3月10日以降続いていたチベット騒乱のさなか、5月2~3日サイクロンがミャンマーを襲い、続いて12日の中国・四川大地震が起きた。四川大地震では、15日中国が日本の国際緊急救助隊を受け入れたが、ミャンマーは拒否している。
ミャンマー(旧ビルマ)といえば「ビルマの竪琴」の水島上等兵を思い出すが、第二次大戦時、日本軍は同国で約17万人の戦死者を出した。
戦後、日本はいち早く同国の復興に力を注いだので、同国の国民の多くは日本に対して好意を持っているというので残念に思う。
和布刈公園山頂にある「平和パゴダ」(北九州市門司区)は、昭和33年に日本人ビルマ戦線戦没者供養のために、日本と当時のビルマ政府仏教会資金を出し合って建立されたもので、現在同所でこの戦没者供養の中心になっているウ・ウィジャナンダ大僧正(昭和54年ミャンマーから来日)は、母国の政情を憂いつつ今回のミャンマーでの被災者に対する日本を初めとする国際支援を望んでおられる。
私は、10数年前、当時務めていた大学で、ひとりのミャンマー人女子留学生を受け入れたことを思い出した。
身元引受人は、当時筑豊で料亭を営んでおられ、ビルマ戦線での生き残りだと言われた。
多くの戦友を失い、生き残ったことに戸惑いを隠しきれずにいたが、亡くなった戦友の供養のために何度もミャンマーを訪れ、現地にパゴダを建設された。
その除幕の日、一心に合掌して祈りを捧げている少女に目が留まり、声をかけたことから交流が始まり、やがて日本での父親となり、日本の大学に留学させることになったといわれた。
私の実父が南太平洋で戦死したことを話したら、自分が焼いたという湯呑み(陶器)を贈呈された。毎日、その湯呑みにお茶を入れて仏壇に上げていたが、あるとき割れたので残念に思っていたところ、後で氏が亡くなられたことを知った。きっと戦友のもとに旅立たれたのだと思う。
彼女は、日本語も上手になり、学力も優秀、卒業するときは民族衣装を着てきますと言っていたが、その前に私が退職したため、見ることができなかった。
彼女は、その後、国立大学院を修了し、現在も国内に居住しているが、母国の状況を知ると複雑な思いにかられていることだと思う。
今回のミャンマー被災ニュースを見ていて、忘れかけていたことを思い出した。この10年間、私は仕事に追われるあまり縁ある人たちと疎遠になっている。
※画像は、http://www.data-max.co.jp/2008/05/2008515_1.html(一部記事参考)からお借りしました。
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