2007年4月25日水曜日

人の幸運と不運は同数

平成19年4月22日本尊供養大祭執行
 昨夜、萩本欽一出演のKBCテレビ(23:00~54スマステ!!)で、彼の「人生で幸運と不運の量は同じ」という考え方を聞き、そのとおりだろうと思った。
 人は、幸運ばかりを願い、不運を悔やむが、不運で苦しんだ分だけ幸運が来ると思えば、不運を悔やむ必要はない。不運は甘んじて受けよう。不運で苦しんだ分だけ幸運が廻ってきてその分だけ幸せになると思えば悔やむことはない。
 人には生年月日に左右されるバイオリズムがあることは、よく知られている。生命保険会社でよくこの表を作ってくれたりするが、その曲線は日々上下に山と谷を繰り返して描いていっている。この曲線を見ていても、確かに山と谷の数は同じになる。良いことの後には悪いことが、悪いことの後はまた良くなる。つまり悪いことはよくなる前兆なのだから、今の苦しみを乗り越えればきっと良くなる、こう思うことができればどんなときでも心身に活力が沸いてきますね。照見行脚で苦行をした後、すがすがしい気持ちになれるのも、苦しみを乗り越えたからこそ味会うことのできる喜びだからでしょう。まさに幸運と不運は同じ、これも照見行脚する行者が心得ておくべき真髄の一つであろう。

2007年4月23日月曜日

古家解体と頭痛について

平成19年4月19日
 ある婦人が自分の住んでいる家の敷地内にある古家(空き家)を壊したら激しい頭痛に襲われたという話をされた。その原因を探ったら、古家を壊す前にしておかねばならなかったことをしてなかったからだった。
 この家の場合は、古家を壊す前に母屋の台所に神棚を作り屋敷神を迎えておく必要があった。さらに仏壇に置いてある二つの繰り出し位牌を一つにまとめて別に先祖代々の位牌をおいた方が良かった。その上で古家の解体を迅速に行うべきだった。
 また、古家に置いてあった荷物は、どれとして価値あるものはなかったので解体屋さんに持ち去ってもらったらよかった。しかし、捨てがたい物があったようで、それらを母屋に運び込んだようである。だが、そのときその物に憑いていた憑き物が一緒に母屋に入ってしまった。先に母屋に屋敷神をお迎えしておけば、その憑き物の侵入を未然に防ぐことができたと思う。
 母屋に入り込んだ憑き物は、アゼハシリなどの動物霊の類で、仏壇にも侵入した。。御先祖位牌を置いて供養しておれば、侵入を防ぐことも可能であったと思う。すべきことをしないまま、解体を実行に移すまでの期間もかかりすぎた。
 御先祖は、頭痛という現象を通じて早く間違いに気づくようにと教えておられたのである。
 解体後、母屋の部屋のあちこちで、仏壇でもミシミシ、パチパチと音がしだしたという。また、仏間に置いてある観音様が泣いておられるように見えるという。
 考えてみると、これは、古家を壊す相談があった頃に伝えていたことであった。神ごとの真髄を伝え、その人がそのとおりにしてくれないとき、教えた者にその反動が来て体調にこたえる。こういった照見行脚の行はありがたいものではない。
 とりあえず、今すべきことを教え、頭痛を抑えた。婦人が4/22の供養大祭に参加された後、仏壇で線香を立てられたら仏壇のアゼハシリは飛び去る。それで上記の現象も一応は治まるが、願わくばやはり教えたことを早く実行に移してほしいと思う。

