2008年12月1日月曜日

実母は育った故地に死に故地に埋葬(実母のアルバム③)

  実母は篠栗町の病院で死んだ。いわば尋常高等小学校の頃過ごした故郷の地で死んだことになる。しかし、その死を迎える瞬間まで、この地で育ったことを言わなかった。
  言っていたのは、「宇美の病院に転院したい」だった。宇美は出生地だった。気持ちは生まれ故郷を目指していたのかも知れないが、病院の医師は「転院できるような状態ではない」と言い、母の希望を果たすことはできなかった。
  ところが、どういうわけか母は、元気な頃、篠栗の霊園墓地の権利を購入していた。入院中に、そこに「お父さんが1人でいるので寂しいだろう」と口にしたことがあった。お父さんとは、再婚した夫のことで、20年前に亡くなり、遺骨はその霊園に納められている。その後、霊園の権利は、その子息に譲渡したようだ。
  その子息に電話で「母は、死んだ後、篠栗の霊園に入りたいと言っているが、入れてくれるか」と尋ねた。「母と直接会って話す」との返事が返ってきた。この話を母にしたら、母は怒った。「誰も入れてくれとは言っていない。お父さんが1人で寂しいだろうと言っただけだ、何でお前は話を変えるのか」と。
  もともと母は自分が買った霊園だという意識はあったと思うが、自分の死後の管理はその子息に託すしかなかった。夫の死後、子息と母との間で、交流が途絶えていたようで、お互いのコミニュケーションがとれない状態になっていた。私も、子息とは、20年来、まったく話をしていなかった。
  その子息が病院に見舞いに来たとき、母が切り出した。「お墓のことだが」、その言葉をさえぎるように、「自分がちゃんとするから、心配はしないでください」。その言葉を聞いて、母は安堵し、喜んでいた。私に怒っても、本音はそこに入れてほしかったのだと思う。そして、心のどこかに、このまま死を迎えるのではという予感もあったかもしれない。
  母の死後、未納4年分及び今後10年分の霊園管理費を支払い納骨した。埋葬の儀は、私自身で執り行い、今後の管理と供養を子息に託した。私にしてみれば、実母ではあるが、その遺骨は、後妻に行った夫と同じ墓地に納める方がよいと判断した。
  結局、母は、子供の頃に過ごした篠栗の地で最期を迎えた。その遺骨は、同じ篠栗の地に埋葬されたことになる。この埋葬地から最期を迎えた病院が眼下に見えている。不思議な巡り合わせである。
  母が子供のとき、いつから篠栗に住まいしたかは不明。だが、篠栗尋常高等小学校卒業同窓会アルバムがあり、その同窓会に出席した写真や同窓会名簿も残っていたので、この地で同校卒業を迎えたことは間違いないだろう。この地には、まだ生存している同窓生がいたかも知れないが、誰にも連絡などしていない。もっとも終末期医療で身動きもままならなくなった姿を同窓生にさらすことは嫌だったかも知れない。

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