説明の付かない気持ちの動きがあった。そして、母の家を訪れた。
  会うと、親子の10年の溝は一瞬のうちに埋まってしまったかのようであった。相談とは、母が所有していた中古アパートに関することで、「A君が、アパートを壊して、1ルームマンションを建てる計画を勧めているが、どうしたらよいか」ということであった。
  その後、母の家で、AとAが連れてきた不動産屋さんにあった。不動産屋さんは、「満室になれば収益が出ます」「お母さまは年老いておられるが、商売をして銀行の信用があるA氏が保証人になれば銀行ローンが組めます。A氏が保証人になった後、もしもお母様に何かあったときは、お母様名義のものはすべてA氏が受け取り引き継ぎます。そのために、お母様と付き合っておられない実子のあなたに遺産放棄をしてもらいたい」と言った。
  黙って聞いていたが、許されないという思いが湧いてきていた。聞き終わったと同時に私の口が開き、次のようなことを言った。
  「ワンルームマンションの需要が長期に続くとは思わないし、現在設定した家賃の額をいつまでも維持できるとは限らない」 。
  「この計画では、満室になっても収益が少ない上に、満室にならないと赤字になる。この計画を実行すると、途端に母の生活が困窮するのが目に見えている。このような採算の取れない計画には絶対に賛同できない」 。
  「母と付き合っていないというが、母には今のアパートがあり、生活は困らないという背景があり、安心感があったから付き合わなくても平気でいられたのだ。そのことを他人にとやかく言われる覚えはない」 。
  「だいたいA(呼び捨て)は母の何なのか。銀行が信用しても私は信用していない。そんな人に保証人になってもらう必要はない。他人のあんたに遺産放棄しろと言われて、はい、そうですかと答える義理はない」。
  これに対して怒った不動産屋さんは、「私の店舗に来て親分と会って話をしてくれ」と意味不明の話をしだしたので、「いつでも会うよ」と応じたら、母が「喧嘩はしないでくれ」と言った。
  後日、この不動産屋さんの店舗に赴き、ここには書けないやり取りがあったが、結果的にこの計画は消滅した。
  計画を壊した私に対して、母は、意外とさばさばとしていた。迷っていた気持ちが吹っ切れたようだった。
  その後、私は、母にI不動産を紹介して次のことを実行に移させた。①アパートの管理一切をI不動産に変更し、I不動産に手数料5%を支払い、その管理一切を委託させる。③アパートの家賃を下げて全室を満室にすること。そのお陰で、家賃集金に関わる心労は減り、逆に母の収入は増えた。
  しかし、年月の経過とともに、入居者が入れ替わるたびに家賃は徐々に下がり、その上、台風や地震などによる被害で建物のあちこちに傷みが生じ、その補修費がかさむようになった。また荷物を置いたまま行方知れずとなる人がいたりして、その廃品撤去にも費用がかかるといった状況も出だした。次第に母はアパートに手をかけることを止め、空き室が出ると新しい人を入居させることもしなくなった。母の死後、築35年になるこの古アパートを相続したが、現在、その取り扱いに苦慮している。
  しかし、もし母が当時Aの計画に乗っていたら、確実にマンション経営に行き詰まり、その後の人生は暗礁に乗り上げていたはずである。だが、この一件がなかったら、本当に一生、母と再会する機会がなかったかも知れない。私を再び母に近づかせるために、Aは悪役を演じさせられたことになる。これが神仏の見えない力である。母にとっても私にとっても、あの時点で完全に親子の縁を断ち切ることは許されなかったのだろう。
  しかし、以後10数年間、母が入院するまでは、是々非々の付き合い方をしてきた。あまり親身になりすぎると、1人暮らしが長い母にいろんな疑念を抱かせてしまうことになりかねないと思っていたからである。
  そして、今回再び私の前に立ちはだかったAは、今度は完全に信用を失い、母が死を迎える前に除外された。せっかく母の面倒を見てきた好意が、心がけの間違いで悪意であったことが露見したからではあったが、結果的には、Aは、私に母に対する最後の孝行をさせる機会を与え、母の葬儀を執行させるための役割を演じたことになる。
  これらのすべては、神仏の見えない力や導きによるもので、神仏は、「必要なときに必要な人にいろいろな役割を演じさせられる」のである。
※画像は、http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/02_woman/clipart1.htmlからお借りしました。

