2007年11月19日月曜日

高島先輩の「地を這いて光を掘る」を読んでいて思い出したこと

  西日本新聞の「聞き書きシリーズ」に、現在、佐賀女子短大学長である高島忠平先輩の「地を這いて光を掘る」が連載されている。全国的にその名が知られている国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」の発見と発掘に直接関わった高島先輩が、現在に至るまでの辛苦を思い出風に語られている。読んでいると先輩の心の中の動きまでがありありと分かり興味を引く内容となっている。
  私も、これまで何度か吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあるが、行くたびに周りの様子がめまぐるしく変わっており戸惑いを覚えた。今は、発見当時の様子を偲ぶことができないほど整備されているが、私は吉野ヶ里の吉野という地名に興味を持っていた。金峯山寺のある吉野山の吉野と同じ地名のためではあるが、その地名の由来を尋ねようとして、いつの間にか放置している。探究心の放置は若さの喪失かもしれない。
  さて、私が高名な人を捉えて「高島先輩」と書いたのは、高校時代に入部していた郷土部の3年上の先輩だったからであるが、入学当時、浪人中であった先輩は、たびたび部室を訪れ、熊大に進学された後も熱心に後輩部員の面倒を見られた。私もこともほか可愛がってもらい、郷土史研究の手ほどきを受けたことを今でも大事な思い出にしている。
  シリーズの第26回(11月15日)の文中の「僕は1939(昭和14)年、福岡県飯塚市のうまれ、ただ、おやじとおふくろは佐賀県の三瀬村(佐賀市)出身です。おやじの妹夫婦が…吉野ヶ里にも近い仁比山(神埼市)という集落に暮らしていて」という語りに思わず目が留まった。そして、忘れかけていた次のようなことを思い出した。
  ①高島先輩の御両親の出身地が佐賀県であることをいつ耳にしたかは、はっきりとは覚えていないが、確かお母様のご先祖が私と同族であったような記憶がどこかに残っている。また、ラグビーをされていた長兄の啓介氏は、私の大学の先輩であった(第29回に掲載あり)。
  ②以下の記述は、高島先輩とはまったく関係のないことで、上記の地名(神埼市)を見ていて思い出したことである。
  先祖のルーツを求めて各地を行脚していた頃、佐賀県下にも足を踏み入れた。高速道路もない時代に、それこそ休みのたびに佐賀県下に足を伸ばし走り回っていた。当時どうしたものか、俗に言う「霊を受け被る」状態が続き、その流れのなかで長い間、神社の鳥居をくぐることができなくなっていた。
  ところが、神埼市の櫛田神社の鳥居の前に立ったとき、突然、すっと体が引っ張られ、そのままさっと歩き出して鳥居をくぐって境内に入った。同行していた一教師が、びっくりして思わず「先生!」と叫んで呼び止めたほどだった。そして、思いもしなかった場所にあった櫛田の神の霊地に導かれた。今でいう正見行脚の記念すべき一瞬で、この日を境にいずこの神社でも鳥居をくぐれるようになった。ここは、博多の櫛田神社の元宮のようである。  さらにその後、仁比山の外れにある霊地に導かれて行ったことなど、いろいろ忘れていたことを思い出したのである。
  ③ついでにいうと上記記事の地名からは少し離れるが、当時の佐賀県下での行脚の最後となったのが武雄市の松尾神社であった。この松尾神社の境内に入ったとき、ゲートボールを楽しんでおられた老人が側に寄ってこられて拝殿に案内され、その扉の鍵を開けられて、かしこくも御一緒に参拝されたのである。やむを得ずは白衣を羽織り当時覚えていた祝詞をあげたが、不思議に思い尋ねたら、「あなたが神官だから」と言われた。これと同じようなことが他の地でもあり、その場にいた人には、私にはまったく見えない御守護霊のお姿が見えていたのかも知れない。以後、まったく同神社に行ったことはない。 なお、上述②の博多の櫛田神社境内にも松尾神社がある。
  ④また、脳裏にあった先祖とも関係のある千手観音のある場所を求めて佐賀県下に入ったとき、神仏に導かれるように潮塞観音(福冨町)に行き着いたことがあった。大正3年8月、台風による高潮被害を食い止めたところからその名が付いたという。その後数回参拝に行ったものの、平成6年8月27日を最後に以後訪れた記録がない。
  高島先輩の新聞連載を読んでいて思わぬことを思い出したものだ。そして、私は、忘れかけていたこれらの地区に「再度思いを馳せよ」という知らせを先祖から頂いたのではないかと思った。私の正見行脚の修行は、高年の域に達して「再度振り出しに戻ってやり直せ」といわれているのかも知れない。

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