平成20年(2008)新年にあたり、五條順教管長が現在の心境や今後の生き方について禅語や仏語を引いて表された言葉を「金峯山時報」元旦号に掲載されたが、この言葉は、そのなかにあった禅語です。管長の文章の一部を、そのままここに転載させていただきます。
「嶺のポッカリと浮かんでいる白雲は、悠々として動かず、閑静な風情である。渓川の水はサラサラと音をたてて流れ、停滞することがない。しかし、雲も水も共に何のとらわれもなく全く自然な姿である。全てに対して一切のこだわりがなく、また一切のとらわれがない、悠々閑々とした、あるがままの境涯を表しています。『雲悠々水潺々』を現在の私の心境というのは、甚だおこがましい境涯であります。私の理想としている境涯といった方がよいでしょう。日々の生活(日々の生活即修行が私の修行観であります)は、それを目指したものでなければなりません。たとえ生涯達成されなくとも、目指し続ける姿勢が尊いのです。私はそのように思っています。」
この言葉、この内容、思い出した。それは、私が30代の頃、御守護神を求めて、何かに憑かれたように山や滝での行に明け暮れていたとき、ふと教わったことだった。当時、同じ修行者のなかで、少しでも先に抜きん出ようとあせっていた。そして、このように行を競うようなことをしていたのでは、絶対に神の存在を悟ることはできないと気付かせられた言葉であった。修行は、あせらず、競わず、雲や川の水の流れのように自然体で行うことが必要と語りかけられたのであった。私に語りかけられた目に見えない存在こそが守護神であったと思う。あせらなくても守護神は必要なときに必要なことを教えてくださるものだと分かったとき、私は、修行の階段を一歩上った。
今、また管長からこの言葉を聞くとは、その頃のことを今一度思い起こせとのお諭しであると思った。考えてみると、最近、修行の指針を忘れかけていたような気がする。
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