2008年12月6日土曜日

宗教遍歴、そして母との絶縁10年(実母のアルバム⑦)

  実母は、若いときから宗教を渡り歩いた。知る限りでも生長の家、真光文明教団、崇教真光、金峯山修験本宗、阿含宗などがある。私は、母と一緒に、それらの宗教を回った。その過程で、私は、修験の総本山金峯山寺で得度をした。
  山岳修行等を積み重ね霊力を得たある日、母の家の土地建物を祓い神仏供養を行った。その直後、母の後夫が退院し交通事故にあった。この事故で、私が行った祓い供養を疑った母は、お祀りした神仏をすべて廃棄した。
  後夫は、交通事故にあっても身体には何の異常もなかった。これは、神仏のおかげをいただいたのだ、きっと車が身代わりになって自分の悪因縁を除去してくれたのだ、などと思えば良かったのだが、そうは考えなかった。
  特に母が一時熱烈に信心した崇教真光では、このような現象が起きることを「清浄化」として教えており、母自身が他人にそう説いていたはずだった。しかし、災難が自分に降りかかってきたとき、それを「清浄化」現象だと考えることができなかった。事態の好転を、逆に悪化と捉えてしまったことで、もはやなす術はないと悟った私は、以後、母の家と宗教的、霊的なことで直接かかわりあうことを避けた。同時に、以後、母の宗教遍歴に付き合うこともなかった。
  その後、母は、後夫の病状の再悪化と看病に明け暮れる中でESP(パワー)にのめりこんで行き、後夫の死を見届けることになった。
  私は、陰で後夫の成仏法を修し、母の寿命が10年以上延びたことを確信し、この日を境に母との交際を絶った。およそ20年前のこと。そして、この状態は、実に10年に及んだ。

2008年12月5日金曜日

「そら豆」が好きだった(実母のアルバム⑥)

  熊本の知人が「風雅巻き」(豆菓子)をくれた。有明海で一番摘みしたという焼き海苔で数個の炒めた豆を棒状に巻いただけの菓子である。焼き海苔を噛んだときのバリバリ感に加え、「バッリッ」と音を立てて口の中で砕け散る豆の感触が何ともいえない。
  この豆菓子、母が好きだった。仕事の帰りに母の家に立ち寄ったとき、この豆菓子が菓子入れに入っていたことがあった。私が一つ手に取ってみたら、母が「これ、美味しいよね」と言った。この豆は、入れ歯で噛んでも容易に崩れる硬さなので、食べやすかったのだと思う。糖尿病もあったので、好きな菓子を多くは食べられないようだったが、たしなむ程度には食べていた。
  油大豆、梅大豆、醤油ピーナッツ、醤油カシューナッツ、わさび大豆、醤油そら豆などいろいろあるが、私は、「醤油そら豆」が好きだ。どうして、「そら豆」なのかというと、私の場合、多分、幼児期に受けた養母の影響だと思う。実は、私を育てた養母が「そら豆」を好きで、よく一緒に炒った「そら豆」を食べていた。
  私の娘ができた後も、養母は、幼かった娘(孫)の手を引き、「行きましょう、行きましょう」と歌いながら、屋台で売っていた「そら豆」を買いに行っていた。屋台のおばさんに「お孫さんは、おばあちゃんにソックリですね」と言われるのが嬉しかったようだった。血縁ではなかったが、私も娘も養母によく似ていた。
  もっとも当地では、「そら豆」のことを「糖豆」と言っていた。糖分をたくさん含んでいたのだろうか。戦後の食糧難の時代でも、この豆は容易に手に入り、満腹感を味あわせてくれる手ごろな食べ物だったのかもしれない。
  そして、実の母もまた、不思議なことに「そら豆」が好きだった。W病院で一時生還した後、病室のベッドで「豆菓子が食べたいから千代町の豆屋さんで買ってきてくれ」と言ったことがあった。「どんな豆?」と聞いても「あれ」「あれ」というだけで名前が出てこなかった。多分、「そら豆」と言いたかったのだと思うが、そのときは思いつかなかった。思いついていれば、デパートで「風雅巻き」でも買ってきたのに、頭が回っていなかった。
  千代町の豆屋さんがどこにあるのか知らなかったが、千代町に行ってみたらと「豆屋」と書いたバス停があった。近くのパピヨン24ビルの地下駐車場に車を停めて豆屋を捜し回った。そのビルの1階の道路に面した場所にあった。何を買ってよいか分からなかったので、軟らかそうな豆菓子類をいろいろ買った。そこで硬いそら豆が好きだったことを思い出した。
  病院に持って行くと、一番にそら豆を手にして「この豆が食べたい」と言ったが、「入れ歯で、こんな硬い豆が食べられるの?」と聞いた。結局、食べたのは柔らかい甘納豆菓子のみだったが、大好きなそら豆を手元に置いているだけで安心できたのかもしれない。病院で息を引き取ったとき、この豆を持って昇天したのかも知れない。
  私がそら豆を好きなのは養母の影響と書いたが、ひょっとしたら実母の遺伝の影響もあったかもしれない。醤油そら豆の風雅巻きを食べながら、ふと、そんなことを思った。
 ※画像は、「風雅巻き(醤油そら豆)」の包み。

