2008年9月24日水曜日

「男たちの大和」を観て南方で戦死した実父想起

  日曜洋画劇場で「男たちの大和/YAMATO」(05年東映・佐藤純弥監督)を観た。何度観ても鈴木京香と仲代達矢のやり取りにひきつけられる。やがて、回想という形をとって戦艦大和が出撃する場面へと進んで行く。
  大和艦上で対空砲を発射し米軍の航空機と対戦した男たちが壮烈な戦死を遂げていく場面を観ていると涙がこみ上げ、戦死した実父のことが思い出された。実父が乗船した船は、南方戦場に向かう陸軍輸送船で、昭和19年3月16日午後4時頃、 北緯5度00分東経136度46分の南太平洋上で米軍機の攻撃を受けた。
  実父は、当日、下痢気味で船室で休んでいたが、急いで甲板に戻り対空砲を握った。しかし、午後4時23分、米軍機が発射した弾丸が頭部を貫通し絶命したという。私は、若い頃、日常的に頭痛に悩まされ鎮痛剤(バッファリン)を常用していたが、ある事情で小仏壇を買うことになり、借家の一室に置いて実父の供養を始めたら頭痛が治まった。これにより、実父が頭部を撃たれて死んだという話は事実だったのだと悟った。実父の霊は、私のところに還って来ていたという証でもあった。
  大和の対空戦さながらに、実父も輸送船の対空砲を握りしめ壮烈な死に方をしたのだろう。当時満26歳、私が満1歳の誕生日を迎える直前だった。実父の面影については、残されていた数枚の写真以外に記憶がない。実父が私を抱いたという話も耳にしたことがない。
  ただ、故祖母から次のような話を聞いたことがあった。実父が乗船した船が門司港に寄港したとき、「出航まで3時間停泊する、妻と子供に会いたい、タクシーで来させてほしい」と実家に電話を入れた。しかし、そのとき妻(実母)は、行く先も告げず子供(私)を連れて出かけていた。実母は、当時満19歳で、夫のいない家にじっとして耐えているといったタイプの人ではなかった。家族総出で探したが見つからず、実父は妻子に逢うことなく出港し還らぬ人となった。生まれた子を抱き上げることもないまま戦死したのだと思う。実父の戦死の公報は、同年6月26日暁第2953部隊(中川多計士部隊長)からもたらされたが、その部隊の詳細、また乗っていた船の名も知らない。
  実母は、若くして未亡人となり、凄いショックと子供の養育に不安を抱えていたと思う。今も私の左耳下に残る傷は、若さゆえに子供の養育に手を焼いた名残なのだろう。実父の本家が私を引き取り、実母は家を出た。養父は私が6歳のとき死んだ。またも父親との縁は薄かった。
  彼岸に入り墓参。墓には実父の法名は刻しているが、遺骨は入っていない。戦死公報とともに骨壷が届けられたとき、本家の戸主(後の養父)は激怒して、その場で骨箱を投げ捨てた。「誰の骨とも分からないものを持ってくるな」と怒鳴った。骨壷には、誰のものか分からない一かけらの骨が入っていたという。実父の骨は「大和」の戦死者と同じように海中の藻屑となったのだろう。今は養母も死に、先月実母が死に、親子が歩んだつらい戦後の戦い(歴史)がやっと収束したのかも知れない。
※画像は「男たちの大和/YAMATO」のポスター。

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