2008年12月19日金曜日

吉野山に前登志夫さんの歌碑が建立された

  12月7日に、たまたま目にしたブログ「短歌と英語大好きのおばさんの日々」に「前さんの歌碑が、吉野山の金峯山寺の境内の南朝皇居跡公園に立てられたという記事があった。刻まれた歌は、さくら咲くゆふべの空のみづいろのくらくなるまで人をおもへり  歌集「青童子」より  ご自身がわかりやすい歌をと、生前に選ばれたものだという。05年のころから歌碑建立の話があり、碑の文字も自筆の色紙から採ったものとのこと」と書かれていたのを見て、すばらしいことだと思っていた。(http://blogs.yahoo.co.jp/fumanband/45849064.html)
  前さんと直接を言葉を交わしたことはないが、昭和60(1985)年10月14日金峯山寺蔵王堂前で「蔵王讃歌」の大合唱が披露されたときお見かけしたことがあり、以来、お名前は、作詞された「蔵王讃歌」とともに忘れたことはなかった(4月8日記載ブログ参照)。
  最近(10月8日)では、ブログsomething like that で、次のような文を見て、私も読んでみたいと思っていたほどである。それは、「前さんと駿台」というテーマで「10月5日に行われた駿台予備校の全国模試をちらちらみていたら、国語の問題に、前登志夫さんの「存在の秋」の一節が引用されていた。吉野の桜の話、ビルマで戦死されたお兄さんのしてくれた楠正行の話などであった。」(http://pinecones.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-ebc9.html)
  そんな折、金峯山寺から届いた「金峯山時報(12月10日発行)」で「前登志夫氏の歌碑 有志により建立する」の記事を見た。
  記事を見ると、建立除幕式は11月25日に執行され、その場所は妙法殿前辺りのようだ。そういえば、そこに「南朝皇居跡」の石碑が建っていたような記憶がある。ここを南朝皇居跡公園というのだろう。昭和56年から27年間、毎年、「金峯山時報」新年号に掲載されてきた前氏の新春短歌集を金峯山寺にて編集発刊したとのこと。また遺弟の集い「山繭の会」の萩岡良博氏が歌碑の詩を披講されたという。「山繭」は「やままゆ」と読むのだろうか。
  この後で、金峯山寺・田中利典宗務総長のブログ「山人のあるがままに」を読んだ。「吉野のサクラをこよなく愛し、また自分自身が吉野の山林に定住して、山川草木の深い慟哭を聴き続けて来たことでしられる歌人」で、「今年新年号の最後の歌が「一基だに われの歌碑なき吉野山 雪ふみくだる いさぎよかりき」であった。この歌をいただいたとき、えーー、先生の歌碑はたくさん建っているのに吉野山にはなかったのだとはじめて気づき、ま、督促していただいたようなものだと悟って、早速建立話を寺内ですすめるところとなった。先生の意向もお聞きして「さくら咲く ゆふべの空のみづいろの くらくなるまで人をおもへり」という自筆の歌を刻むことを指示いただいたが、生前中の建立はかなわず、昨日ようやく建立をみて、4月に亡くなった先生の遺影にささげたのであった。」とあり、ようやく歌碑建立の経緯が分かった。
  また、金峯山寺に寄稿された歌は、昭和45年以来の分を含めると99首もあるそうだ。
  前登志夫さんは、山深い山中の集落(自宅/下市町広橋)で生育され、林業に携わる傍らで、吉野山の自然をこよなく愛し讃える短歌を詠み続けられ、土俗の前衛的歌人とも称されていたが、本年4月5日吉野の山桜の咲く季節に82歳で亡くなられた。
  死後にはなったものの念願の歌碑が吉野山、しかも吉野櫻に包まれた修験道の総本山金峯山寺境内に建ち、きっと霊界で喜んでおられることだろう。この歌碑は前さんの菩提碑と言ってもよく、すばらしい供養碑となることだろう。今度帰山したときは、必ず見学し合掌を捧げたいと思っている。
 ※画像は、「山人のあるがままに」http://yosino32.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-e2de.htmlからお借りしました。

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