2008年12月3日水曜日

一時生還(実母のアルバム⑤)

  母が転院して間もなく、呼吸困難に陥り一時危篤状態になったことがあった。
  その日、Aが私に電話してきて、「どう考えてますか」と尋ねた。「どうって何のこと?、葬式のことを言っているの?」と聞き返すと、「そうです」。
  私は、「葬式の喪主は私がする。葬式費用も全部、私がつごうする。ところで、君は、母の生活の面倒を見てくれていたようだが、母に預金があったかとかを知っているのか」と尋ねたら、Yは「私は、そんなことにはタッチしていませんので、まったく知りません。調べてみます」と答えた。
  思わずAが口にした意味不明の言葉、「調べてみます」の意味は?。Aにしてみれば、このやり取りで私が母の預金のことを知らないことを確信して、思わず口にした言葉であった。チャンス到来、かねてから持っていた合鍵で母の留守宅に入り、金庫のなかにあった現金と預金を持ち出した、と推測される。
  母がこのまま死んでいれば、この問題は表面に出ることはなかった。しかし、母を守護する神仏は、そうはさせなかった。母の生きようとする生命力の方が強かった。医者は、「この病状で生きている方が不思議」と言った。
  死の淵にいた母の魂は、確実にAの動きを見ていた。生き返った母は、すぐさまAに電話して、「金庫から持ち出した私のお金を返しなさい」と言った。Aは、慌てて、引き出して銀行預金の一部を戻し入れをしたものの、その後、一切病院に近づかなかった。母は、Aのことを「泥棒」と言い出した。
  それでも、私は、一切この問題に立ち入らなかった。そんな私の態度に業を煮やしたのが娘だった。「母から、この問題を解決して欲しいとは頼まれていない、頼まれてもいないことには口出しはできない」と言う私の態度に対して、娘は、「お父さんがそんな考えだからAにいいようにされるのだ」と怒鳴った。
  翌日、母に、そのことを話した。母は「頼む」と言った。真実を確かめるべく、母から金庫のキーを預かった。母の弟(叔父)に立ち合わせて金庫を開けようと思い、叔父に電話をしたところ、「俺も姉さんに頼まれて金庫を開けたが、年金証書などの書類以外は何も入ってなかった」と言われた。母が叔父に金庫を開けることを頼んだという話は聞いてなかったので、後で母に尋ねたが、母は記憶にないと首をひねった。金庫の中は、叔父が言ったとおりだった。
  母の預金があった銀行、郵便局は、ともに担当者が、通帳・印鑑紛失による再発行手続きのための本人確認をするために入院中の母を訪ねた。キャッシュカードを作っていなかったので、Aが一部銀行で母の預金通帳を使ったことは目撃されていた。銀行は、「紛失ではなく盗難にしましょう」とアドバイスしたが、「犯罪者は作りたくない」と言った。
  ここまで確認がとれた以上、黙って見過ごすことはできない。母に「これからAに連絡して会って話す」と言うと、「あんたは、すぐに喧嘩を始めるから、喧嘩だけはしてほしくない」と言い、Aの取引先のY氏に電話をしてくれと言った。母の携帯からY氏の携帯に電話した。留守電になったが、折り返しY氏から電話があったので母にかわった。母が、涙ながらにY氏に訴えた。
  急転直下、翌日、Aが私に電話をしてきた。「おばちゃんから預かっていた預金通帳など返します」。私に母の預金のことなど「まったく知りません」と言っていたはずなのに、知りすぎるほど知っていたことになる。ただし、会って返金してもらった現金額は、母が言っていた額の1割で、葬式費用も出ない額だった。
  もちろん、喧嘩はしなかったが、これでAとは縁切りだと思った。Y氏にお礼の電話を入れた。この問題が決着した後、母は、その現金と預金を私に渡して死んだ。最後は、私を信じるしかなかったのか。さほど孝を尽くした息子ではなかったのに。しかし、母は死ぬまで、Aを許してはいなかった。母に近づいてくるので、Aに頼ったところもあったが、心から信じてはいなかったようだ。親族筋からAに葬式の連絡は行ったが、Aとその家族は誰も来なかった。来れなかったのだと思う。

