2008年9月20日土曜日

胡蝶蘭香る観音会で実母の追善供養護摩

18日夜、故実母の追善供養を兼ねて観音会を開催した。
  心配した台風13号の来襲はなく、先に花屋さんから頂いた白の花びらの胡蝶蘭を、観音会の間、道場拝殿から内殿に移して神前に供えた。故実母の「七日ごとの法要に供えてください」と、鹿児島県肝付市から取り寄せていただいたもの。その美しい胡蝶蘭の甘い香りが発露する真横で追善供養の護摩をたくことになった。
  これまで実母と私の交わりは「親密と疎遠」の繰り返しであったが、終末医療と分かった頃からは、毎日のようにその入院先に足を運んだ。実母が寝たきりの状態になってからは、実母が望むことを聞いてあげ、少しでもかなえてあげようとした。仕事で病院に行けない日があると、翌日、病床から「今日は来ますか」と電話をかけてきた。
  「お前は、これまでまったく私の面倒など見なかったので、最後はお前が面倒を見るようになっているんだよ」と口にしたこともあり、最後に頼ったのは、たった一人の実子である私だけだったのかもしれない。「最後はとは、ないだろ」と言うと、「そう退院したら温泉にもハワイにも行くんだった」と答えていたが、あるいは死期を悟っていたのかもしれない。
  何事にも前向きで、人の悪口を言わない人だったが、死ぬ前に唯一、悔しい口調で「何かと面倒をみてくれていた人が、実は泥棒だった」と語ったことがあった。そのことを耳にしたのは、実母が6月3~4日に呼吸困難の危険な状態に陥り、急遽行った延命祈祷で生還した直後だった。担当医師は「この病状で生きていることの方が不思議」と驚いたが、もしこのとき生還していなければ、このことを知るよしもなかった。御守護の神仏が、その人物の実態を知らせるために実母を生還させられたのだった。
  その後、その人が持ち出した現金と預金通帳を返してもらったが、実母が口にしていた金額よりは遥かに少なかった。
  私の娘が、「そんな人を信じたおばあちゃんが悪い」と怒ると、最初のうちは、「半分死にかけているおばあちゃんを、そんなに怒らないで」と言っていたが、そのうち「おばあちゃんは、もうあんたと喧嘩する元気もなくなった」と口にしだした。徐々に死期が迫っていたのだろう。
  この娘とその娘(曾孫)は、実母にとっては、自慢の孫と曾孫だったようで、曾孫が習っている日本舞踊の来春の発表会を楽しみにしていたが叶わなかった。実母は、自ら三味線を弾き日舞を楽しむばかりでなく、ギターを弾き英語でポップス曲を歌い、また社交ダンスも踊る多芸な趣味を持った人でもあった。
  私が満1歳の誕生日を迎える直前に実父が戦死(当時実母は満19歳)していなかったら、お互いの人生はもっと違ったものになっていたかもしれないが、お互い生を受ける前からの因縁や業に支配されていたのかも知れない。
  満21歳のとき、満3歳の私を故実父の実兄に渡して離縁、私が成人後に再び出会った。その後、ずっと心ではお互いに思いあいながらも、なさぬ仲で面倒をかけあわない意地みたいなものがあった。

  死ぬ前夜は入浴もして綺麗な体で死を迎えることになった。肝臓から全身に転移した病根の痛みを悲壮に訴えることはなかった。荒い息使いが治まった後、ゆっくりと眠るように旅立っていった。負の遺産を含めて残したもののすべてを私に託すことができたので、安心して寿命を全うし、これ以上生の苦しみを味わうことなく霊界へと旅立ったものだと思った。

  実母が口にしたとおり、結局、最後は私が面倒を看、最期を看取り、喪主として葬式を出し、導師を務め成仏法を修し、納骨、仏壇(位牌)の手配をもすべてを取り仕切ることになった。35日を過きた後に遺産を処分し、その後のことは実母が後妻に行った先の子息に託すことにしている。

  実母逝去以来、忌中で入室を控えていた道場内殿に、観音会のこの日初めて入った。主として観音経と光明真言を勤行する観音会のなかで、合わせて胡蝶蘭の極楽の香りの漂うなかで清清しく故実母追善成仏護摩を修することができた。合掌。
  ※画像は「決定版フォーク・ポップス黄金時代」http://www.sonymusicshop.jp/cdbox/folk

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