2008年7月3日木曜日

宝満山大護摩供発起の思い出

 「宝満山登頂2000回」の記事を朝日新聞(6/30)と毎日新聞(7/1)で見た。6月29日、明太子メーカーふくやの川原健(たけし)会長(64歳)が75年から33年間かけて宝満山(標高829メートル、太宰府市、筑紫野市)登頂2千回を達成されたという。実にすばらしい記録で、心から祝福を贈りたい。
  私にとっても宝満山は、思い出深い山ではあるが、登頂回数となると、初めて登った高校生のときから数えても50回に満たないと思う。それも40歳を境にしてまったく登っていない。なかでも一番思い出深いのは、昭和57年5月16日の宝満山心蓮上人1300回遠忌入峰と同30日の採灯大護摩供である。
  もともと宝満山は、明治5年修験道が廃止されるまでは、神仏混淆の修験の山であった。当時、自らの修行として、登頂日を決めると毎回夜明け前に鈴懸を着て1人で竈門神社から登っていた。コースはそのつど変えてはいたものの、どういうわけかその日は必ずと言ってよいほど風雨か風雪に見舞われた。 
  人気のない夜明け前、薄暗い山中で、雨や雪でずぶ濡れになって登っている最中に聞く風のうなり声は不気味で、思わず身震いすることもあった。ある日、このうなり声は、全山供養を私に呼びかけているこの山の御神霊の声ではないのかと感じ、宝満山での大護摩供開催を思い立つことになった。
  発起して約1年、賛同する行者を求め1人で走り回り、宝満山修験会を結成し、竈門神社での100年振りの採灯大護摩供の実現に漕ぎ着けた。その当日、多くの祈願者の護摩木を刀印で切り、護摩壇に投げ入れていた私の眼前に兜巾と梵天袈裟を着けた凛々しい山伏姿の御神霊が立たれ全山供養の成就を見届けられた。その姿を捉えた神霊写真も残っている。
  当初の主催は、天台宗系修験各派の宗派を超えた宝満山修験会ではあったが、その翌年の入峰と大護摩供のときに各派間での不協和音が出た。私は、それを機に、宝満山の御神霊が求められた全山供養の目的は既に前年達成していたので、これ以上惰性で形だけの大護摩供を続ける必要がないことを悟り、会を離れた。
  このとき、私の名は、発起者ではあったが抹消され、宝満山修験会も別の組織に改変された。以後再び単身修行者に戻ったが、同時に宝満山からも遠ざかって行くことになった。再び宝満山の御神霊が修行再開を求められたときは単身修行者として登ろうと思う。
 ※画像は宝満山http://www.y-urc.com/yama/04/0412homan.htmlから転写しました。

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