2008年12月2日火曜日

実母の転院と不審な出来事(母のアルバム④)

  先日、S校同窓会名簿の49人(母を除く)に喪中ハガキを送った。10枚が「宛所に尋ねあたらない」として返送された。地番が明確な人たちが多かった。返信のあった1人を除き、生存の可否は不明。
  S町内居住者は18人、その多くは地番が書かれていなかったが、その多くは配達された模様。S町の郵便局は、名前だけを見て配達できる昔ながらの温かさが残っているのだろう。ほほえましい限りである。
  ところで、なぜか母は、母校があったS町に建つW病院に入院したことを快く思っていなかった。ここは、終末期医療の病院のように見えるので、入院した後、まだ死にたくないと思ったのだろう。確かに、毎日、見舞いに行き、周りの入院患者さんの姿を目にするたびに、何か救いのないような寂しさが漂っていた。その死を迎えるまで、たびたび病室を替えられていたが、そのつど誰かが亡くなっていたのだろうか。
  転院前のK町の救急病院では、看護師さんに車椅子を押してもらいトイレに行っていた。私が見舞いに行ったときは、私が車椅子を押してトイレに連れて行くのが日課だった。トイレの中まで運び、パンツを下ろしてやると、「もう、そこまででいいから、外に行きなさい。外で待っとかないかんよ」と言う。「うん、分かっちょる」。終わったら、また病室まで押して戻る。自分ながら、よくこんなことができるものだと思っていた。
  しかし、転院してからは、排便排尿はすべてオムツで、決まった時間に作業療法士がオムツを取り替えに来る。これでは本当に寝たきり老人になってしまう。
  リハビリ室に頼んで、極力体を動かしてもらうようにはしていたが、だんだん自分で身動きができなくなってしまったことが多分つらかっただろう。私も病室に行くたびに、母に命令されて、その足を持ち上げて擦ったり、クリームを塗ってあげたり、体を持ち上げて寝返りを打たせたりもした。しかし、その持ち上げ方の要領がわからず苦労した。自らの力で動かすことができなくなった母の体は非常に重く感じた。
  入院した後で、この病院の終末期医療の性格が分かり「転院したい」と言い出したのかも知れないが、それにしても、なぜ、W病院に転院したのか、私はまったく知らなかった。母に付きまとっていたAが、突然、転院さ、その直後に私に電話で知らせた。何度もK町の病院に足を運んでいた私が知らない間に、転院先が決まっていたなど、長男として恥ずかしい限りであった。
  以後、Aと顔を合わせたのは次の一度だけである。母が一時危篤から立ち直った後、私がAの会社に行き、Aが持ち出していた母の現金と貯金通帳、印鑑等を返還してもらったときである。返還額は、母が言っていた額の10分の1に過ぎなかった。
  そればかりではない。仕事が終わって、K町より遠いこの病院に着くのは、どんなに急いでも面会時間の終わる午後7時前後頃、それ以後に着くことの方が多かった。毎日、その前後頃に見舞いに来ては、面会時間を越えて帰る私の姿を看護師さんらが目にしていた。ある日、担当看護師さんが母に「あの方はどなたですか」と尋ねた。母が「息子です」と答えたため、病院中が大騒ぎになったらしい。
  Aは、母を転院させ、手続き書類にサインをしたとき、「おばさんには子供はいない」と言っていたというのである。そのため私の存在を知った担当看護師は、ビックリして「お子さんはいないと聞いていたが、いらしたんだ」と、大騒ぎになったというである。当然、事務室にもナースセンターにも、私の連絡先を教えていなかった。Aは、母の面倒を見る振りをして、どこまでも私だけではなく周りの人たちまでも騙し続けていたのである。
  そのことを知った私は、病院に「以後、一切Aに連絡する必要はない」と告げた。入院時にAは「一切の延命治療をしないでよい」という書類にもサインしていた。このことは、母が息を引き取る間際に担当看護師さんに知らされて知った。Aは、一刻も早く母が死を迎えることを待ち望んで病院を選んでいたのだろうか。不可解かつ不愉快な行動であった。

