家族で、観音堂、権現祠、八幡宮に新年の参拝に出かけた。久しぶりの晴天で、山里の空気も澄んですがすがしかった。
観音堂で、以前、ご寄進した4個の灯明立て(鋳物)の配置が変わっているのに気づいたので元に戻そうと移動しているうちに、このうち2個だけが同じ大きさであることに気づいた。
そこで改めてお伺いをして、この2個を中央の観音像の前に配置したら、不思議と全体の配置が安定して気持ちよく参拝できた。こんなことで気持ちまで安定するとは、一つの気付きを教えられた。おそらく地元の人がお堂内を清掃されたときに動かされたものと思うが、こういう形をとって観音様が配置変えを教えられたのかと思った。
また、昨年暮れにRがお供したお神酒がそのまま残っていたので、本日の参拝でお供したお神酒と一緒に、参拝後、お堂の回りにまいた。お神酒の香りが漂い、この香りが微風に乗って辺りを清める。私たちの心身も清められたと思う。
権現祠では、以前置いていた灯明立て(陶器)がいつの日かになくなっていたので、本日、灯明立て(鋳物)を持ってきて祠内に置いた。と同時に娘が、祠の横にある樹木の根元を指差して、「あれじゃない?」と言った。確かになくなっていたと思っていた灯明立てが落ち葉のなかに転がっていた。
こんなに近くに落ちていたのに、どうしてこれまで気がつかなかったのだろう。冬になり、覆いかぶっさっていた落ち葉が飛んだのでわかったのだろうか。でも誰が、突風なのか、それとも動物か、夜行性の猪は、夜になると餌を求めてこの権現祠のある山裾や山里を徘徊しているのかも知れない。
あまり汚れていなかったので、指でなで拭き祠内に置いた。結局、本日持ってきた灯明立ては持ち帰ることになった。しかし、なくなっていたと思っていた灯明立てが出てきたので、なんだかうれしく、それを権現様が娘に教えてくださったのだと思い感謝した。
ここは山裾の崖上の林のなかにあり、今日も結構な風が吹いていたが、この灯明立てに立てた明かりは、勤行が終わっても燃え続けていた。この明かりは、権現様の喜びであり、それだけの力があることを示してあるのだと思った。自分の心身を空にしてこの力をいただけるようにしなければならない。灯明立てを手で持って火を消して崖を下った。
八幡宮拝殿に昇り、久しぶりに参拝した。拝殿の壁に、昨年秋の改修寄進者名簿が掲げてあるのに気づいた。拝殿横の崖崩れの補修工事が行われたようだ。こういった改修工事に地元各地区の氏子が費用を寄進される姿がうれしい。
境内の広瀬宮で参拝している間、その後方の杜で数羽の鳥のさえずる声がずっと聞こえていた。自然の中に立って参拝している自然な姿、この呼吸こそが自らの体内に気が入ってくる瞬間であるのに、日々多忙にして心身が疲れきっているとこの感覚を忘れそうになる。
ここは、かつて私が、この神社を初めて訪れたときに山の神の気を体得した場所である。きっと神は、その呼吸を思い出せと、鳥のさえずりをもって教えられたのだと思う。
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