2007年4月18日水曜日

志賀海神社の話題から。

平成19年4月15日。知人らと雑談の中で、みのもんたの「にっぽんミステリー(日テレ)」の話が出て志賀海神社の話になった。誰かが「志賀のお神様は海神で荒く怖い神様でお姿を見せないために、夜中の真っ暗ななかで笛や太鼓だけで御神幸を行うのだろうか」と言った。
 「そうしてみると志賀海神社の巫女さんが老婆と言うのも何か通じるところがありますね」、「若い巫女では怖くて勤まらないということですかね」、「怖いと言ったら、極端に不浄を嫌うお神様だといいますから、それを破ると怒られるのですよ」と会話は続く。
 確かに島には不浄を嫌う風習があるそうだ。たとえば、葬式を出した家は棺桶を持って参道を横切ってはいけない。また近所の人がお悔やみに行っても御霊前をそっと置いてすぐに逃げ帰るなど。
 ある人が子供とき、参道で小便をしているところに練習中の流鏑馬の矢が飛んできて、矢に小便をかけてしまった。その人は、その後、何度も死ぬような経験をして志賀島を出て行くことになったという。
 また、祭典のとき宮司が放った流鏑馬の矢が島外から見学に来た子供の額に当たった。その子は病院に運ばれ異常はなかったが、後でその子の家が葬式を出した直後だったことが分かったという。不思議な話があるものだ。葬式を出した家の人たちは、少なくとも1年間は不浄があけるまで、神社に行くのは慎んだ方がよいと思う。
 私は、志賀海神社にも随分と行っていない。この日、志賀海神社の話が出たのは縁のある境内末社の神にお参りに来るようにと言われているのかも知れない。この参拝も照見行脚の道筋の中にあるのではないかと思う。
 ※画像は、志賀海神社楼門、http://www.sikanosima.jp/shikaumi-shrine/index.html

2007年4月10日火曜日

大祭前の本尊祠・山頂御挨拶

  平成19年4月8日(日)のこと。今月、本尊供養大祭を実施するにあたり、お迎えする本尊様と結縁神仏への事前御挨拶に赴いた。
  本尊祠前の観音堂で「33観音」の絵馬を見上げていたが、随分と色あせてきているような気がした。以前その一部をRが線画にしたことがあるが、この33観音の所在地(絵馬の文字はほとんど読めない)及び現存の有無については未だ調べていない。
  本尊祠に着いたとき、その右後方の眼下に見える池の縁を指差して、時節柄、孫に「以前、あそこに大きな桜があったんだよ」と言ったら、「池があったの、初めて知った」と言った。ここには何度も来ていたのに知らなかったのかとビックリした。当然知っているものだと思っていたが、思い込みだった。孫にとっては新たな発見となった。
  祠前で勤行を始めたと同時に突然強風が吹き出した。そして、勤行が終わったと同時に吹き止み静かになった。この強風は集落や山中の神仏が四方からここに参集された証であった。池の水面も祠方向に向かって波打ち、神仏が水上を通って来られている様子が実感できた。山林にたたずむ上宮や中宮にも行きたいと思っていたところ、図らずもその神々の方がやってこられ「今日は行かずともよい」と。そのため、お供えしたお神酒が少なかったかなと思ったほどだった。したがって、山頂にも登らなくてもよいのだと思ったが、山頂にはここに参集された神仏と一緒に登れということだった。
  祠前で「竹の子」が2本、頭のてっぺんを土の上にもたげ出そうとしていた。これがお供えとなった。このままにしていてよいのかとも思ったが、妻が「地元の人が(処分)するからいいよ」と言ったので、そのまま、この場を後にした。
  祠への坂の途中にいつも吠える番犬がいるが、今日はどういうわけかおとなしく座り込んで頭をたれ一声も吠えなかった。神仏の姿を敏感に感じていたのだろう。
  山頂に登ることには、猪出没の心配から妻が強く反対した。「危険なときは、道路の途中に柵がしてあるから引き返せばいい」と言って納得させた。ところが、本当に柵がしてあった。妻が「引き返そう」と言ったが、タイミングよく柵の向こうに男性がいたので、「猪がでますか」と聞いた。「たぶん出ないでしょう」と言われたので登ることにした。その人は、香を納得させるために神仏が遣わされた人であった。
  山頂霊石にお塩とお神酒を上げたが、既に祠で神仏への挨拶は済んでおり、ここで軽く参拝をした後、弁当を広げ直会とした。食事が終わったと同時にまた強風が吹き、小雨も降り出したので、急いでお神酒を周辺にまき下山することにした。この強風は、一緒に登ってこられた神仏が退散されたときに巻き起こったもので、小雨は大祭前挨拶を受け止められた神仏のうれし涙だった。これにより本尊様と、その結縁神仏への大祭前の御挨拶を行うことができ、同時に大祭成就のお示しをいただいたのであった。晴れ晴れしい気持ちで帰路についた。