2008年12月5日金曜日

「そら豆」が好きだった(実母のアルバム⑥)

  熊本の知人が「風雅巻き」(豆菓子)をくれた。有明海で一番摘みしたという焼き海苔で数個の炒めた豆を棒状に巻いただけの菓子である。焼き海苔を噛んだときのバリバリ感に加え、「バッリッ」と音を立てて口の中で砕け散る豆の感触が何ともいえない。
  この豆菓子、母が好きだった。仕事の帰りに母の家に立ち寄ったとき、この豆菓子が菓子入れに入っていたことがあった。私が一つ手に取ってみたら、母が「これ、美味しいよね」と言った。この豆は、入れ歯で噛んでも容易に崩れる硬さなので、食べやすかったのだと思う。糖尿病もあったので、好きな菓子を多くは食べられないようだったが、たしなむ程度には食べていた。
  油大豆、梅大豆、醤油ピーナッツ、醤油カシューナッツ、わさび大豆、醤油そら豆などいろいろあるが、私は、「醤油そら豆」が好きだ。どうして、「そら豆」なのかというと、私の場合、多分、幼児期に受けた養母の影響だと思う。実は、私を育てた養母が「そら豆」を好きで、よく一緒に炒った「そら豆」を食べていた。
  私の娘ができた後も、養母は、幼かった娘(孫)の手を引き、「行きましょう、行きましょう」と歌いながら、屋台で売っていた「そら豆」を買いに行っていた。屋台のおばさんに「お孫さんは、おばあちゃんにソックリですね」と言われるのが嬉しかったようだった。血縁ではなかったが、私も娘も養母によく似ていた。
  もっとも当地では、「そら豆」のことを「糖豆」と言っていた。糖分をたくさん含んでいたのだろうか。戦後の食糧難の時代でも、この豆は容易に手に入り、満腹感を味あわせてくれる手ごろな食べ物だったのかもしれない。
  そして、実の母もまた、不思議なことに「そら豆」が好きだった。W病院で一時生還した後、病室のベッドで「豆菓子が食べたいから千代町の豆屋さんで買ってきてくれ」と言ったことがあった。「どんな豆?」と聞いても「あれ」「あれ」というだけで名前が出てこなかった。多分、「そら豆」と言いたかったのだと思うが、そのときは思いつかなかった。思いついていれば、デパートで「風雅巻き」でも買ってきたのに、頭が回っていなかった。
  千代町の豆屋さんがどこにあるのか知らなかったが、千代町に行ってみたらと「豆屋」と書いたバス停があった。近くのパピヨン24ビルの地下駐車場に車を停めて豆屋を捜し回った。そのビルの1階の道路に面した場所にあった。何を買ってよいか分からなかったので、軟らかそうな豆菓子類をいろいろ買った。そこで硬いそら豆が好きだったことを思い出した。
  病院に持って行くと、一番にそら豆を手にして「この豆が食べたい」と言ったが、「入れ歯で、こんな硬い豆が食べられるの?」と聞いた。結局、食べたのは柔らかい甘納豆菓子のみだったが、大好きなそら豆を手元に置いているだけで安心できたのかもしれない。病院で息を引き取ったとき、この豆を持って昇天したのかも知れない。
  私がそら豆を好きなのは養母の影響と書いたが、ひょっとしたら実母の遺伝の影響もあったかもしれない。醤油そら豆の風雅巻きを食べながら、ふと、そんなことを思った。
 ※画像は、「風雅巻き(醤油そら豆)」の包み。

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