2008年10月28日火曜日

「北里柴三郎と出会う旅」の案内を見て

  TIP(旅行会社)のHPに「歴史ナビゲーター(井上政典)と行く感動初体験!!歴史上の偉人から元気をもらう旅」の企画があり、その第1弾は、「北里柴三郎と出会う旅」で、行先は「北里柴三郎記念館」とあった。このHPを見て昨年夏、「北里柴三郎記念館」に行ったときのことを思い出した。
  私が北里柴三郎について知っていた知識は、
①小学校の頃、「北里柴三郎は、明治時代に日本が生んだ世界的な細菌学者(破傷風菌の純粋培養法の確立と血清治療を発見)で、第1回ノーベル医学・生理学賞の候補にあがったが、当時、白人は黄色人種に対する偏見があり受賞できなかった」と教わったこと。
②奥様の名前が松尾トラだったこと。
③私は学生時代の一時、青山墓地下のアパートに住んでいたが、近くの青山墓地に北里柴三郎の墓があったこと。
④結婚当初、神奈川県に住んでいたが、相模原市北里にあった北里大学相模原キャンパスの前を車で通ったことなどで、何かしら北里柴三郎の名前だけはずっと記憶していた。ところが、それ以外の詳しい伝記などは知らず、まして、その生家が小国町(熊本県)にあったことなど、昨年夏まで知らなかった。
  昨年夏、杖立温泉(大分県・熊本県の県境)に宿泊した日、小国町方面をドライブしている途中、「北里柴三郎記念館⇒」の看板を目にしたとき、「何でこんなところに北里柴三郎記念館があるのだろう?」と思ったくらいであった。とにかく行ってみることにして、⇒の方向に進んだ。山間の曲がりくねった小道を通り抜けると急に視界が開けた。北里柴三郎記念館は、その右手の高台にあった。ここで初めて北里柴三郎の生誕(1852 [嘉永5]年)地が小国町北里であったことを知った。
  この記念館の敷地内に移築・復元された生家の一部(1895[明治28]年、両親が東京に移住後、解体されたときに残された座敷2間)の、開放された2階の座敷から眺める景色は絶景だった。当日は、真夏なのに、涼しい風が吹き込んで気持ちがよく、晴天の青空の下に広がる湯蓋山の山並みと盆地内に広がる田畑の風景に見とれ、しばし癒しの空間を味わうことができた。なお、実際の生家は、この台地の下の北里川沿いに建っていたようで坂下屋敷といわれていたらしい。
今回、TIPの企画には、日程(11月8日or15日)の調整ができないので参加できないが、また行ってみたい場所ではある。なお、私が通った道は旧道で、観光バスは、後方の丘の上のパイパスを通ると思う。

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