今月一杯で、大人気のNHK朝の連ドラ「ちりとてちん」が終わるが、私が今一番期待しているのは、小草若(茂山宗彦)がいつその亡父徒然亭草若師匠(渡瀬恒彦)の十八番であった落語「愛宕山」に挑戦して、「小」の一字を消して四代目草若を襲名できるかである。
草若師匠の妻は、「たんぽぽの花」が好きで、本人も、そこにいるだけで周りの人の気持ちが明るくなる、春の陽だまりのなかに咲く「たんぽぽの花」のような人であったという。草若師匠は、庭に「たんぽぽ」を植え、よく手入れをして亡くなった妻を偲んでいた。そして、「たんぽぽの花盛り」の景色が出てくる「愛宕山」の落語を得意芸としていた。
その草若師匠は、20週目の「立つ鳥あとを笑わす」の巻で、上座で草原・草々・小草若・四草ら4人の弟子がリレーで長編落語「地獄八景亡者戯」を上演じている間に地獄に旅立ち、この「地獄八景…」で語られる「その道中の陽気なこと」さながら、ニコニコしながら地獄への道行きを楽しむ。そこで出会った末弟若狭の亡祖父和田正太郎(米倉斉加年)に声をかけられる。
「もうすぐ三代目草若さんが来なるんで、もう地獄寄席の前に行列ができてますのや、奥さんが三味線構えて待ってますでえ」
「しほが?、そりゃ嬉しいなあ」
「さあ行きましょう」
ふと、草若師匠が足元を見ると3輪の「たんぽぽの花」が咲いている。その1輪の茎を手で折って口にくわえ、その格好で地獄寄席会場に入った草若師匠の顔は、生き生きとして実に粋であった。その顔に照明が当たり、黄金色に染まったその姿は、地獄にあっても明るい「たんぽぽの花」を象徴しているようだった。最後の最後まで草若師匠のモチーフは「たんぽぽの花」であった。
ところで、地獄といえば、平安時代の末法思想から来世で極楽浄土に往生するために阿弥陀如来を観ずる浄土教信仰の世界を説いた源信(恵心僧都)の「往生要集」(985年)が思い浮かぶ。末法思想とは、釈迦が入滅した後、正法、像法の時代を経て仏の教えが全く行われない末法の世が来るという思想で、末法の世を穢土といい、そのものが地獄であった。末法世の初年は1052年だから、現在まで956年続いていることになる。
浄土教は、鎌倉時代には浄土の対極として地獄がさかんに語られ、人間の内面にある迷いの世界を説く六道を地獄絵として描くことが行われるようになった。私は子供の頃からこれらの地獄絵を見て育ち、六道輪廻を信じた。因みに六道とは、阿修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、人道、天道である。
それ故かもしれないが、私は、興福寺の「阿修羅像」(上記掲載画像)や徳川家康の「厭離穢土欣求浄土」の旗印、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、映画「天国と地獄」(三船敏郎主演、最近TVで佐藤浩市主演あり)などの世界に引き寄せられた。そして、日々の勤行で「法華経神力品第二十一」や「普門品第二十五」と合わせて「念仏」を唱えることに何の違和感もない。
現代がストレス社会といわれ、ストレスに端を発した心身障害その他の病気、そして闘争や欺瞞に明け暮れ、貧富の差にあえぐ世界などを見たとき、必ずしも「厭離穢土欣求浄土」の平和な世界が到来しているとはいえず、末法の世は続いているといえるのかもしれない。
話がそれたが、ちりとてちんの草若師匠と正太郎とのあの世での出会いの場面に話を戻すと、楽しい会話がある。
「やっぱり地獄へ落ちてきたんどすかね」
「いやいや、すぐそこに天国の入口があります、いつでも好きな方に行ったり来たり出来ますよって」
「えらい融通効きますのやな」
「とりあえず地獄へ来てください」。
仏教では地獄の対比は極楽浄土と言うべきなのだろうが、ここでは上述の映画「天国と地獄」の題名と同じく基督教でいう天国という言葉を使っている。それはさておき、ここで描かれている地獄は、この上なく陽気なところである。人の死と死後の世界を笑って見れるドラマ、そして地獄に唯一咲く「たんぽぽの花」の輝きもすばらしい。
私たちも生きている間に「たんぽぽの花」ように、自他共に一瞬でも輝き続けることができる人でありたいですね。
もうすぐ終演です。
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