ホテルに着いた後、長崎の知人とあって食事をした。知人に、「ホテルを取るのに苦労した」ことを話し「連休の間は、長崎はホテルが取れないように観光客が多いのですね」と言ったところ、「いえ、そうではなく、今日、ホテルが取れたのは奇跡に近いことですよ」と言われた。
「なぜ?」と問うと、「24日に長崎で列福式があり、バチカンを始め世界からカトリック信者が、続々と長崎に集まってきていますから、ホテルは一週間ほど前からどこも満室になっているはずです」と言われた。
「そうなんですか、だったら運が良かったんですね」とは言うと、「そうですよ」と言われた。この知人は、カトリックの信者なので、この列福式に期待をしているようだった。私が列福式の意味を知っていると思われたのか、それ以上の説明はされなかったが、実は初めて聞く言葉だったので、何のことかよく分からなかった。
今朝、たまたまホテルに置いてあった読売新聞(11/22付)の「広告のページ」を見ていて、やっとその意味が分かった。そこには次のように書かれていた。
「江戸時代に殉教した日本人カトリック信者188人を、ローマ教皇庁が正式に「福者」に列する「列福式」が11月24日、わが国では初めて長崎市で行われる。」
「福者は、カトリック教会において死後その人の徳と聖性が認められたことを証する敬称で、「聖人」に次いで崇敬される。福者の列に加えられることを「列福」といい、これを公式に宣言する式が「列福式」。」
今朝、法事の会場に向かうタクシーの中でも、運転手さんが同じ話をされ、「長崎市内には、参集するカトリック信者3万人を収容できるだけのホテルの客室が、ファッションホテルを含めてもないので、長崎県下はもちろん、佐賀、福岡のホテルに至るまで予約でいっぱいになっているはずですよ」と言われた。
このような世界的規模の行事が行われる最中にホテルが取れたということは、まさに「奇跡に近いこと」と言われたことが理解できた。これはきっと神仏の仕組みがあったのだと感謝した。
次の話は、列福式とは関係ないが、前述のカトリック信者の知人(私と同年齢)が、仏式で亡父50年忌法要をされたことを付記する。
「父が死んだときは、仏式で葬儀を出しましたが、子どもの私たちがカトリック信者となったため、以後父の供養をする者がおらず仏壇も位牌もすべて焼き捨てました。ところが、最近になってもう父の死から50年経っていることに気付いて、やはり供養は仏式でしてあげねばいけないのではと思いました。もともとの檀家であった寺を訪ねたら、戒名の記録が残っており、その寺で供養してもらいました。今までカトリックの信者としてお寺で合掌をしたり法事をすることなど絶対に許せないことだと思っていましたが、この歳になってやっと亡父はカトリック信者ではなかったのだから仏式でやってあげなければと思うようになれました。そして、それをする自分を許すことができました。こんな気持ちになれるまで、これだけの齢を重ねなければならなかったのです」と言われた。
確かに、家の宗教と自分の信仰とは別のもので、自分の信仰は一代限りで、家の宗教を変えることは好ましいこととはいえない。仏教徒というか一般的な日本人は宗教に対する肝要さ、言い換えれば「いい加減さ」があるが、カトリック信者となると、そんないい加減さは許せないのかも知れないのだろうと思った。知人は、本当によいことをされたと思う。
※画像は、「列福式」で福者となる、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンの像=10月、長崎県西海市。産経ニュースhttp://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081115/acd0811151047004-n1.htmからお借りしました。
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