「国指定史跡・緒方宮迫西石仏」の看板が目に入ったので車を停め、石段道を歩いて登った。入口付近に一対の常夜灯があり、登り詰めたところにある岩窟には、彩色を施した立派な三体(薬師、釈迦、阿弥陀如来)の磨崖仏が鎮座していた。
また、この東、約200mの岩窟にも「緒方宮迫東石仏」(大日如来、不動明王、不明2体、多聞天、仁王像、宝塔2基等)が鎮座していた。この参道にも一対の常夜灯があった。
この2箇所の石仏は信仰形態としては一連のものと思う。12世紀(平安時代)の造営で、造営の目的は不明だが、宇佐神宮や真言密教の影響を受けている。平安末期、緒方荘庄司緒方三郎惟栄は、これらの石仏の庇護をしたといわれている。
緒方三郎惟栄は、豊後大神姓の姓祖大神惟基の5代孫で、同姓氏族衆から発展した豊後武士団の棟梁であった。「豊後国誌」によると、その大神氏の祖は、京都の朝廷から豊後に下向し、この地にとどまった豊後介大神朝臣良臣で、その子が惟基だという。大神氏は、大分川や大野川流域に根を下ろし、やがて強固な武士団として勢力を伸ばした。この大神姓氏族には、緒方氏を筆頭に臼杵、佐賀、戸次、大野、直入、朽網(くたみ)、稙田(わさだ)、佐伯、高田、阿南氏など37氏がいた。
緒方荘は、宇佐神宮の荘園で、その庄司であった緒方三郎惟栄は、平重盛の御家人として宇佐神宮とは深いつながりがあったが、平重盛没後、後白河上皇から平氏追討の院宣を得て源氏に寝返り、1183年同族の臼杵惟隆、日田永秀らとともに大宰府に拠った平氏を襲撃した。
また、1184年7月には宇佐神宮(宇佐八幡宮弥勒寺)を焼き打ちした。宇佐神宮が平氏一辺倒だったからだというが、その前に荘園の上分米を巡って宇佐神宮大宮司公道との確執があったからだという。同年11月周防にいた源範頼に兵船82艘を献上して、1185年3月壇ノ浦の戦いでの源氏勝利の魁となったが、先の宇佐神宮社寺の焼き討ちでの社殿、本堂、仏像破壊や虐殺による神罰を受けたのか、その後、急速に滅亡への道を突き進んで行った。
同年11月、後白河院の命を受け大物浦(だいもつうら/尼崎市)で源義経を迎え豊後に向け船出したが、大風(シケ)で船団は壊滅し、沼田荘(群馬県沼田市)に配流された。源氏や後白河院に利用され、翻弄され続けた地方武士の悲哀をなめて鎌倉幕府成立前に歴史の舞台から消えていった。その後残された豊後武士団を統括した棟梁格の大野泰基も、鎌倉幕府軍によりあえなく滅亡した。
豊後大神姓一族の繁栄は、緒方の里で築かれたというが、今回初めて緒方町に行って、緒方盆地の中央を流れる水量豊富な緒方川、緒方井路を通りその周辺に広がる水田に運ばれる水、これらの風景を目にしたとき、当時とどれほどの変化もないだろうと思った。この肥沃な土地を背景に繁栄の基盤を確立していったのだとうなずけた。さらに一族は、大野、直入、九住山麓の草原地帯で戦馬を育て、瀬戸内海周防灘に面する臼杵、佐伯港等にあった海部水軍を配下におさめ水陸に跨る豊後武士団を成立させた。
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