2008年12月11日木曜日

生涯かけて正見行脚(実母のアルバム⑪)

  母は、別の意味で、私に「何度も裏切られた」と言ったことがあった。思い当たることは多々ある。
  私は、幼少のときから養母の元で育ち、養母に対する想いは人一倍強く、また恩義も強く感じていた。この心がいつもブレーキとなって、実の母には、接近しては離れる、を繰り返し、心底から気持ちを通じ合えないジレンマがあった。その狭間で、産んだだけの母とは縁を切ろうなどと思ったこともあったが、結局は切れなかった。血のつながった実の親子とはそんなものなのだろう。私の、時として決断を鈍らせる優柔不断な性格も、こういった背景のもとで形成されたのかもしれない。
  それでも最後は、心から母を想い、自分なりに尽くすことができた。一度は延命護摩をたき、死の淵から生還させることができたが、二度目はできなかった。というより、もう少し生きていると思っていたのである。
  私には、寝たきり状態で明日の行方が見えなくなっている母をこれ以上苦しませたくないという思いもあったが、母は、まだ生きようとする気持ちが強いと思っていたので、もう少しは大丈夫と踏んでいたのであった。しかし、後で考えてみれば、どこか安堵していたような面もあったので、死期を悟りふっと息を抜いたのだろう。
  母は、死の前夜、自ら強く望んで久しぶりに入浴し、身を小奇麗にしたようで、霊界への旅立ちの準備をしていたのか。翌朝、容態が急変し、長く苦しむこともなく、あっけなく逝った。
  母の死後、私は、自ら修験道の作法に従い仏式で母の魂の引導渡しを行った。喪主を兼ねて葬儀一切の導師を務めた。もともと、私が僧籍を得たのは、母の導きで金峯山寺に行き得度をしたことがその発端であり、今、考えてみれば、母の葬式をするために得度をして、修行を重ねて大阿闍梨になったような気がする。 かといって私自身が悟りを得ているわけではない。
  当然、母の法名も、母が私より1年早く得度したときに頂いた法名をそのまま使った。母は、私の行う葬儀修法に満足し納得して、現世での一切の憂いを断ち切り黄泉の国、来世へと旅立ち極楽往生した。このことを幸いと思いたい。
  その後、たまたま残っていた母が出たS尋常高等小学校の同窓会アルバムを見たとき、母が生まれ育った時代背景が見えてきた。若い時代は、戦争という背景を抜きにして生きられなかった。その中での結婚、出産、別離があった。戦争を挟んだ苦しい時代を、必至に生きてきた。
  青春の時代に戦争がなければ、母も私ももっと違った人生があったのかも知れないが、人は避けて通れない宿命に翻弄されて生きている。その道筋をもがきながら生きて、自分の人生を形作って行くしかないのだろう。母は母なりに、正しい仏陀の教え道理を見るべく生涯かけて正見行脚したのだろう。そして、最後に悟りの境地に至り、生涯を閉じたと思う。
※画像は「クリップアートファクトリー」
http://www.printout.jp/clipart/clipart_d/03_person/07_character/clipart2.htmlからお借りしました。

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