毎日新聞日曜版に70回連載されていた古川薫の「斜陽に立つ」は、2月24日の紙面で、「自敬に徹した最後のサムライにとって、世上の毀誉褒貶(きよほうへん)は無縁のざわめきでしかなかった」の言葉を最後に、明治天皇崩御の後を追って自刃した乃木希典・静子夫妻の殉死で完結した。既に二人の息子(勝典26歳、次男保典24歳)は、ともに戦った旅順戦役(南山と二百三高地)で亡くしており、ここに乃木伯爵家は断絶した。
私は、子供の頃、乃木大将の話を繰り返し祖母から聞かされていた。その中には、次のような話もあった。私が人参を嫌いと言って食べなかったら、決まって「乃木大将は子供の頃人参が嫌いで、母親から毎日人参を食べさせられた」という話をされ、人参を食べさせられた。お陰で私は人参を食べられるようになった。ところが、どういうわけか私の子供や孫は、幼児のときから人参が好きだった。私の子供の頃と味付けが変わっていたのだろうか。
また、誰かの話と重なっているかもしれないが、「乃木大将は、妻との結婚のとき、わざと遅れてきて、男は私事より公務が大事として、女は男に従うのだということを示した」とも言われたような記憶がある。乃木は妻子に対しては冷たく粗暴であったという説もあるらしいが、心底では妻子をこよなく愛していたと思う。本書では、結婚当初、静子を嫌った姑寿子が離縁させようとしたとき、乃木は「あれ(静子)がこの家を去るときは死骸になってでるときです」と言ったと表現している。それゆえに、妻は夫と生死を共にするほど、夫によく従ってきたのだと思う。私には、そんな器量はなさそうだ。
私は、学生時代、3年間、旧乃木邸や乃木神社のある赤坂乃木坂に近い麻布霞町(当時の地名)に住んでいた。旧乃木邸や乃木神社にも足を運んだ。あまり鮮明には記憶していないが、赤坂の一等地にありながら、乃木公園の上にあった旧乃木邸の一角は妙に静かであった。乃木神社は、現在の形に再建される前の小さな社であった。真偽のほどはわからないが、乃木夫妻が相対死したときの血が染み付いた畳2枚がご神体になっているというような話を当時からずっと信じ込んでいた。
今は、あまりあちこちと正見行脚をする機会が少なくなってしまっているが、以前、古賀市薬王寺の集落内にある神社で、拝殿に、乃木大将とステッセル中将が会見した「水師営の会見」の絵馬が掲げてあるのを発見したとき感激した思い出がある。乃木は、この会見の様子を写真に撮ろうとした英米国の記者に対して、敗軍の将が後々まで恥辱を残すような写真は日本武士道の精神に反すると拒否し共に帯刀してくつろいでいるスナップ写真(上記掲載画像)しか撮らせなかったという。この神社は、拝殿に格子戸があり錠がかかっていたので、格子戸の間から覗き込んで絵馬を見た記憶がある。
今まで乃木についての伝記は、桑原嶽著「名称乃木希典-司馬遼太郎の誤りを正す-」や吉川寅二郎著「嗚呼至誠の人乃木希典将軍」など数冊読んでいるが、ただその生死に対する潔さだけが心のどこかに刻まれていた。
潔いといえば、乃木資料館に「乃木将軍をいたみて」と題して「いさぎよく今まで見えし秋の霜きえて朝日の光まばゆき」と詠った椿山荘老生の句が保管されている。司馬遼太郎のように乃木を愚将と見て蔑(さげす)む人もいるが、やはり明治天皇の寵愛を受けた実直で潔い名将と見る人も多い。
私もこのような潔い人になろうと思い、そのような生き方をしてきたつもりであったが、どこでどう取り間違えたのか潔さが短気となり、若いときから回りの者とよく摩擦を起こして、随分と損をした生き方をしてきたような気がする。今、潔さは残っているのだろうか。
この「斜陽に立つ(古川薫著・安久利徳画)」は単行本となり、5月に毎日新聞社から刊行される予定という。
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