2008年12月1日月曜日

実母は育った故地に死に故地に埋葬(実母のアルバム③)

  実母は篠栗町の病院で死んだ。いわば尋常高等小学校の頃過ごした故郷の地で死んだことになる。しかし、その死を迎える瞬間まで、この地で育ったことを言わなかった。
  言っていたのは、「宇美の病院に転院したい」だった。宇美は出生地だった。気持ちは生まれ故郷を目指していたのかも知れないが、病院の医師は「転院できるような状態ではない」と言い、母の希望を果たすことはできなかった。
  ところが、どういうわけか母は、元気な頃、篠栗の霊園墓地の権利を購入していた。入院中に、そこに「お父さんが1人でいるので寂しいだろう」と口にしたことがあった。お父さんとは、再婚した夫のことで、20年前に亡くなり、遺骨はその霊園に納められている。その後、霊園の権利は、その子息に譲渡したようだ。
  その子息に電話で「母は、死んだ後、篠栗の霊園に入りたいと言っているが、入れてくれるか」と尋ねた。「母と直接会って話す」との返事が返ってきた。この話を母にしたら、母は怒った。「誰も入れてくれとは言っていない。お父さんが1人で寂しいだろうと言っただけだ、何でお前は話を変えるのか」と。
  もともと母は自分が買った霊園だという意識はあったと思うが、自分の死後の管理はその子息に託すしかなかった。夫の死後、子息と母との間で、交流が途絶えていたようで、お互いのコミニュケーションがとれない状態になっていた。私も、子息とは、20年来、まったく話をしていなかった。
  その子息が病院に見舞いに来たとき、母が切り出した。「お墓のことだが」、その言葉をさえぎるように、「自分がちゃんとするから、心配はしないでください」。その言葉を聞いて、母は安堵し、喜んでいた。私に怒っても、本音はそこに入れてほしかったのだと思う。そして、心のどこかに、このまま死を迎えるのではという予感もあったかもしれない。
  母の死後、未納4年分及び今後10年分の霊園管理費を支払い納骨した。埋葬の儀は、私自身で執り行い、今後の管理と供養を子息に託した。私にしてみれば、実母ではあるが、その遺骨は、後妻に行った夫と同じ墓地に納める方がよいと判断した。
  結局、母は、子供の頃に過ごした篠栗の地で最期を迎えた。その遺骨は、同じ篠栗の地に埋葬されたことになる。この埋葬地から最期を迎えた病院が眼下に見えている。不思議な巡り合わせである。
  母が子供のとき、いつから篠栗に住まいしたかは不明。だが、篠栗尋常高等小学校卒業同窓会アルバムがあり、その同窓会に出席した写真や同窓会名簿も残っていたので、この地で同校卒業を迎えたことは間違いないだろう。この地には、まだ生存している同窓生がいたかも知れないが、誰にも連絡などしていない。もっとも終末期医療で身動きもままならなくなった姿を同窓生にさらすことは嫌だったかも知れない。